第39話 決別

 リートたちを見送ったあと、ミヒャエルは扉を閉め、執務机に向かって歩を進めた。
 椅子に坐ったまま、こちらの様子をうかがっているハインリヒと、ミヒャエルは机を挟んで向かい合った。
「閣下。天啓者の件はお断りします」
 ミヒャエルが単刀直入に言うと、ハインリヒはしばらく黙っていたが、やがてそっけなく言った。
「それがおまえの答えか」
「はい。彼はわたしの友人ですから」
「友人だと? 本気で言っているのか」
 ハインリヒを見つめながら、確かに友人という概念がこれほど似合わない人間もそういないとミヒャエルは思った。
 しかし、それは自分もまったく同じだった。
 ハインリヒと自分は、そういう他人を信じていないところがよく似ていると、ミヒャエルは思っていた。だからこそ、自分はこの男の政治信条にはまったく同調できなくても、今まで淡々と従ってきた。
「わたしは今まで、事件の真相を解き明かし、いたずらに醜聞になることを避けるためにあなたに協力してきました。だがそれは、意図的に真実を歪めることと同じだった。あなたはそうやって人の犯罪を利用し、弱みを握ることで今の地位に上り詰めた」
 ハインリヒが鼻を鳴らす。
「利用とは人聞きの悪い。それが手柄を立てるということだ。貴族と組織の権威を傷つけず守ることが、ひいてはこの国を守ることに繋がる」
 話しながら感情がたかぶってきたのか、ハインリヒは片手の拳を握りしめ、上下に振りはじめた。その動きは議会での演説さながらに熱がこもっていた。
「権威こそがすべてなのだ。貴族の権威なくして、だれが王を守る? 権威なき国にだれが従う? リヒトなど、もはや権威たり得ない時代遅れの愚物だ」
 そう語るハインリヒの顔には、権力者特有の全能感に支配された傲慢さがあった。
 その言葉にはあえて反論せず、ミヒャエルはハインリヒをまっすぐに見つめた。
「わたしは事件の真相をすべて知っている。わたしがメルヒオルになにもかも話せば、あなたの政治生命は終わる」
 ハインリヒが小さくため息をつく。
「ハーナルを辞めて、わたしの秘書官になる気はないのか」
 ミヒャエルは思わず笑いだしそうになった。
 ほんの少し前、権力を手に入れようとして失敗し、自分を見失った秘書の悲惨な末路をこの部屋で見届けたばかりだというのに。
「ご冗談を。わたしはハーナルを辞めるつもりはありません。団長には事の真相をすべて話すつもりです。わたしは父のようになりたくありませんから」
「おまえが嫌悪していたのは、父君のように、私利私欲のために醜い権力争いを繰り広げる貴族だろう? わたしは彼らを利用し、だれも殺さず権力を握った。わたしのやり方をおまえは支持してくれていると思っていたが」
 ミヒャエルが目を伏せる。
「そう思っていました。ですが、権威はすべての人間を守ってくれるわけではない。人を抑圧することもある」
「守るだと? おまえはいったいなにを求めているんだ?」
 当惑するハインリヒに、ミヒャエルは口元だけで笑った。
「……さあ、それはわたしにもわかりません」

 ミヒャエルはハインリヒの部屋を出ると、一つ息を吐いた。
 これからどうなるだろう。だが、きっと悪いようにはならない。リートたちの顔を思い浮かべながら、ミヒャエルはなんとなくそう思った。
 こちらに歩いてくる足音が聞こえたのは、その時だった。
 ミヒャエルの視線の先には、いつもと同じように白の法衣を着たメルヒオルがいた。
 あまりの時機の良さに、ミヒャエルはこれもまだ劇の中の出来事なのではないかと疑ったが、ブロスフェルトが逮捕されたことを考えれば、彼の動きは当然だと思い直した。これで神聖派は失墜をまぬがれる。
 ミヒャエルはじっとメルヒオルを見た。
「あなたと団長の作戦だったんですね。あなたは爆破事件が起きたときから、閣僚の中に内通者がいると睨んでいた。そして、わたしたちを陽動にして、黒幕を釣り出そうとした」
 ミヒャエルがそう言うと、メルヒオルが静かに微笑んだ。
「王女から話を聞いて、試してみる価値があると思っただけだよ。それに、今回の件は王女にもいい薬になった。王女には行動力がある。だが、それが必ずしも良い結果に繋がるとはかぎらないとね」
「だが、釣れたのはブロスフェルト卿とディートリヒだけ。真相解明にはほど遠い結果だ」
「それでも、ベギールデがこの件に関わっていることははっきりした。それだけでも収穫だよ。深入りしすぎて、君もルイスも失うわけにはいかないからね」
 そう語るメルヒオルのまなざしは、ひどく優しかった。
「君はハーナルの優秀な騎士だ。リューディガーも君には期待している」
 ミヒャエルは黙ったままうつむいた。
 優秀な騎士。はたして本当にそうだろうかとミヒャエルは思った。
 自分はそんなものになりたかったのだろうか。
「リューディガーにはすべてを話しても大丈夫だよ。君の動きにはあえて目をつむっていたようだから」
 その言葉を聞いたとき、ミヒャエルはいつものように切り返すこともできず、微笑むメルヒオルを呆然と見つめることしかできなかった。
 この人は、どこまで自分のことを知っているのだろう。
 今のミヒャエルには、訊ねる勇気がまるで湧いてこなかった。
「わたしはこれで失礼します」
 ミヒャエルは言葉少なに言うと、逃げるようにメルヒオルの横を通りすぎようとした。
 表情にこそ出さなかったが、ミヒャエルはメルヒオルといることが恐ろしかった。
 自分の運命はすべて彼に握られていて、この先自分がどうなるか、彼はすべて知っている。どうあってもそこから逃れることはできない――そんな妄想にとらわれてしまう前に、一刻も早く彼のそばを離れたかった。
 メルヒオルは、そんなミヒャエルの心中を見透かしたかのように、じっとミヒャエルを見た。思慮深げなグレーの瞳がすっと細められる。
「君はいつまでそうやって、自分を苦しめ続けるつもりなのかな」
 ミヒャエルは足を止め、ふと思った。
 自分を閉じ込めているのは、ほかでもない自分自身なのかもしれない、と。
 思わず自嘲的な笑みが漏れる。
「……そのほうが楽ですから」
 だが、そこからどうやって抜け出せばいいというのだろう。
 今のミヒャエルには、まるでわからなかった。

