男がいなくなった部屋の中で、シュンは椅子から立ちあがり(もう拘束は解けていた)、憤慨しながら辺りを歩きまわった。
「なんなんだよあいつ。言いたいことだけ言いやがって……なにが自由・平等・博愛だよ。ただの冷血漢だろ」
吐き捨てるように言ったあとで、シュンはふと周りを見まわして言葉を失った。
白一色だったはずの部屋は、いつのまにかホテルの一室のような部屋に様変わりしていた。壁にはクリーム色の壁紙が貼られ、床には隙間なく赤い絨毯が敷かれている。
どうやらまた自分は移動したらしい。
こちらには、人を勝手に移動させてはならないという法律はないのだろうか。
「ないんだったな……」
シュンはため息交じりに言ってから、髪に手を突っこんで、ぐしゃりと掻きまわした。
この世界には法律そのものがない。だれにも訴えることは叶わない。
(本格的にやばくないか? 俺)
どうにかしてここから逃げなければ。
だがどうやって帰る?
考えがまとまらないまま、シュンは扉の取っ手に手をかけた。
――動かない。
鍵がかかっているのだろうか。ならばとシュンは扉を足で蹴ったが、驚きで思わず声をあげた。扉に足が触れた瞬間、扉が柔らかな弾力のある素材に変わり、足の衝撃を吸収して押し戻してしまった。扉だけではない。どこの壁を蹴っても結果は同じだった。
(出られない……)
シュンは力なく床に坐り込んだ。
どんな物事にも欠陥があり、抜け穴がある。完璧なものは存在しない。
それが自分のいた世界だった。しかしその常識は、こちらではまるで通用しないようだった。
おそらく、あの青年のように力を使わなければ、この部屋から出ることは不可能だ。
(俺、一生軟禁されてここで暮らすのか?)
――運が悪すぎる。なぜよりによって彼女に出会ってしまったのだろう。
けれどあの時、会社をサボろうと思ったのは自分だ。そして、彼女に声をかけたのも自分。彼女はただあそこにいただけだった。すべては自分自身で選んだことだ。
(だからって、こんなことになるなんて思わないだろ)
確かに向こうでの生活にはうんざりしていたが、いきなり拉致された上に、こんな非人道的で理不尽な扱いを受けるはめになるなんて。
そう思ったとき、シュンは急激な疲労感に襲われた。
(だめだ。無駄に抵抗したせいで疲れた)
しかし、この部屋には調度品がなにもない。仕方なくシュンは床に寝転ぼうと床に手をついたが、その途端、いきなり寝台と枕が現れ、シュンの身体を柔らかく受け止めた。
落ち込んでいたことも忘れ、シュンはしばらく寝台の上で呆然とした。どうやらこの部屋は、自分が出したいと思った物を出せるらしい。
(……便利だな)
しかも寝台に敷いてあるマットレスは、シュンが今まで泊まったホテルのどれよりも寝心地がよかったし、枕もちょうどいい高さと硬さだった。
寝返りを打ちながら、シュンはふと思った。
(でもこれって、考えようによってはものすごく幸運なことなのかも)
部屋からは出られないが、ここにいればもう働かなくていいのだ。食事の心配もしなくていい。家賃とか、携帯料金とか、税金とか、年金とか、電気代とか水道代とか、そういう心配もしなくてすむ。
(……金のことばっかりだな)
シュンは自分の発想に呆れてため息をついた。だが金銭の心配をしなくてすむのはありがたかった。それにどうせ向こうにいたところで、同じことを繰り返す日々を送るだけだったのだ。だれかにああしろこうしろと指図され、こき使われるくらいなら、たとえ自由がなくても、こちらの世界のほうがよほどマシというものだ。
労働力としてではなく、自分自身を見てくれる人間だっていない。
たとえ拉致されているのだとしても、彼女が自分を必要としてくれているなら――。
シュンは固く瞼を閉じた。
(そんなわけ、ないだろ)
彼女と出会ってすべてが変わる。
物語でもないかぎり、そんな都合のいいことがあるはずない。
あるはずが、ない。
いろいろ考えているうちに眠気が襲ってきて、シュンはこらえきれずあくびした。
こんなに寝具が快適なのに、寝るなというほうが無理な話だ。それでなくてもありえないことの連続で、睡眠を取らないと、これ以上頭が働きそうにない。その上向こうでは、連日睡眠時間を削って仕事をしていたのだ。
