第5話 拉致

(……やっぱり最悪だ、この会社)
 ふらついた足取りで廊下を歩きながら、シュンはそう思った。
 なんとか期限には間に合ったものの、出来は最低だった。
 プレゼンから帰った社長が全員を集め、クライアントがいたく喜んでいたことを報告していたが、シュンは冷めた気持ちでそれを聞いていた。
 きっと、たいして評判にはならないだろう。しかし、自分たちの仕事は注文されたとおりにゲームを作ることだ。仕事を完了させれば金は入ってくる。
 でもそんなことばかりしていて、この業界に未来はあるのだろうか。しかもあれだけ頑張ったのに、社長からはねぎらいの言葉ひとつなかった。
(いや、べつにそんなものなくてもいい。給料を上げてくれさえすれば)
 しかもこの四年、シュンの給料はほとんど上がらない。それなのに物価は上昇し続け、税金も社会保険料も上がり続けている。
 それでどうやって生きていけというのだろう。このまま振りまわされ、こき使われているだけなんて耐えられない。本気で転職を考えたほうがいいかもしれない。でも、ほかの会社でやっていく自信なんてない。
 歩きながら、シュンは足がふらついて壁に手をついた。
 それより、猛烈に眠い。さすがに連日の残業は二十代でもこたえた。今日は途中退社して、着替えだけして寝落ちたい。
(その前に、顔洗ってこよう)
 一時的にでもいいからこの眠気を覚まさないと、このまま電車に乗っても寝過ごしかねない。
 シュンは洗面所の蛇口をひねって水を出し、顔を洗った。
 しかし、再びシュンが顔を上げたとき、鏡に映っていたのは自分の姿ではなかった。
 眠気で頭がおかしくなったのかと思ったが、はっきり見える。鏡の中で、若い男が無表情にじっとこちらを見つめていた。同性の自分でもはっとするほど端正な、美形という言葉が相応しい面立ちの青年だ。
 シュンは驚いて後ずさったが、もう遅かった。
 青年が軽く指を曲げて、手招きする仕草をする。
(来い)
 青年の低い声が直接脳裏に響いた瞬間、シュンの視界はいきなり真っ暗になった。

 再び世界が明るさを取り戻し、シュンは辺りを見まわした。
 白い。まっさきに思ったのはそれだった。無機質で温かみのない、まるで病室のような部屋の中央にシュンは移動していた。
 しかも、そこに置かれた椅子に腰掛けた格好で。
(……いったいなにが起きたんだ?)
 自分は確かに洗面所にいたはずだ。しかし、びしょ濡れだったはずの顔と両手は、何事もなかったかのように完璧に乾いていた。
 シュンは恐る恐る椅子から立ちあがろうとしたが、あえなくそれに失敗した。まるで磁石にくっついているかのように、背中と腰が背もたれから離れない。試しに椅子ごと持ち上げようとしてみたが、椅子はびくともしなかった。
「ようこそ、こちら側の世界へ」
 聞き覚えのある声がして、シュンは椅子と格闘するのをやめて正面を見た。というよりも、身体の向きを変えられないのでそれしかできなかった。
 シュンの予想通り、目の前に現れたのは、鏡に映っていたあの青年だった。
 きりりとした眉に涼しげな目元、形のいい鼻。肌の色は抜けるように白く、まるで映画俳優のように整った顔立ちをしている。自分と同じ黒目黒髪で短髪なのに、ここまで違うものかと、シュンは複雑な気持ちになった。
「……拉致されるときは、黒い服を着た男たちに囲まれて、頭から袋を被せられるのかと思ってたのに」
 動揺していることを悟られたくなくて、思わずそんなことを口走ると、青年が真顔で言った。
「映画の見すぎだな。わたしたちはそんな手荒な真似をせずとも、君をこちら側に連れてこられる」
「方法の問題じゃないだろ。結局、俺があんたに拉致されてる事実は変わらないんだから」
 シュンが指摘すると、男が器用に片眉を上げた。
「ずいぶん冷静なんだな」
「拉致の仕方が洗練されてるから感心してるんだ」
 言いながら、シュンは脚を組んだ。背中と腰は相変わらず背もたれに張りついたように動かなかったが、手足が拘束されていないのはありがたかった。これなら、学校の教室よりはずっとマシだ。
「どうせあれだろ、俺がここに連れてこられたのは、彼女となにか関係があるんだろ」
「察しがいいな」
「そりゃまあ、変わったことなんてそれくらいしかなかったし」
 シュンは肩をすくめて言ってから、男の顔をじっと見た。
「当てようか。彼女はどこかの国から抜けだしてきたお姫様だった、とか?」
