シュンはぼんやりと電車に揺られていた。
しかも、わざわざ販売機で切符を買って。
自分でもなにもやっているんだろうと思ったが、止められなかった。
記憶が消えるまで猶予が二週間もあるのに、ただじっと待っているだけなんて耐えられない。あの時さっさと消してくれればもう苦しむこともなかったのに、それが二週間も延長されるなんて。さすが、自分たちのことを研究をしているだけあって、ジーンはどうやれば人が苦しむかをよくわかっている。
そう思いながら、シュンは手の中の切符に目を落とした。メグに携帯電話を持たせてからも、彼女は頑として現金で切符を買い、持って帰るために毎回改札でスタンプを押してもらっていた。なぜメグがそんなに切符にこだわるのかわからなかったが、シュンは彼女がいなくなって、やっとその気持ちがわかった気がした。彼女は自分と一緒に出かけた記念に持っておきたかったのだ。ほかの男なら重いと思うのかもしれないが、シュンは到底そんなふうには思えなかった。
自分にそんな価値なんかないのに。自分が贈ったものを消したとき、彼女は切符も消してしまったのだろうか。自分はなんてむごいことをさせたのだろう。そう思うとまた胸が苦しくなった。
終着駅までは行かないと決めて、自分はそのとおりにやり遂げた。でも結局それは、彼女と真剣につき合うことから逃げていただけだった。
(……ひとりだと、やっぱりなにも起こらないな)
シュンはそう思いながら、デパートの寝具売り場で寝台に腰掛けていた。
あの時に二人で見た絵をもう一度見たい。そう思って美術館に足を向けたが、展覧会はとっくに終わっていて、別の展覧会が始まっていた。結局中には入らなかった。
シュンは寝台に坐ったまま、辺りを見まわした。
いくつも並んだ寝台、高そうな枕、マネキンに着せられたナイトウェア。メグを寝具売り場に連れてきたとき、彼女は映画で見たとおりだとはしゃいでいた。最近は子供だって、デパートに行ったくらいでははしゃがないだろうに。今はデパートに行くよりネット通販のほうが早いし、欲しいものが簡単に安く手に入る。でも、ここで彼女と買い物をするのは楽しかった。
メグに服を選んでほしいと言われたとき、自分は断ってしまった。彼女の頼みが面倒だと思っていたわけじゃない。自分で好きなものを選ぶほうがいいと思ったから、そう言った。でも、彼女はそんな自分のことをどう思っていたのだろう。少しは自分の意見も言うべきだったのかもしれない。
……そんなことを今更思ったって、仕方ないのに。
考え事をしながら歩いていたせいで、シュンはここが婦人服売り場の階だということに、エスカレーターを降りてから気づいた。こんなところを男がひとりでうろうろしていては、女性たちに怪しまれてしまう。戻ろう。シュンは踵を返したが、なぜかその拍子に自分の後ろを歩いていた女性が小さく悲鳴をあげて床に転んだ。
「大丈夫ですか?」
シュンは慌てて女性に駆け寄った。距離は空いていたが、自分が急に立ち止まって方向転換したせいだろうか。
しかし、目に入った姿を見て、シュンは目を見開いた。
「舞花さん……」
前に会ったときと同じ黒いコートを着た舞花が、気まずげに微笑んだ。
数分後、シュンと舞花はデパートの中にあるカフェにいた。シュンはいつものように紅茶を、舞花はホットココアを注文した。
店員が行ってしまってから、舞花が目を伏せたまま口を開いた。
「ごめん。偶然見かけたから、ちょっとつけた」
偶然? またデパートで? 彼女はどれくらいの頻度でここに来ているのだろう。
シュンが不審に思っていることを察したのか、舞花が取り繕うように笑みを浮かべた。
「金持ちの専業主婦は暇なの。わたしは友達もいないしね」
それから二人は、運ばれてきた飲み物を黙って飲んだ。
先に話を切りだしたのは、舞花のほうだった。
「今日はひとりなの? 彼女さんは?」
別れました。そう言おうと思ったが、シュンは喉の奥が詰まったように声が出せなかった。その一言で表現するには、あまりにつらすぎた。
