次の日の朝、ルイスは珍しく毎日の習慣から逸脱した行動を取っていた。
秋が深まりつつあるこの季節の早朝は、空気が張り詰めていて、上着なしでは肌寒い。
ルイスは、エミリアがこの時間帯にいつも剣術の稽古をしていることを知っていた。
「ミリィ」
エミリアがこちらを向いた。
「トリスタン、下がっていて」
エミリアがそう言うと、無言でトリスタンが二人から離れた。
「なにか用?」
「すまない。昨日はわたしが言いすぎた」
リートが自分に言ったことに関しては、謝るつもりはなかった。だが、自分があの時冷静さを失っていたのは事実だった。あそこまで言う必要はなかった。
エミリアの空色の瞳がルイスをじっと見た。
「なら教えて。地下でなにがあったの?」
ルイスはどこまで話せばいいのか迷った。
だが、彼女に隠したところで、起きた出来事は覆せない。
「侵入者と一騎打ちして刺された」
長々と話はしたくなかったので、ルイスは起きた事実だけを告げた。
エミリアが目を見開く。
「……あなたが負けたの?」
「ああ。ユーリエがいなければ、わたしはおそらく出血多量で死んでいた」
エミリアはそれを聞いて衝撃を受けたように固まっていたが、そんなエミリアの様子には気づかず、ルイスは考えながら口を開いた。
「あんな相手は初めてだった。一番似ているとすればアルフレートだが、それとも違う」
「アルフレートって……相手はそんなに手練れだったの?」
「見た目はわたしより年下だ。だから力量を見誤った」
そうだ。自分は完全に油断していた。
「まるで恐れを感じていないような戦い方だった」
「それは無謀ってことじゃないの?」
ルイスはすぐさま首を振った。
「違う。似ているが、あれはそういう感じじゃなかった。彼はどこまでも落ち着いていて、冷静だった」
どんなに追い詰められても自分を見失わず、冷静さを貫いた人間が最後は勝つのだとルイスは信じていた。だが、あの男は自分とはなにかが違っていた。
あんなふうに戦う人間をルイスは知らない。
戦い方もそうだが、あの男は自分をためらいなく刺した。
得体の知れない強さだ。
そのことがなぜか、ルイスは気にかかった。
いつものように朝食を終えたあと、リートは応接用のソファに寝転がっていた。
今日は本祭の日だ。きっと街ではいろいろな催し物が開かれているのだろう。
しかし、リートの気分は祭りを祝う気持ちとはほど遠かった。
リートは繰り返し昨夜の出来事について考えた。
エミリアに謝らなければ。そのことを考えて、リートはため息をついた。
(無理だ)
ルイスがいる手前、この部屋ではそれは不可能だった。
どうやったら彼女に会えるだろう。
王族の居住区に、リートは足を踏み入れたことがなかった。
仮にもし彼女の部屋まで行けたとしても、トリスタンにつまみ出されてしまうかもしれない。そのことがペトロネラの耳に入ったら、きっと自分をよく思わないだろう。
ペトロネラはエミリアの母親だ。こちらではリートは一応成人扱いなのだから、それは当然の心配だった。ただでさえ、爆破事件のせいで王宮内は神経質になっているのに、余計な騒ぎを起こすのは得策ではなかった。
だが、意外にも機会は向こうから訪れた。
扉がノックされ、リートはだれだろうと思いながら返事した。ルイスが来る時間にはまだ少し早い。
「失礼いたします」
現れたのは驚いたことにエミリアの侍女のレーネだった。
レーネはリートと同じくらいの背丈の年配の女性だ。貴族らしく上品で物腰の柔らかな人で、おそらく若い頃は相当な美人だったのではないかとリートはいつも思っていた。
レーネが柔らかな口調でリートに告げる。
「お伝えしたいことがあって参りました。姫様が、リート様に自分のお部屋に招待したいと」
リートが驚いていると、レーネが言葉を続けた。
「ご案内するように申しつかっております」
そのままの格好で大丈夫だと言われたので、リートは普段の軽装のまま廊下を歩いていた。自分の前を歩くレーネを見ながら、リートは彼女がミヒャエルの愛好者の一人だということを唐突に思い出した。
意外と彼女は面食いなのだろうか。そう思いつつ、リートは前から言いたかったことを思いきって言ってみた。