あの男の言うことが本当なら、寝た隙に危害を加えられるということはないだろう。それにまだ、これが夢だという可能性も捨てきれない。一度寝て起きればすべて元通りに――そんなことを考えながら、シュンがうつらうつらしていたとき、視界になにかがぼんやりと映り込んだ。だれかが自分を覗き込んでいる。
シュンは重い瞼をこじ開け、なんとか焦点を合わせた。
無邪気さを湛えた黒目がちな瞳が、じっとこっちを見つめている。
それがだれかわかったとき、シュンは眠気も忘れて勢いよく起きあがっていた。
「どっから入ったんだよ!?」
そこにいたのは、二週間前に会った女性だった。
あの日とは違う、薄い黄色地に花柄のワンピースを着た女性が笑顔で答える。
「どこからって、ここからよ。ノックしたでしょう?」
女性の傍らには、宙に浮いた大きな木製の扉があった。
シュンは睡魔に襲われて、ろくに聞いていなかったことを棚に上げることにした。
心の準備ができないまま再会するはめになってしまい、シュンはどうしていいのか迷った。彼女には言いたいことがたくさんあったはずなのに、今はなにも思い浮かばない。
シュンはとりあえず会話を続けることにした。
「だからって勝手に入るなんて……だいたい、この部屋ってだれも入れないんじゃ」
「この世界にわたしが入れない場所はないわ。ジーンは外側の守りのことばっかり考えて、この部屋の空間にはなにも仕掛けを作ってない。だからこうやって扉を作って空間を繋げてあげれば、簡単に中に入れる」
女性がシュンに悪戯っぽく笑ってみせる。
「ジーンはいつも脇が甘いの」
シュンがなにも言えずにいると、女性が手を差しだした。
「さあ、行きましょう」
「行くってどこに」
「もちろん、ピクニックよ。あなたに助けてくれたお礼をするわ」
「……なにがお礼だよ」
シュンは自分でも顔が険しくなるのがわかった。
(ピクニックだって? それより謝罪が先だろ)
彼女のまったく悪びれていない態度を見ていると、シュンは猛烈に腹が立ってきた。
「君のせいで、俺はこの世界に無理やり連れてこられたんだぞ」
正確に言うなら抵抗する暇もなかったのだが、シュンはかまわず続けた。
「なんで君を助けたらこんな面倒なことになるんだよ。なんで君は俺みたいにやつに興味を持った?」
どいつもこいつも勝手だとシュンは思った。だれもが自分を軽んじる。
「……迷惑だ。こんなの、世界を人質に取った脅迫だ。どこにでも行けて入れるなら、さっさと俺を元の世界に返せよ」
そう一気に言って、シュンは女性を睨みつけた。しかし、それも束の間のことで、女性の顔を見てシュンは目を見開いた。
「なっ」
女性の両目からは、幾筋も涙が伝っていた。女性は鳴き声もあげず、顔を歪めることもなく、ただ静かに泣いていた。
(な、泣くとか卑怯だろ……!)
なぜ自分が被害者なのに、加害者のような扱いを受けなければならないのだ。
「ご、ごめん、俺が言いすぎた」
シュンが慌てて言うと、女性が頬を涙で濡らしたまま不思議そうな顔になった。
「どうしてあなたが謝るの?」
「なんでって……泣かせたから」
「どうしてわたしが泣いたら謝るの?」
シュンは目をしばたたかせた。そんなことは考えたこともなかった。
「だって、悲しかったんじゃ」
人を傷つけたら謝るものだ。たとえ、相手がどんな人間だったとしても。
「さあ? 自分でもよくわからない」
女性は目元を指で拭い、自分の涙で濡れた指先をじっと見つめながら言った。
「悲しかったわけじゃないの。ただ……怒られるのが久しぶりだったから」
それはやっぱり悲しかったのではないかとシュンは思ったが、女性が黙ってしまったので、言うのをやめておいた。
女性がうつむけていた顔を上げ、シュンのほうを見る。
「じゃあ、お礼じゃなくてお詫びをするわ。それならいい?」
「まあ、うん、それなら」
シュンが仕方なく言うと、女性の顔がぱっと明るくなった。
「ほんと?」
「うん」
とりあえず、この部屋から解放されるならなんでもいい。シュンはそう思った。
