第29話 君のいない日々(1)

 シュンは、時折マグカップに淹れた紅茶を飲みながら、無心でキーボードを叩き続けていた。メグがいなくなったあとの時間の流れは、シュンには恐ろしいほどゆっくりに感じられた。しかしほかにやることもないので、シュンは仕事に没頭して一日を過ごしていた。
 次の更新に向けて準備しなければならなかった。新しいことをしなければ、ユーザーにはすぐに飽きられてしまう。
 作業の途中でキーボードを叩く手を止め、シュンは何度目になるかわからないため息をついた。
作業はひとりのほうが確かにはかどる。だが、いつもは気にならない作業が苦痛で仕方なかった。細かい部分を詰める気力がまるで湧いてこない。
 メグと一緒にいるときは、仕事に没頭できる時間が思うように取れなくて困っていたが、そのぶん短い時間で集中していた。
 アイディアにも事欠かなかった。そのすべてを形にするには、一日が二十四時間では少なすぎる――そう心の中で何度嘆いただろう。
 将来のことを考えたり、心配したりする暇はどこにもなかった。それくらい毎日が忙しくて、充実していた。
 自分の選んだ答えは正しいはずだ。これが自分のやりたかったことで、会社員時代から夢見ていた生活だった。それなのに、なぜこんなにも虚しいのだろう。
(わたしの本当の名前、めぐりっていうの)
最後にそう言って、自分に背を向けたメグの姿がよぎる。
「……めぐり」
 なんだろう。なにかが引っかかる。そこまで出かかっているのにわからない。だが、自分はなにかとても重要なことを見落としている気がした。
だいたい、なぜ彼女はずっと本名を隠していたのだろう。向こうの世界には、そういう風習でもあるのだろうか。
(馬鹿だな、そんなこと今更考えたって仕方ないだろ)
 心の中で、もうひとりの自分があざけった。
 そうだ。もう自分は彼女とはなんの関係もない。二度と会うことはないのだから。
 シュンが液晶画面に表示されている時計の時刻を見ると、もう昼の二時をとっくに過ぎていた。
 なにか食べないと。そう思いつつも、シュンは動かしている手を止められなかった。
 いつもなら、昼前になるとメグがお腹がすいたと言って、作業の途中で妨害しに来てくれていたのに。
 あれはとても助かっていた。ひとりでゲームを作っていたときは、食べるのを忘れていつまでも作業していることがしょっちゅうだったし、会社を辞めてからの生活リズムはめちゃくちゃだった。なんとか規則正しい生活ができていたのは、彼女がいてくれたおかげにほかならなかった。
 料理したり、鯛焼きを買いに行ったりするのはいい気分転換になったし、頭の中も整理できた。
 だいたい、このゲームを思いついたのは、メグと会話していたのがきっかけだった。それに最近は彼女に試作版で遊んでもらい、意見を聞いてから更新するのが習慣になっていた。メグがいたからこそ、このゲームはここまで発展したのに――。
(俺はその成果を独り占めしてる)
 この先ずっとひとりで生きていくだけなら、これ以上収入が増えても仕方ない。
 それに、有名になってだれかから好かれたところで、嬉しくもなんともない。
(俺はそんなものが欲しかったわけじゃない)
 そう思ったとき、シュンは無意識にキーボードを叩く手を止めていた。
(……なら、なにが欲しかった?)
 俺は、
「またしても冴えない顔だな」
 液晶画面に現れたジーンに、シュンはそっけなく言った。
「……なんの用だよ。彼女はそっちに帰したぞ」
 今はすべてがどうでもよかった。
 彼女がいない生活はつまらない。
 だいたい、ひとりで住むのにこの部屋は広すぎる。ここはメグと過ごした思い出が残りすぎていて、シュンは今すぐにでも引き払いたいくらいだった。
 それくらい彼女のことが好きなのに、この生活を捨てる勇気がない。
 だが、彼女と生きるためにすべては捨てられない。
 自分には自分の人生がある。せっかく叶えた夢も望みも手放せない。今度はそれを維持し続けなければならない。
 だが、いったいいつまで?