「あの、いつもお菓子をありがとうございます。僕は甘いのはあんまり得意じゃないけど、レーネさんの作るお菓子はどれも美味しいです」
レーネは驚いたようにリートのほうを見たが、すぐに優しげな微笑を浮かべた。
「ありがとうございます。そう言っていただけて嬉しいです」
王族の居住区に入るのはこれが初めてだった。自分より年上の女性の部屋に入るのは初めてだったので、リートは少し緊張した。
「姫様。リート様をお連れしました」
「通しなさい」
エミリアの声がかかると、レーネが扉を開けてくれた。
「どうぞ」
促されるままにリートが部屋の中に足を踏み入れると、エミリアがリートのほうを見て微笑んだ。いつも通りのミモレ丈のドレスに深靴姿で、彼女は椅子から立ち上がった。
「わたしの部屋へようこそ、リート」
エミリアの部屋は王女だけあって、リートの部屋より広くて豪華な作りだった。部屋の中は、青と金を基調にした品の良い調度品でまとめられており、天井から吊された室内燈が輝いている。
可愛らしさとは無縁の爽やかな印象の部屋だ。リートはそう思った。
給仕が終わると、エミリアはレーネを下がらせたので、リートは少し驚いた。
エミリアはリートの部屋にいるときは、常にレーネを後ろに控えさせていた。
レーネが用意していった茶菓子を見ながら、リートは口を開いた。
「レーネさんはすごいね。毎回持ってくるお菓子が違うのに、僕の好きなのはいつも用意してある」
菓子に手を伸ばしながらエミリアが微笑む。
「レーネは少し融通が利かない点を除けば最高よ。昔から心配りがすごいの。もともと王妃付きの侍女だったんだけど、途中からわたしの世話係になったの」
エミリアの言葉に相槌を打たず、リートはしばらく黙り込んだあとで口を開いた。
「あのね、ミリィ様」
しかしエミリアはそれを遮った。
「なにも言わないで、リート。わたしはずっとあなたを口実にしてたんだから。もちろん、あなたと話したかったのも本当だけど」
リートは首を振った。
「いいんだ。気にしないで。僕は人に利用されるとか、そういうことはどうでもいいんだ」
リートがそう言うと、エミリアが苦笑した。
「あなたは変わってるのね」
「だって、他人の思惑なんて考えたところで、僕がどうこうできるわけじゃないし。僕自身が危害を加えられたわけじゃないから」
リートはそう言いながら、カップの中の紅茶に目を落とした。
琥珀色の水面に映った自分の姿が不安定に揺れた。
「それよりも僕は僕自身のことで手一杯で、他人のことまで全然気がまわらない」
自嘲するようにエミリアが口元を上げる。
「それはわたしも同じかも。なのに他人のことばかり考えてるの。笑っちゃうわよね」
それからエミリアは一転して真剣な表情でリートのほうを見た。
「わたしの話を聞いてくれる?」
「僕が聞いていいの?」
「わたしが話しておきたいの。そうじゃないと公平じゃない気がするから」
彼女の空色の瞳と視線を合わせたとき、リートはここに呼ばれた理由をなんとなく理解した。彼女はきっと許せないのだ。自分の秘密を黙っていてもらうのに、そのことについてなにも話さないなどという今の状態が。
もともと彼女は、自分の結婚相手を決闘の結果で決めようとするくらいだ。
彼女の潔さを目の当たりにして、リートはなぜかルイスのことを思い出した。
菓子を食べる手を止め、エミリアはおもむろに語りはじめた。
「わたしは昔から女の子らしいことより、戦争ごっことか乗馬とか、身体を動かすほうが好きでね。あまりに好きなものだから、お父様がトリスタンに頼み込んで剣術を習わせてくれたの。でも剣術にのめり込んでしまったせいで、わたしはますます女の子らしいことから遠ざかって、最初は微笑ましく見てた母や侍女たちもいい顔をしなくなった。女の子なのに、男の子の真似をするなんてどうかしてるって」
そこで言葉を切ると、エミリアがため息をついた。
「べつにわたしは男になりたいわけじゃなかった。ただ好きなことをやりたかっただけ。なのにだれもわかってくれなくて、いらいらして、その頃のわたしは、弱いくせに貴族ってだけで偉そうにしてる男の子を虐めるのが一番好きな遊びになってたの」
