外で食事をしていると、シュンはたまに違和感を覚えることがあった。
気を抜けば、自分はいつこういう世界から転がり落ちても不思議じゃない。
なぜか、そんなふうに思ってしまう。
こういう世界。それは、携帯電話のアプリでだれかと連絡を取り合う世界。
電車に乗っていれば、自動的に目的地に着く世界。
店内に流れているおしゃれなBGMを聞き流す世界。
店員に席を案内され、出された水を飲みながらメニューを広げる世界。
そういう、この国に住んでいるほとんどの人間ができて当たり前だと思っている、普通の世界。
「メニュー、決まった?」
「え、ああ、はい……」
シュンは慌ててメニュー表から顔を上げて、舞花に返事をした。
舞花とは、いつもこの店で食事をするのが恒例になっていた。
外食は苦手だが、シュンはこの店はわりと気に入っていた。適度に大衆的で、値段は高くも安くもない。店内の雰囲気も使っている食器も料理も、どれも気が利いていて、店員の教育も行き届いている。
だが――なにもかもがしっくりこない。すでにできあがっている映画のセットのなかにいきなり放り込まれて、用意された役柄を演じている。そんな息苦しさを感じてしまう。向こうの世界で過ごしたあとでは、その思いはますます強くなっている気がした。
でもそういうことを舞花に話したことはないし、話そうとも思わなかった。コーヒーが苦手だという点を除けば、舞花はまるっきり普通の女性だ。自分の気持ちはまったく理解できないだろう。でもそれが彼女のいいところだとシュンは思っていた。
学校でも会社でもうまくやれなくても、彼女といると、劣等感を持たずにすむから。
……普通でいられる気がするから。
舞花が面白そうに笑う。
「シュンくんはいつも悩んでるね。わたしも遅いほうだけど」
シュンは苦笑いを浮かべてみせた。
「普段は外で食べないので、慣れてなくて」
実際、母と暮らしていたときは家計が厳しいせいで、特別な日以外に外食はほとんどしなかった。だが本当はいつもメニューをざっと見てから、十秒もかからず決めている。悩んでいるふりをしているのは、彼女を急かすようなことをしたくないからだった。
舞花がシュンをじっと見たあとで、出し抜けに言った。
「……よかった」
「なにがですか?」
「やっぱり、いつものシュンくんだと思って」
シュンは首を傾げてみせた。
「そんなに変でした? 最近の俺」
同僚たちの反応を見ても、だれも気づかなかったのは明白だ。ジーンは分身だと言っていたし、変な振る舞いはしていないと思うのだが。
まさか――もうひとりの自分は彼女としてしまったのだろうか。
「ううん、そういうわけじゃないけど……このあいだは誘っても断られたから」
予想が外れて、シュンはひとまず胸を撫でおろした。それで彼女は変に思って話をしようと思ったのだろうか。今まで断られたことがなかったから。
「その日はどうしても外せない予定があって……」
シュンは言葉を濁した。本当は拉致されて監視生活を余儀なくされていたのだが、そんなことは言えるはずもない。
「それが話したかったことですか?」
「ううん、違うの」
舞花は小さく首を振って言うと、グラスから水をひと口飲んだ。ネイルの施された細い指が、グラスの縁を何度も行ったり来たりする。
「会社にはまだ言ってないんだけど、わたし、結婚することになったの」
「……そうですか。おめでとうございます」
シュンはなにかを思うより先に、機械的にそう言っていた。
実のところ、それは本心だった。
彼女はこの低賃金労働地獄から一抜けする。実に喜ばしいことだ。
舞花が控えめに微笑む。
「ありがとう」
「仕事は続けるんですか?」
彼女は自分と違って優秀なプログラマーだ。無茶振りされて露骨に態度に出てしまう自分とは違う。上司に噛みつくこともない。
「ううん、やめて専業主婦。昔から仕事より専業主婦希望だったし。子供は欲しいけど、仕事と育児を両立するなんて、わたしには絶対無理だと思ってたから」
ということは、相手は共働きしなくても彼女と生まれてくる子供を養えるほど高収入らしい。
そんなことを呑気に考えている自分に、シュンは呆れた。結局のところ、これは別れ話だ。彼女が仕事を辞めれば、自分たちはもう二度と会うことはないだろう。
「どこで出会ったんですか?」
傷口に塩を塗るような真似をするなともうひとりの自分は止めていたが、シュンはかまわず質問した。動揺していることを彼女に悟られたくなかった。
「マッチングアプリ。ずっと婚活してたから」
「そうだったんですね」
「シュンくんは、結婚願望はあるの?」
(あるわけないだろ。親が離婚してるのに)
即座に心の中で自分がそう突っこんだが、それを無視してシュンは苦笑いした。
「さあ? そういうことは真剣に考えたことがないので」
「そうだよね、まだ真剣に考える歳じゃないよね。二十四なのに」
「まあ、そうですね」
(きっとあなたの結婚相手は、俺より年上で社会的地位もある人なんでしょうね)
そう言いたいのをシュンがなんとかこらえて頷くと、ふいに舞花が上目遣いにシュンをじっと見つめてきた。
「……怒ってる?」
「どうしてですか? だってもともとなんでもないでしょ、俺たち」
シュンは、何気ない調子を装って言った。その直後に鳩尾の辺りが殴られたように痛んだが、シュンは無視を決め込んだ。
落ち着け。ここで逆上したところでどうなる?