「喧嘩でもした?」
「舞花さんこそ、結婚相手とうまくいってないんですか?」
卑怯だとは思ったが、シュンは質問に質問で返した。
今はだれにも甘えたくなかった。特に彼女には。
「どうしてわかったの?」
「……幸せいっぱいには見えなかったから」
シュンがそう言うと、舞花が苦笑した。
「会社を辞めるときもそうだったけど、シュンくんって、結構直球で言うんだね」
「ほんとは、俺はそういう人間ですから」
「わたしの前では気を使ってた?」
「ええ。そうしないと、俺なんて見向きもされないと思ってたから」
「じゃあ、お互い猫かぶってたんだ、わたしたち」
そうかもしれないとシュンは思った。でもそれでいいと思っていた。
本音を言えなくても、自分を見てくれる人がいればそれでよかった。
そうすれば、この世界に溶け込める気がしたから。
「彼女はどうなの?」
シュンは自嘲するように笑った。
「……そういうのは、関係ないですよ。いくら自然体でいられたって、自分の性格が変わるわけじゃないから」
愛する能力が欠如しているなら、どんな相手とだってうまくやれない。
自分はきっとそういう人間なのだ。
「……そうだね」
そう言ったあと、黙ってしまった舞花をシュンは見つめた。
「思ってることがあるなら、ちゃんと相手に言ったほうがいいですよ。手遅れになる前に」
舞花が苦く笑ってうつむく。
「もう手遅れだよ。たいして好きじゃないのに、結婚するんじゃなかった。シュンくんとはセックスだけしてつき合わなかったのに、結婚したら旦那にセックスしてもらえないなんてね……ほんと、笑っちゃう。あ、今からでもシュンくんをセフレに戻せば、全部解決するのになぁ」
「……そういうの、もういいですから」
シュンはそう言ってまっすぐに舞花のほうを見た。
「そうやって、わざと自分も俺も傷つけるようなこと言うの、やめてもらえます?」
なぜそんなことを言ったのかはよくわからなかった。だがたぶん、自分は怒っているのだろうとシュンは思った。舞花に冗談めかして言われたことも、舞花を大事にしようとしない夫のことも、彼女が自虐的なことも、そんな彼女と一緒にいても自分が疲弊していくだけで、どうにもならないことも。
なにもかも、全部。
「はっきり言うね」
「……そういうのが俺ですから」
「でも、今のほうがいいよ。わたしがメニューを決めおわるまで、ずっと待ってるよりは」
「知ってたんですか?」
「二回目に会ったときに気づいた。でも、そういうところが好きになれなかったの。そういう、自分を優しいと思ってそうなところが」
シュンはなんと言っていいのかわからなかった。
そんなことは一度も思ったことがなかった。
自分が優しい人間だなんて。むしろ、冷たいし、薄情な人間だと思っているのに。だが、彼女の目にはそう映っていたらしい。
「それは母が舞花さんと同じように悩む人だったから、慣れただけです」
シュンの答えに、舞花はまた苦笑した。
「そう。訊いてみないとわからないものだね」
「……そうですね」
それは自分も同じだ。決めつけているだけで、相手になにも訊ねなかった。そうやって自己完結していた。
「どうして、もっと自分を大事にしないんですか?」
シュンの問いかけに、舞花が首を傾げてみせる。
「……さあ? そういうの、わかんないから」
「そう、ですか」
それは、自分を大事にする方法がわからないという意味なのか、そういう考え方そのものが理解できないという意味なのか。
だが、シュンは彼女がそういう言い方をした理由がなんとなくわかる気がした。
わからない。そこで終わらせておけば、突き詰めて考える必要はどこにもない。
本当は、そこからが大事なのに。
そうやっていつも、問題そのものをなかったことにして、先送りにしている。
なぜ? その問いの先に、どこまでも果てしなく広大な世界が広がっているなんて、会社を辞めるまで知らなかった。
メグに出会わなければ、気づかなかった。
シュンが黙っているあいだ、舞花は店の外を行き交う人々を眺めていたが、ふいに口を開いた。