 それは本当に自分が望んでいたことなのだろうか。
 シュンはうつむけていた視線を画面に戻したが、もうそこにジーンの姿はなかった。
 実体化したジーンが、息がかかりそうなほど至近距離で目の前に立っていた。
「……君の記憶を消しにきた」
 そう告げられたとき、シュンは距離が近いことも忘れ、衝撃で動けなくなった。
 メグのことも、向こうの世界のこともすべて忘れる。
 それは、今までの人生で一番幸せだった部分だけを忘れることだ。
 忘れたあとの自分がどうなるのか、シュンは具体的に想像したことがなかった。
 もうひとりの自分がわらう。
(――馬鹿だな。そんなの、死ぬ直前にいろいろ心配するのと同じだ)
 そうだ。死んでしまえば、もうなにかを心配する必要はどこにもない。
(でも、俺はまた消そうとしてる)
 自分の存在を否定されたような気がして、衝動的にデータを消してしまったあのときのように。
 データが失われても、思いついたアイディアが自分の頭の中から消えることはなかった。しかしすべてを忘れてしまっては、もう思い出すことは叶わない。
「だがその前に、君に言っておきたいことがある。メグは君になにも話さなかったようだからな」
 ジーンはシュンをじっと見つめた。
「メグは今、捕まって拘留されている」
「なん……で」
 シュンはそれだけ言うのがやっとだった。
 なぜ。どうして。
「向こうの世界には、警察署も裁判所もないはずだろ?」
「いつか言っただろう。自由・平等・博愛の原則を破った人間に、その原理は適用されないと。彼女は我々の下で死ぬまでほかの人々のために働いてもらうことになる。今まで通り自由に暮らすことは叶わない。例外はない」
「記憶を消すだけじゃないのかよ……」
シュンがつぶやくと、ジーンがうつむき、瞼を閉じた。
「彼女がそれを望まなかったんだ」
「メグが……?」
 シュンは信じられない思いでジーンを見た。
 どうして? 自分はひどいことをいろいろ言ったのに。
 彼女は悪くない。悪いのは自分のほうだ。
 シュンは衝動的にジーンに詰め寄っていた。
「あんた元婚約者だろ。彼女がそんなことになっても平気なのか?」
ジーンがシュンを睨みつける。
「……平気なわけがないだろう。だが彼女が自分の意思で決めたことだ」
「こんな時でも彼女の意思を尊重? 博愛主義者様はすいぶんご立派なんだな」
 思わず皮肉ってしまい、シュンはうつむいた。
 自分は何様のつもりなんだろう。偉そうに人のことを言える立場じゃないのに。
「……頼むよ。あんたならどうにかできるんじゃないのかよ」
 シュンが小さな声で言うと、ジーンは冷ややかな視線を向けた。
「人にいろいろ言われるのは嫌なくせに、そうやって都合のいいときだけ人を頼る。君こそずいぶん立派だな」
 シュンは手のひらを握りしめた。なにを言われても仕方なかった。自分はそういう人間だ。初めから、こんな自分に彼女といる資格なんてなかった。
 自分は間違ったことをしていたのだ。
 最初から、ずっと。
「こちらの世界の人間も、ごく稀にそうなることがある。だがそのときは、みんな記憶を消してなかったことにするんだ。そうすれば今まで通りの生活に戻れる。なのに彼女は受け入れようとしない。それを選ぶ人間はほとんどいないのに。……君の父親もそうだった」
 シュンははっとしてジーンを見た。
「……知ってるのか? 俺の父親のこと」
 ジーンが静かに頷く。
「君の父親はメグのように、禁を破ってこちらの世界に来たときに、君の母親と恋に落ちたんだ。そのときなにがあったかまではわからないが――うまくいかなかったんだろう。彼は君たちを捨てて出ていった」
 そう言うとジーンは、手の中に本を出現させ、シュンに差しだした。
 それはカバーのかかっていない、古ぼけて黄ばんだ文庫本サイズの本だった。
「なんだよ、これ」
「君の父親が書いた小説だ。彼はこちらでは小説を書いて暮らしていた」
「小説……」
まさか、父親が小説家だったなんて。
母は父の生まれや職業についてはなにも語らなかったが、それはきっと彼らに記憶を改変されていたせいだったのだ。
「内容が物議を醸して発禁処分になったが……メグはこれを読んだようだ。彼女に入れない場所はないからな」
「待てよ、彼女は字が――」
「君も機械でやっているだろう」
 力を使って読み上げさせたって言うのか?
