「ただいま……」
「おかえりなさい」
返事が返ってくるとは思わず、シュンは驚いて声のしたほうを見た。
メグはキッチンで洗い物をしているところだった。
「なにか食べた?」
メグの顔は見ずに、シュンはそれだけ訊いた。
本当は鯛焼きでも買って帰ろうかと思ったのだが、喧嘩していても昼食くらいは作らなければと思い直した。
そうすれば、また話くらいはできるようになるかもしれない――。
「サンドイッチ、作って食べたの」
「……そう」
期待が外れ、シュンは落胆した気持ちでリビングに荷物を置きにいこうとしたが、泡のついたスポンジを手に持っているメグを見て怪訝に思った。
彼女はいつも料理を作ってもらっているからと、代わりに洗い物をしてくれていたが、そのときは力を使ってやっていた。
(あなたといると巧くできるのよ)
そう得意げに話していたのに。
「あ」
その時メグの手からコップが落ち、シンクに当たって真っ二つに割れた。
シュンは考えるより早くメグに駆け寄っていた。
メグがすまなそうにうつむく。
「ごめんなさい、今は元に戻せないの」
シュンは目を見開いた。
「力を使えないの? どうして」
メグが力なく首を振る。原因はわからないらしい。
「なんで言わなかったの?」
「言ったってどうにもならないでしょう?」
「それは、そうだけど」
病院に連れていくわけにもいかないし、自分に治せるわけでもない。
それ以上なにも言えず、シュンはその場に立ち尽くしていたが、メグが割れたコップに素手で触ろうとしたので、慌てて彼女の手を掴んでやめさせた。
「貸して、あとは俺がやるから」
シュンがわざとそっけない口調で言うと、メグは静かに目を伏せた。
「……ありがとう」
メグは濡れた手をペーパータオルで拭き、キッチンを出ようとしたが、シュンの前で一度立ち止まった。
「……サンドイッチ、あなたのも作ったから、よかったら食べて」
言われた途端、目の奥が熱くなって、シュンは奥歯を噛みしめた。
どうしてこういうときだけ。卑怯だ。
(君は、いつもわがままなのに)
頭ではそう思っているはずなのに、胸の奥がぎゅっと締めつけられるように痛んだ。
「……うん」
そしてなぜ自分はこういうときに、素直にありがとうと言えないのだろう。
割れたコップと破片を新聞紙でくるみ、燃えないごみの袋に入れながら、シュンは食洗機を買おうかとちらりと考えたが、すぐにその考えを打ち消した。
これから先もひとりで暮らすなら、食洗機は必要ない。
(……きっと俺のせいだ)
彼女が力を使えなくなったのは。
根拠はなにもない。だがそれしか考えられないとシュンは思った。
(俺はメグを愛していない)
だったら、そう言わなければ。
彼女と離れなければ。
「メグ。話があるんだけど。入っていい?」
扉をノックしてからシュンがそう言うと、すぐに扉が開き、中からメグが姿を見せた。
部屋に入って扉を閉めるなり、シュンは言った。
「帰るんだ、メグ。君はここじゃ生きていけないだろう?」
彼女のために自分ができることはこれしかない。これから先、彼女を傷つけて父親と同じようなことになるなら、ずっと独りでいたほうがいいのだ。
「俺は君のためになにもできない」
寝台に腰掛けたメグが首を振る。
「わたしのことは気にしないで」
「そんなことできるわけないだろ。君が大変なことになってるのに、自分だけ仕事なんかできない」
シュンは必死にそう言った。
「……頼むから、帰るって言ってくれ」
「わたしが帰るって言ったらゲームオーバーなんでしょ?」
「そうだ。でもそれでいいんだ」
それがきっと、唯一の正解なのだから。
メグが頑なに首を振る。
「あなたと一緒じゃなきゃ帰らない。一緒にいられないなら、わたしは死んでもいいの」
シュンは無意識に手のひらを握りしめていた。
「……卑怯だぞ」
シュンはメグを睨みつけた。
「君は初めて会ったときから卑怯だ。そうやって、俺が君を助けなきゃいけない状況に追い込んで、俺を支配しようとしてる」
本当に? 自分の意志で助けようとしたんじゃないのか。
繰り返す毎日から抜けだしたかったんじゃないのか。
内なる自分の指摘を無視してシュンは続けた。
「君は俺を愛してなんかいない。俺に執着してるだけだ」
今ならまだ間に合う。傷つけ合って、不幸になるのを避けられる。