「わたしね、昔はもっと地味な女だったんだ。コンタクトじゃなくてメガネだったし、髪も染めてなかった。それで広瀬さんのセフレやってたの」
シュンは驚いて舞花を見たが、舞花の視線は相変わらず外に向けられたままだった。
「でも、馬鹿馬鹿しくなってやめた。それから見た目を変えたの。あの人、見た目に気を使ってる女が苦手で、わたしに近づいてきたから」
舞花は皮肉っぽく笑い、ネイルの施された自分の指先に目を落とした。
「自分磨きすることが、自分を大事にすることだって思ってた。そうすれば、もっとまともな人とつき合えるって。でも外側だけ気を配っても、中身が一緒じゃやっぱり意味ないんだね」
舞花はそこで言葉を切ると、うんざりしたようにため息をついた。
「……ほんと、だれか教えてほしい。どうやったら、自分を大事にできるの?」
シュンはうつむいた。
「それは、俺にもわかりません」
シュンの答えに舞花が微笑する。
「真面目だね、シュンくんは」
「そんなことないと思いますけど」
「ううん、真面目だよ。たいていの人は、みんなテキトーに、それっぽいこと言ってごまかすだけなんだから」
テキトーに、それっぽいこと。
テレビも新聞もネットも雑誌も広告も、そんな言葉であふれている。そんな話しかできない人間ばかりで社会を構成したら、いったいどんな社会ができあがるのだろう。
そもそもそれは、社会と呼べるのだろうか。
シュンがそう思いながらまた窓の外を見ると、いつのまにか外では雨が降りはじめていた。メグがいなくなってから、天気予報はまともに見ていなかった。今日が雨の予報だったのかも知らない。
――また雨だ。
舞花もシュンと同じことを考えていたのか、窓の外に視線を向けてから、自分のほうを探るように見てきた。
「どうする? これから」
シュンはまた窓の外を見つめた。べつに不思議なことじゃない。三月の後半は高気圧と低気圧が交互に通過するから、天気が不安定で、変わりやすい。それだけのことだ。
なにかをドラマティックに仕立て上げているのは、いつも自分だ。
「帰ります。俺が好きなのは、あなたじゃないから」
「そう」
「はい」
シュンは椅子から立ちあがり、財布から紙幣を二枚出してテーブルに置こうとしたが、舞花はそれを断ってからぽつりと言った。
「さよなら、シュンくん」
「……さよなら」
悪いのは自分だったのか、彼女だったのか。それとも両方か。
でも、最初から自分たちはなにも始める気がなかった。ただ、雨宿りをしていただけだ。
自分のぶんだけ会計を済ませてデパートを出た途端、雨粒がシュンの首筋や肩を容赦なく打った。街行く人々は、だれもが雨を避けるように早足でシュンを追い越していったが、シュンはかまわず、いつもの速度で歩道を歩いた。傘も差さず、冷たい雨に打たれながら独りで歩く。それが今の自分にはお似合いだと思った。
たぶん、それが自分の人生なのだ。成功してもしなくても、なにも変わらない。そのことを受け入れるのがずっと怖かった。
いくら人肌が恋しくても、もういらない。そんなものでこの空虚さは埋まらない。余計につらくなるだけだ。自分が欲しいと思ったのはメグだけだった。でも性交渉以外の方法で、どう表現すればいいのかわからなかった。
彼女からなにも奪わず、傷つけずに愛する方法。
そんなものはただの幻想で、最初からどこにもなかったのだろうか。
立ち止まったせいで全身が濡れはじめていたが、シュンは気にしなかった。
その時、シュンは初めてメグと会ったときに、彼女がずぶ濡れになっても、ずっと駐車場に坐り込んでいたことをふと思い出した。
(君は、どんな気持ちであそこにいた?)
寒かったはずなのに。風邪を引いたかもしれないのに。
そもそも、なぜメグはずっとあそこにいたのだろう。
力が使えるのに、どうしてなにもしなかったのだと自分が訊ねたとき、彼女はなんと言っていた?
思い出せない。
そんな自分に苛立ちながら、シュンはしばらく雨の中で立ち尽くしていた。