「彼女の私物を片づけていたらこれが出てきたんだ」
「片づけてって……メグが住んでる家はどうなるんだ?」
「もともとわたしたちが住んでいる家は、すべてアイオーンからの借り物だ。住む人間がいなければ消えてなくなる」
「だったらあんたが買えば――」
「こちらでは家は商品ではない。売る人間も買う人間もいない。いくら金があってもどうにもならない」
 ジーンは嘆かわしげなため息をついた。
「おまえたちはいつもそうやって金で物事を解決しようとする。それが誠実さの証しだと思っている。 わたしに言わせれば、それは怠惰さの証しでしかない。世界でたったひとつしかない価値を、金に換算してなにもかも同じにしてしまっている。金に換算しなければ物事に価値を見いだせないなど――心が貧しいにもほどがある。
シュンは返す言葉もなかった。だがそれが、自分の世界のことわりだった。
「向こうの世界と関わった人間の記憶は消すのが原則だ。君も例外じゃない。今までは、メグがいたから特別に許されていただけだ」
 ジーンがシュンの額にすっと手をかざす。
 後ずさる暇もなかった。
 なんの覚悟もできないまま、自分はすべてを忘れる――。
 しかし、ジーンは手を翳すのを途中で止め、人差し指でシュンの額を軽く突いた。その衝撃で、シュンは椅子ごと後ろにひっくり返りそうになった。
「だが、今すぐ消すのではわたしの気がおさまらない。二週間後にまた来る。それまでせいぜい苦しむといい」
 ジーンは捨て台詞のように言うと、また液晶画面の中に戻った。
 しかし、彼はなぜかそこからすぐに去ろうとはしなかった。
 痛む額をさすりながら、シュンは言った。
「なんだよ、まだ言い足りないのか?」
 画面の中のジーンは後ろを向いたままだった。
 沈黙のあとで、ジーンがまたこちらを向く。
「……おまえたちは愚かだが、わたしたちには決してできないことができるとわたしは思っていた。だがそれは買い被りだったようだ」
「なんだよ、それ」
「……可能性を信じることだ」
 ジーンはぽつりと言って、シュンを無表情に見つめた。
「君は最初から諦めている。だからなにもできないんだよ、瞬」

 それきりジーンは画面から姿を消し、シュンのコンピュータはまた元の作業中の画面に戻った。しかし、シュンはもう画面を見ていなかった。
(……なんでだ。なんでこうなる)
 すべてを捨ててリセットするつもりだったのに。
(俺は彼女を捨てたのに)
 なぜメグは、その記憶を後生大事にずっと持っておこうとするのだろう。
(でも、俺だって)
 記憶を消すと言われたとき、胸が痛んだではないか。
 でも惜しいのはそのときだけだ。物を捨てるときだってそうだ。捨てるときは惜しいが、ないならないでなんとかなる。
 そうだ。なんとかなる。それなりにやっていける。
 だがこれは、そのなんとかなる部類に入れていいのだろうか。
 シュンが机に視線を向けると、マグカップのそばにジーンが持っていた本があった。彼はあえて置いていったらしい。
 古ぼけて、くたびれた表紙。シュンは本から視線を逸らした。
(……読むわけないだろ)
 自分を捨てた父親が書いた小説なんて。
 だいたい、向こうの世界の字では読めない。
 シュンがそう思っていると、本に印刷された文字がすっと変化し、いつも自分が使っている言語になった。きっと、ジーンがそういう力を本にかけたのだろう。
 シュンは本を手に取って観察した。この古さから見て、これはきっと父がまだ若かった頃に書いたものだ。奥付を見ると、発行年は今から二十六年前だった。
(俺の生まれる、一年前)
 男の声がよみがえる。
(まだ九類が残ってるだろう)
 シュンは、かすかに震える手で本の表紙をめくった。
 知ってしまえば、もう元には戻れない。
 そのことを自分は身をもって知ったはずなのに、まだ傷つき足りないのだろうか。
 べつにかまわない。これ以上失うものなどなにもない。
 だがそれ以上に、どんな情報でもいいから、父親のことを知りたかった。