 シュンはあの映画を思い出して、冗談半分に言ったのだが、男は驚いたように一瞬目を細め、すぐにまた真顔に戻った。
「向こうの世界の住人にしては、なかなかの想像力だな。ただし、国ではなく世界だ」
「……どんな?」
 話の規模が大きくなってきたが、シュンは気にならなかった。
 これだけの超常現象を目の当たりにしておきながら、今更常識的な突っこみを入れるのはというものだ。むしろ自分には、このありえないことばかり起こる世界のほうがしっくりくる。
 そもそも自分は、向こうの世界にまるで馴染めていなかった。群れるのは苦手だったし、どの集団にいても、ベタベタした馴れ合いのような関係を求められるので、意図的に避けてきた。ここは自分のいるべき場所じゃない。いつもそう思っていた。
「その説明はあとだ」
「なんでだよ」
 話の腰を折られて、シュンはがっくりした。
 ゲームだって操作説明チュートリアルがあるのに、彼は不親切だ。
「これから君はずっと我々の管理下で暮らすんだ。今はそれだけわかっていればいい」
 聞き捨てならないことをさらりと言われ、シュンは束の間言葉を失った。
「ずっとって……俺がいなくなったら、さすがにみんな不審に思うだろ」
 自分は会社から突然消えたのだ。退出記録が残っていないのは不自然だし、何日も無断欠勤すれば、なんらかの事件に巻き込まれたと思われて警察が動きかねない。
「問題ない。君をこの世界に連れてくるときに、君の分身を作っておいた。よって、向こうの世界で捜索届を出す人間はいない」
(マジかよ)
 では、向こうで自分の不在に気づく人間はだれもいないのだ。
 完全犯罪の成立である。
(って、ナレーションしてる場合か)
「安心しろ。手足を拘束するつもりはないし、衣食住に不自由はさせない」
 当たり前だよと思いながらも、シュンは気を取り直してまた口を開いた。
「そんなことより、まだ肝心なことを聞いてない。なんで俺があんたらに拉致されなきゃいけないんだよ」
「彼女の力を抑えなければ、我々の世界に悪影響が出るからだ。それで協議した結果、特例で君をしばらくこちらに連れてくることになった」
 シュンは顔をしかめた。
「意味がわからない。なんでそんなことになるんだよ」
「彼女が君に会いたがっているんだ。そのせいで一週間雨がやまない。我々の世界を救うためだ」
「……セカイ系かよ」
 シュンは思わずそう口に出して突っこんでしまった。自身はオタクではないが、ゲームを作る以上サブカルチャーの知識は頭に入れていた。
 社会的な地位や権力を持たない平凡な主人公が、なぜか世界の命運を左右するほどの事件に巻き込まれてしまい、政府や行政機関をすっ飛ばして、主人公とその周辺にいる人間のみで世界の行く末が決まってしまう。そういった社会描写が希薄な創作物は、シュンのいる国ではセカイ系と呼ばれて揶揄されていた。
 これでは自分は、そのセカイ系アニメに出てくる主人公そのものだ。
(いや、でもあれってだいたい未成年が主人公だし……)
 ただの会社員が主人公なんて、聞いたことがない。
 しかも主人公は平凡と言いつつ、実は両親が特別な才能や出自や経歴を持った人間だったりするのだ。一般家庭出身の人間は、創作の世界でさえ主人公になれない。
 青年が困惑した表情で首をひねる。
「それはどういう意味だ? おまえたちの世界の辞書に、そんな言葉はなかったはずだが」
「こっちの話だよ。それより、あんたらは俺にこっちの世界を救うためのひとくうになれっていうのか?」
「そうだ」
「ふざけるなよ。こっちの世界には人権ってものがないのか?」
 学校の授業内容はたいして覚えていないが、それくらいは知っている。
 他人を拉致して自由を奪う権利などだれにもない。自分の世界ではそういうことになっている。
 しかし、青年は鼻で笑っただけだった。
「わたしたちは君たちとは違う。そんなものを保障せずとも、罪を犯す人間そのものがいない。人を傷つける人間もな」
 シュンは耳を疑った。犯罪者がいないだって?
「嘘だろ?」
「嘘もつかない。君はたいして知らなくてもいいと思っていたが、ちょうどいいから説明しておこう。我々の世界には刑法も裁判もない。よって、警察官も検事も裁判官も弁護士も、法曹に関わる人間はだれもいない。我々は死後、アイオーンによってのみ、現生の行いを裁かれる」
 聞き慣れない単語にシュンは眉を上げた。
「アイオーンって?」
「我々の世界を作った存在だ。おまえたちが神と呼んでいるものに近い」
 神だって?