「俺は、こんなことをする君が嫌いだ。ここにいられても迷惑だ。帰れよ。俺をひとりにしてくれ」
メグはしばらく黙ってシュンを見つめていたが、小さな声で言った。
「わかった。帰るわ」
シュンは手を握りしめたままうつむいていた。
興奮したせいで、まだ心臓が早鐘を打っていた。
自分は正しいことを言ったはずなのに、なぜこんなにも後味が悪いのだろう。
もともとひとつだったものを、無理やり引きちぎってしまったような心地がした。
人はだれかと別れるとき、いつもこんな苦しみを味わっているのだろうか。
メグが寝台から立ちあがり、寂しげに笑った。
「……やっとわかったわ。わたしがあなたを一番傷つけていたのね。最初に会ったときから、今までずっと」
彼女の言葉にどう答えていいのかわからず、シュンは黙っていた。
「……わたしが間違っていたの」
メグは自分に言い聞かせるようにつぶやくと、シュンを見つめた。
「さよなら、瞬。もう二度とあなたには会わない」
シュンは部屋の扉を閉め、その場にしゃがみこんだ。
これでいい。瞼の裏に広がる暗闇を見つめながら、シュンはそう自分に言い聞かせた。
なにもかも望みすぎだった。この世界で自立して暮らしていけるならそれでいい。
愛がなくても、生きていくのに問題はないのだから。
ならなぜこんなに苦しいのだろう。今にもすべてが壊れそうで、張り裂けそうで、息ができないほど苦しかった。
でもどうせ少しのあいだだけだ。彼女が向こうに帰ってジーンに頼めば、すぐに彼女のことを忘れられる。苦しみも痛みもすべてなかったことになる。
それでいい。それでかまわない。
シュンは立ちあがり、仕事場のコンピュータの電源をつけた。自分にはゲームがある。自分が創りだしたものの価値を認めてくれる人がいる。
だからそれでいい。それ以上は、望みすぎだ。
「……瞬」
シュンは驚いて振り返った。
そこにはメグが立っていた。
「まだいたのか?」
シュンは思わずそう言ったが、メグはそれには答えず、静かに口を開いた。
「最後にひとつだけ言っておこうと思って。わたしの本当の名前、めぐりって言うの」
「めぐ、り……」
思わずシュンは、口に出してそう呼んでいた。
メグが寂しそうに笑う。
「それだけ。じゃあね、瞬。今までありがとう」
メグはそう言うと、呆然としているシュンに背を向けた。
玄関の扉がガチャリと音を立てて閉まる。
ジーンに部屋に迎えに来てもらえばすぐに帰れるのに、彼女は律儀に玄関から出ていったらしい。そのことに、シュンはまた胸が痛みだすのを感じた。
メグがいなくなったあと、シュンはしばらく仕事場の椅子に坐っていた。
部屋の中は気詰まりなほど静かだった。時計の針が動く音以外は、なにも聞こえない。
シュンは居ても立っても居られず、衝動的に立ちあがると、メグが使っていた部屋の扉を勢いよく開けた。
しかし扉を開けた瞬間、シュンは愕然とした。
部屋の中は、引っ越したあとのようにがらんとしていて、なにも物が残されていなかった。メグと量販店に行って買った寝台も、チェストも、姿見も、ラグもクッションも、なにもかもすべて。シュンは備えつけのクローゼットを開け放ったが、そこも同じだった。服も鞄も帽子も、きれいさっぱりハンガーから消えていた。
メグは着飾ることに興味がなくて、いつもワンピースばかり着ていたから、店員に上から下まで何着も選んでもらったのに。自分が買った服を着ている彼女を見ていると、鯛焼きしか買ってやれなかったあの頃より自分は成長したと、誇らしい気持ちになれたのに――。
シュンは、メグがいた痕跡をなにひとつ部屋から発見することができなかった。
髪の毛の一本さえも。まるで最初から彼女は存在していなかったかのようだった。
シュンは首を振った。
(違う。あの映画とは違う。俺の妄想なんかじゃない)
なにもかも覚えている。でも、覚えているだけだ。
シュンは壁に凭れ、ずるずると床に坐り込んだ。
彼女がいなくなりさえすれば、また元の自分に戻れる――なぜそんなふうに考えていたのだろう。コンピュータを初期化して、まっさらな状態に戻したときとはあまりにも違う。胸にあるのは、深い喪失感だけだった。
自分はもう、なにも持っていなかった頃の自分には決して戻れない。
こうなってみて初めて、シュンはそのことに気がついた。