 扉が開き、ミヒャエルが部屋に入ってきたので、リートはほっと息を吐いた。
「おかえり、ミヒャエル」
 なにも考えずそう言ってから、リートは自分がなにを言ったか認識して赤面した。
 おかえりなんて……彼は自分の家族でもないし、ここは彼の家じゃないのに。
 リートが赤くなっている横で、傍らにいたルイスがまっすぐにミヒャエルを見つめた。
「どうしてあの時抵抗しなかった」
 ミヒャエルが肩を竦める。
「彼の言うとおりだからさ。わたしはそんなに善い人間じゃない」
「おまえがどう思おうと、それはおまえの勝手だ。だがリートは違う。リートにとっておまえはただの他人じゃない。リートを傷つけるようなことをしたら、わたしはおまえを許さない」
「気をつけるよ」
 そう言ってから、ミヒャエルが空いていた椅子に腰掛けると、その向かい側に坐っているエミリアが、ミヒャエルに微笑みかけた。
「わたしに守られた気分はどう?」
 ミヒャエルが答える前に、エミリアが肩を竦める。
「なんてね、冗談よ。あなたが犯罪者にならなくてよかった」
 ミヒャエルが苦笑する。
「……感謝しているよ」
「それならよかった」
 エミリアはにっこり笑い、皿に盛ってある菓子に手を伸ばしかけたが、あ、となにかを思い出した表情になった。
「そうそう、いい機会だからついでに言っておくわ。あなたがわたしの婚約者に選ばれたのは、純粋に母の意向よ。母は政治的なことはなにも考えてない。ただ面食いなだけ。だからそんなに策をろうさなくても、あなたは大丈夫よ。少なくとも、母の目の黒いうちはね」
 エミリアの言葉に、ミヒャエルが困ったように笑う。
「それはありがたい、というべきなのかな」
「あら、あなたにしては鈍いわね。さっきのは、だから遠慮せずに、わたしと母にもっと甘えればいいって意味よ」
 エミリアがそう言って片目をつむると、ミヒャエルは降参とでも言いたげな表情を浮かべてみせた。
「……ミヒャエル」
 リートは緊張しながら口を開いた。
「最初はどうでも、僕はあなたと知り合えてよかったと思っているから。だから、これからも仲良くしてほしいな」
 ミヒャエルはしばらく黙っていたが、不意に真剣な表情になった。
「本当にそれでいいのか? わたしは君を利用していたのに」
「でも、ここにいるってことは、あなたはハインリヒじゃなくて、僕らといるほうがいいって思ったんじゃないの?」
「ああ、そうだ」
「だったらべつにいいよ。たぶん、僕はあなたの個人的なことにはたいして興味がないんだ」
 それよりも、せっかくできた話し相手を失うことのほうがリートはいやだった。
「やっぱり、僕って変かな」
 リートが苦笑しながら言うと、ミヒャエルがにやっと笑った。
「そうだな。君はエミリアとルイス以上におかしい」
「あら、聞き捨てならない発言ね。あなた、わたしをおかしいと思ってたの?」
「今すぐ撤回しろ。おまえにだけは言われたくない」
 抗議するエミリアとルイスに向かって、ミヒャエルは涼しい顔で言い放った。
「撤回はしない。事実だからな」
「また屋敷に行ってもいいかな。今度はみんなで」
 リートがそう申し出ると、ミヒャエルは一瞬驚いたようだったが、いつもの穏やかな微笑ではなく、はにかむような笑顔を浮かべた。
「……ありがとう」

 そのあと、ハーナルの団長にすべてを打ち明けたミヒャエルは、謹慎になったことを三人に告げた。
「仕事はしばらく休みだ」
「念のために訊くけど、謹慎中は大人しくしてるよね?」
 リートがそう訊ねると、ミヒャエルが無念そうな顔で笑った。
「残念だが、そうするしかなさそうだな」
「ってことは、なにかするつもりでいたわけね。協力してもいいわよ?」
「ミリィ」
 ルイスがいさめるように名前を呼ぶと、エミリアは肩を竦めてカップに口をつけた。
「冗談よ。さすがにわたしも懲りたわ。でもちょうどよかったじゃない。ベギールデもこちらを警戒しているでしょうし、しばらくは大人しくしているわよ」
 いつもの賑やかさを取り戻した光景を見つめながら、リートはふと思った。
 行かないで。
 自分は、そうミヒャエルに言いたかったのかもしれないと。
 だが、いったいどこに?
 しかし、そう思ったのも束の間、リートはその問いを自分が発したということも忘れてしまっていた。