自分にそんな権利はない。彼女は自分の恋人ではないのだから。
舞花がうつむき、黙りこむ。
シュンは内心ため息をつきたい気分だった。なぜ彼女はこうやって被害者のような態度を取るのだろう。意味がわからない。
結婚して幸せになるのなら、それで万事めでたし、ハッピーエンドではないか。
彼女はいったい自分になにを求めているのだろう。すべてを笑って受け入れられるほど、自分は大人ではない。なにせ彼女は初めての相手だったのだから。
それからシュンは、気まずい空気が流れるなかで黙々と食事し続けた。
明るい態度をとるつもりは一切なかった。
会計を済ませ、店を出たあとも、シュンは黙りこくっていた。
舞花はいつも通り割り勘でいいと言ったのだが、シュンは強引に押しきって全額払った。こんなことをしても意味がないとわかっていたが、最後くらい、彼女の前で格好をつけたかった。
「……男は三十過ぎてもすぐに結婚できるからいいよね。でも、女はそうはいかないから」
別れ間際に、舞花は冗談めかした口調で言ったが、シュンはそれでも黙っていた。
そんなことありませんよ、年齢なんて関係ないでしょう。
そんな白々しいことは、とてもではないが言えなかった。
若いほうが価値がある。市場原理に照らし合わせたのなら、女性にとってそれは抗いがたい事実なのだから。
だが男だって、だれもが結婚できるわけではない。
結婚できるのは、社会でなにかを勝ち得ている男だけだ。金、権力、社会的地位、学歴、名声、コネ、性的魅力、才能、人望、人柄の良さ――どれも持っていない自分のような人間は、だれにも真剣に相手にされない。それがこの世界のルールなのだ。
これから先も、ずっと。
アパートに帰ってすぐに、シュンは着ていたジャケットを脱ぎ捨て、シャツのまま寝台にうつ伏せに倒れ込んだ。
(……馬鹿みたいだ)
わかっていたはずなのに。彼女が自分を本気で好きになるわけがない。ただの遊びだ。向こうだってそう思っているから、ああやって報告してきたのだ。
自分たちのあいだにはもともとなにもなかった。それがすべてだ。
好きじゃなかった。お互い利用しているだけだった。
ならばなぜ、こんなにも精神的にこたえるのだろう。それはきっと、自分の存在の軽さをこれ以上ない形で突きつけられたからだとシュンは思った。
自分はただの遊び相手にすぎず、本命が現れるまでの繋ぎでしかない。
彼女にとって、自分はなんでもない。おまけに、入れ替わっても気づかれない。
(ほんと最悪だな、この世界)
やっぱり戻ってこなければよかった。
今すぐ向こうの世界に行きたい。
自分という存在を軽んじられない場所に行きたい。
これ以上惨めな思いをしたくない。
たとえ、だれかと両思いになることがなくても。
そう思った瞬間、今度は胸の奥がきゅっと痛んだ。
メグの笑顔が脳裏をよぎる。
(会いたい)
彼女と話しているのは楽しかった。彼女といるときは、自分がつまらない人間だということを忘れていられた。
(……会ってどうするんだ)
彼女だって、いつかそう遠くない日に結婚するのに。
それに彼女はそういう気持ちを知らない。自分だけを愛してくれることはない。
(特別な人間なんかいらない)
そう思いたいのに、その考えに抵抗するように、胸の奥が苦しくなった。
こちらの世界にいたところで、自分が愛し合う歓びを知ることなどないのだろう。ずっとなにかを我慢して、ただ毎日を淡々と生きることだけに費やすのだ。
だが、それでいったいなにが残るだろう?
そもそも、なにかを残す必要があるのだろうか。
どうせひとりきりで死ぬなら、最初からなにも得る必要などない。
来世なんて信じていない。あの世や天国があるとも思わない。
きっと、死ねばそれで終わりだ。
シュンは寝台から起きあがると、机の上に置いてあった企画書を丸ごとごみ箱に突っこんだ。
どうして新しいゲームを作ろうなんて考えたのだろう。自分を評価してくれる人間なんて、この世界のどこにもいないのに。
(あんなの、ただの夢だ)
異世界も、不思議な力も、自分のことを見てくれる人間も。
望んではいけない。きっと傷ついて後悔する。
(やりたくても、やらなくていいようにしているの)
メグの声が頭の中に響く。
(仕方ないだろ)
シュンは心の中で言い返してから、また寝台に寝転がると、瞼を固く閉じた。
自分には才能も実績もない。学歴もない。人脈もなければ資金もない。人望もない。
ないものだらけなのだから。