 シュンは反応に困った。自分の世界にある宗教団体は、その大部分がろくでもないものばかりだ。人の不安につけ込み、偽りの救いを説いて支配する。高額な商品を買わせたり、無償で奉仕させたり、過激な団体ならテロ行為に及ぶこともある。
 異世界人である彼らも、そういう危ない宗教に洗脳されているのだろうか。
 まさか、彼女はそこからこっそり抜けだして、自分のところにきたとか……?
 シュンの考えていることを表情で察したのか、ジーンが深いため息をついた。
「おまえたちの世界にあるカルト宗教団体と、わたしたちを一緒にするな。わたしたちはアイオーンの権威を借りてほかの人間を支配することはない。金儲けもしない」
「でも法治国家じゃないんだろ」
 シュンが言い返すと、青年の視線が険しくなった。
「わたしたちが野蛮だとでも言いたいのか?」
 青年は瞬間移動すると、シュンに顔をずいと近づけた。シュンは距離を取りたかったが、残念ながら椅子のせいで動けなかった。なにが楽しくて、美形の男と至近距離で見つめ合わなければならないのだろう。勘弁してほしい。
「個としての独立を果たした我々には、法律や憲法による束縛など必要ない。さらに言えば、我々の世界には国家も差別も格差も存在しない。自由・平等・博愛。それらがわたしたちの世界では実現されている。我々は外見に囚われず、物事の本質を見抜けるのでね」
 青年は淡々と言うと、シュンを嫌悪感の入り交じった表情で見つめた。
「わたしたちにしてみれば、おまえたちのほうがよほど野蛮だ。その上、救いようがないほど愚かで無知だ。おまえたちが自身の欲望や感情を制御できず、すぐに罪を犯すから法があるというのに、そのことをまったく反省しようとせず、あろうことか開き直っている。だからおまえたちは権力者に都合のいい法を押しつけられて支配され、ちっぽけな財産を溜めこむために、貴重な時間の大半を労働に費やして死ぬはめになるんだ」
 青年は嘆かわしいとばかりにため息をつき、また先を続けた。
「アイオーンは、おまえたちの愚かさと罪深さに失望して、この世界をおまえたちの世界の裏側に作ったんだ。そしておまえたちの世界から、まだ大人の押しつける理屈に染まっていない、力を持った人間の子供だけを我々の世界に招待してきた。おまえたちが変わり者だと決めつけて、爪弾きにしてきた子供たちをな」
 言われてシュンはむっとした。むしろ自分は変わり者だと思われて除け者にされてきたほうだ。そういう人間と一緒にされるのは心外だった。
「おまえたちの世界にいる名だたる芸術家や科学者は、我々の招待に応じず、あえておまえたちの世界に残った人間たちだ。それなのにおまえたちときたら、彼らの残した偉大な功績の上に胡座をかいているだけで、頭の中にあるのはいつも金儲けと見栄を張ることだけ。敬意などじんもない。価値もまったくわかっていない。なにも価値のあるものを自らの手で生み出せない。それどころか、この星を自分たちの手で壊している」
「それは、そうかもしれないけど……そんなこと言ったって」
 ただの一介の労働者である自分になにができるというのだろう。
 世界は、というより今の社会は、セカイ系アニメのように、主人公の一存ですべてを変えることができるほど単純にはできていない。人々の総意がなければ、物事は決して動かない。逆に言えば、一度こうだと決まってしまえば、個人の力では決して逆らえない。働きだしてから、シュンはそのことを痛感した。
「どうせ君が彼女をたぶらかしたんだろう」
「はあ!?」
 シュンは思わず素っ頓狂な声を上げてしまった。
 いきなりなにを言い出すんだろう、この男は。
 青年がシュンを敵意に満ちた目で睨む。
「彼女は純粋なんだ。君が騙しでもしない限り、彼女が君に興味を持つはずがない」
 青年の一方的な言い分に、シュンは呆れた。
「純粋って……彼女は未成年じゃないだろ。いつまでも子供扱いするなよ」
 しかし、青年はまたしてもシュンの言葉を無視した。
「本来なら、君は二十四時間監視される予定だった」
「なっ」
 二十四時間だと? シュンは絶句した。それではプライベートもなにもない。
「それを説得してやめさせ、君の私的な空間を保護するように進言したのはこのわたしだ。我々は他人に秘密にすることなどないが、おまえたちは違うからな。ここにこうしていられるだけでもありがたいと思ってほしいものだ」
(なんでここまで上から目線で言われなきゃいけないんだよ……)
 シュンは言い返したいのをどうにかこらえた。
 拉致したのは彼らのほうだ。自分が無理やり押しかけたわけではない。
 普通の国同士なら、外交問題になる案件のはずなのに。
「話はそれだけだ。わたしは忙しい。これで失礼する」
「待てよ、俺はまだなにも――」
 シュンは慌てて言ったが、男はシュンに背を向けると、さっさと瞬間移動で姿を消してしまった。