 中身は恋愛小説だった。主人公は恐ろしいほど身勝手で、シュンはまったく感情移入できなかった。自分の両親がモデルだと知らなければ、とっくに投げ出していただろう。それでも読ませてしまう文章の巧みさに腹が立った。
 愛することが罪ならば、わたしはそれを受け入れる。たとえこの身の自由を奪われても、わたしの心の中にある自由までは奪うことができない。この気持ちがあるかぎり、わたしは自由だ。この苦しみさえもよろこびに変わる。
 シュンは本を片手にうなだれた。
「馬鹿だよ、ほんと……」
 結局うまくいかなかったくせに。
(夢ばかり見て、現実に失望して、俺と母さんを捨てたくせに)
 シュンは立ちあがると、手の中の本を壁に向かって思い切り投げつけた。本が壁に叩きつけられた拍子に開き、そのまま垂直に床に落ちる。
 はあはあと肩で息をしながら、シュンは床に坐り込んだ。
「……あんたなんか」
 手のひらを固く握りしめ、シュンは絞り出すように声を出した。
「あんたなんか大嫌いだ……!」
 叫んでからシュンは両手で顔を覆った。こらえきれず、涙が両目からあふれだす。
 こんなことを自分に言わせる父親が嫌いで仕方なかった。
 愛してほしかった。
 自分だけを見ていてほしかった。ずっと。ずっと……。
(二度と自分の人生に関わってほしくない)
 それは半分本心だったが、もう半分は違った。
 今でも自分は、いつかどこで父親とばったり再会することを、自分と母親を迎えに来てくれることを心の片隅で夢見ている。自分が悪かったと言ってくれることを願っている。そして、愛していると言ってくれることを。
 そうすれば、なにもかも帳消しにするのに。
 そうだ。あのゲームは、すべて自分がしてほしかったことだ。
自分のすべてを受け入れて、ありのままの自分を理解してくれる人が欲しかった……。
だがそんな人間はこの世界のどこにもいない。
自分の想像した世界――それこそ、ゲームの中にしか。
だから今も自分は、現実に存在する人間を愛することができずにいる。
愛がこの世界に存在することを信じられずにいる。
本当はだれよりもそれが欲しいと思っているのに。
(もう、手に入ることなんかないのに)
 そうだ。もう永遠に手に入らない。
 そのことを、ずっと認められずにいた。
 自分はかわいそうな人間なのだと思っていた。友達がいないのも、恋人がいないのも、会社で軽んじられるのも、遊ばれて捨てられるのも、なにもかも、自分が親に愛されていないせいだと思っていた。  それは半分正しかったが、半分は間違いだった。そうやっていつも、うまくいかないことをなにかのせいにしているだけだった。
 だれかがすべてを与えてくれることを期待して、それが叶わないと、いつも勝手に裏切られたような気になっていた。苦労しながら自分を育ててくれた母を遠ざけて、好きだと言ってくれたメグを拒絶した。
 自分には愛される価値がない。
 ずっと、そう思っていたから。
 流れ続ける涙を手でぬぐい、シュンは床にあおけに寝転んだ。
(メグ)
心の中で名前を呼んで、シュンは瞼を閉じた。
(……君に会いたい)
 ほかのことなんて、もうどうでもよかった。
 なにもかも失った自分には、なんの価値もないと思っていた。
 なにも持っていないと思っていたあの頃から、彼女はずっと一緒にいてくれたのに。
(わたしはあなたと一緒にいられればなんだっていいのよ、瞬)
 その言葉を信じられなかった。
 シュンが瞼を閉じたとき、また瞳から涙が一筋こぼれて床に落ちた。
 シュンは床に寝転んだまま、しばらく動くことができなかった。
 どれくらいの時間、そうしていただろう。シュンが再び瞼を開けると、いつのまにか部屋の中は真っ暗になっていた。どうやら自分は泣き疲れて寝ていたらしい。
 こんなことをしていても仕方ない。感傷を振り払い、照明をつけるためにシュンはのろのろと起きあがった。それが今更わかったからなんだというのだろう。
 もう、彼女を失ってしまったのに。