そこまで言ってエミリアはちらりとリートを見た。
「軽蔑した?」
リートは静かに首を振った。
「ううん。そんなことないよ」
好きなものを認めてもらえないのは苦しいことだ。その苛立ちを他人にぶつけるのは間違っている。けれど、そのことをリートは非難する気になれなかった。
「それで、そこに立ちはだかったのがルイスってわけ。弱い者虐めをするな! わたしと勝負しろ! ってね」
「それで、ミリィ様が勝ったんだよね?」
エミリアがにやりと笑う。
「そう。打ち負かしてやったの。でも、彼は何回負けてもわたしに挑んできた。本当に何度も何度も。諦めるってことを知らないみたいだった」
少年のルイスが、何度負けてもエミリアに立ち向かう姿が容易に想像できて、リートは口元を緩ませた。
「昔から変わってないんだね」
「そうね、変わってないわ。昔からあの調子。初めて負けたのは彼が十六歳のときだった。それでわたしは、諦めて普通の王女様になろうと思ったの。剣を持たず、踵の高い靴を履いて、ゴテゴテして歩きにくいドレスを着る。もともと、ルイスに負ける日が来たらそうしようと思っていたから」
エミリアはそう言って、リートのほうを見て微笑んだ。
「その姿で初めて彼に会ったとき、ルイスはなんて言ったと思う?」
リートは首を傾げた。エミリアが笑っていることを考えれば、ルイスはなにか彼女が嬉しがるようなことを言ったのだろう。
ミヒャエルならばともかく、彼が女性に気の利いたことを言えるとはリートには思えなかった。
考え込んでいるリートを見ながら、エミリアがそっと言った。
「……なにも言わなかったの」
「なにも?」
リートが訝しげな口調で言うと、エミリアが口元を綻ばせた。
「そう、なんにも。いつもの場所でずっと待っていたのに、どうして来なかったんだって怒られた」
エミリアはそう言うと指を組み、胸の前に腕を突き出して伸びをしながら話を続けた。
「ルイスはね、わたしがどんな格好をしてようが、そんなことはどうでもよかったの。彼はそのあとも態度を変えようとはしなかった。わたしはそれでほっとしたの。まあ、拍子抜けはしたけど」
エミリアは椅子から立ち上がると、軽やかな足取りで窓のほうに近寄った。その場でくるりと反転し、窓を背にしてリートのほうをまっすぐに見る。
「わたしは人と違う道を行くことが怖かったの。でもルイスを見ていると、そんなことはどうでもいいような気がした。本当に大事なのは、人にどう思われるかよりも、どういう自分でいたいかってことなんじゃないかって」
「どういう自分で……?」
リートは言いながら首を傾げた。
リートはそんなことを考えたことがなかった。
自分は親や教師が望む自分でいなければならない。そのためにはどうすればいいのか。向こうの世界で、リートはずっとそのことばかり考えていた。
「ほかの人にとってはくだらないことかもしれないけど、わたしにとってはそれが一番大事なことだった。その気持ちを捨てたくなかった。わたしが忘れてしまったら、だれも代わりに取り戻してはくれないんだから」
「だれも?」
エミリアが真剣な顔でリートにうなずく。
「そう、だれも。自分で持ち続けるしかないの。自分の気持ちは自分で守るの。だれになにを言われようとね。どうしてなかったことにしてしまったんだろうって、後悔しないように」
「でもそれって、苦しくないの?」
リートは思わずそう問いかけていた。
向こうの世界にいるとき、リートは教室で自分だけが本を読んでいることにすら耐えられなかった。
それだけではない。なにもかも、人と違うことが嫌でたまらなかった。
自分でいることがつらかった。
エミリアが微笑む。
「自分で選んだことだから」
その時、扉の外から声がかかった。
「お話中に失礼いたします」
「どうしたの、レーネ」
部屋に入ってきたレーネの顔にはいつもの穏やかさはなく、焦燥が滲んでいた。
「申し訳ありません、取り急ぎお伝えしたいことがございまして」
「なにかあったの?」
「それが、トリスタン様が……」
レーネの話を聞いたあと、すぐにエミリアは部屋を飛び出した。慌ててリートはその後を追った。
