それからというもの、シュンの読書量は一気に増えた。
特に関心を持ったのは、歴史学や社会学だった。それでシュンは、この社会を息苦しいと感じているのが自分だけではなかったのだとわかって安心した。この国のシステムにはいろいろな問題や欠陥があって、その大部分は未だに解消されていないのだ。
なぜ学校では教えてくれなかったのだろう。シュンはそれも本で調べてみようと思ったが、教育関係の本には、今の教育では社会に出たときに役に立つ人材に育たないとか、国際競争に勝てないとか、もっと愛国心を育てるべきだとか、そんなことしか書かれていなかった。たぶんそれが答えなのだろうとシュンは思った。この国の偉い人間たちは、とにかく自分たちの命令通りに働いて、税金を納めてくれる従順な人間が欲しいのだ。
「最近なんだか楽しそうね」
メグにそう言われて、シュンは頷いた。
相変わらず、ゲームはさっぱり売れなかったが、シュンはまるで気にならなかった。
それより、新しい知識を手に入れることが楽しくて仕方なかった。
「うん。なんていうか……今までは、自分が暮らしてる社会がどういうものなのか、全然興味もなかったし、それが当然だと思ってたけど……ちゃんと全部に理由があるんだなって」
「理由がわかると、面白いの?」
「うん。俺はずっと、この世界に違和感があったから」
「どんな違和感?」
「なんていうか……俺たちに教えられるルールとは別のルールが存在してて、それに沿ってゲームが進んでるみたいな」
シュンは答えながら、メグの切ったにんじんを見て手を止めさせた。
「ほら、また切り方が雑になってる」
シュンの指摘にメグが眉を上げる。
「細かいわね。これくらい大丈夫よ」
「大きさを揃えないと、火の通りがまちまちになるだろう」
食べたときに煮えていないのに当たったら、せっかく作ったのに嬉しさが半減してしまう。
「もっと食べるときのことを想像して作らないと」
「わたしはあなたが作ってくれたらなんでも嬉しいわ」
「……そういう問題じゃないから」
彼女は本気で料理の腕を向上させる気があるのだろうか。
(一緒にくっついていられるから言ってるんじゃないだろうな……)
いや、そう思うのは自分が意識しているからだ。
シュンは自分を戒めながら、ワンピースから覗いている、メグのほっそりした脚から無理やり目を逸らした。
「ほら、俺がやるから後ろで見てて」
シュンはメグと場所を入れ替わろうとしたが、後ろを向いたメグと正面衝突しそうになってしまった。部屋自体が狭いのだから、当然台所も狭い。二人一緒に並ぶと、ほとんど身動きが取れなくなってしまう。
そんな場所でメグと向かい合ったとき、突然シュンの脳内を鮮烈な光景が駆け巡った。ワンピースの裾から手を入れて、臀部を両手で覆い、股間に自分のものを押しつけながらメグに口づける自分の姿、裸になった彼女が胸を愛撫されて喘ぐ姿――。
メグがシュンの前で手をひらひらさせる。
「瞬? どうしたの? また考え事?」
「……なんでもない」
(わけないだろ)
勉強のことを考えているあいだは忘れていたのに、今ので台なしになってしまった。
集中しろ。今の状態では調理に失敗してしまう。シュンはそう自分を叱咤した。
できあがったカレーライスのにんじんは、やっぱりちょっと固かった。
(電子レンジでもっと加熱しないとだめか……いや、それだと柔らかくなりすぎる)
食べ終わったあと、脳内で反省会を開きながら、シュンは特に意味もなくテレビのチャンネルを何度も切り替えた。
(なにもやってないな……)
うっかり衛星放送に切り替えてしまい、シュンはチャンネルを戻そうとしたが、そこに映っていた映像に目を奪われた。それはメグと出会ったときに、シュンが思い浮かべた映画だった。有料放送のチャンネルが、無料枠で流しているらしい。
メグが首を傾げる。
「これはなに? 画面が白黒だけど」
「昔の映画だよ」
「映画ってなに?」
「知らないの? ジーンは知ってたけど……」
「ジーンは管理者だから、こっちの世界のことを学校で勉強しなきゃいけなかったの。今も定期的にほかの管理者や研究者と勉強会をしてるわ。自分でテーマを決めて研究して、それをみんなの前で発表するの」
「ああ、それでやけに詳しかったのか……」
サブカルチャーはさすがに守備範囲外だったようだが。
「ジーンはなんでも厳格に管理するのが好きだから。それが彼のやりたいことなの」
「……変わってるな」
自分なら管理なんてしたくないし、されたくない。
放っておいてくれるのが一番いい。
でもメグのことは、なぜか鬱陶しいとは思わなかった。
(……だから、そういうことはいいってば)
恋愛はしない。しないといったらしない。
映画を見終えてから、メグは不満げな顔で口を開いた。
「瞬、どうしてあのお姫様は戻ってしまったの? あの男の人が好きだったんでしょう?」
「王女としての義務を果たすために戻ったんだよ。台詞でもあっただろ?」
シュンがそう説明しても、メグは納得できないというふうに首を振った。
「よくわからないわ。責任とか義務とか、そういうものはわたしたちの世界にはないもの。だれかが困ったときに助けるのは当たり前のことだし……強いて言うなら、自分がやりたいと思うことをするのが、わたしたちの義務みたいなものだから。一緒にいたいならいればよかったのに」
憤慨しているメグの隣で、シュンは考えながら言った。
「俺は、一緒にいてもあの二人はうまくいかなかったと思うよ。ずっとマスコミとか政府の人とか警察から逃げ続けなきゃいけなくなるし、周りにいる人たちも対応に追われて大変なことになるから」
自分ならたぶん一か月も耐えられない。たとえ、どんなに好きだとしても。
「それに二人は衝動的に恋に落ちただけだから、結局最後は別れようって話になったんじゃないかな。それが遅いか早いかだけの違いだよ」
「……わたしは違うわ」
メグは真剣な顔でそう言うと、シュンのほうを向いた。そのままメグがこちらに身を乗り出してくるので、シュンはソファの端に追い詰められた。
「でも、瞬はわたしが本気じゃないって思ってるんでしょ?」
「それは」
シュンはため息をつき、髪を掻きあげながら言った。
「……そうだよ。だって実際そうだろ? 君はこうやってなんの遠慮もなく近寄ってくるし」
「それがいやなの? どうして?」
「……言いたくない」
言えるわけがない。ずっとこの体勢でいると身体が反応してしまう、なんて。
「どうして言いたくないの?」
シュンはうつむいたまま言った。
「……俺には将来がないから。会社だって辞めたし、ゲームは作ったけど全然売れないし。お金がなくなったらこの生活を維持できなくなる。生活保護を受ければ死ぬことはないけど、そこから抜け出すのは簡単じゃない」
シュンはそこまで言ってため息をついた。
「俺はジーンみたいにちゃんとした人間じゃないんだよ、メグ。人ともうまくやれないし、話すのも苦手だし、常識もないし、夢中になったらずっとゲームを作るのに没頭してるし、規則正しい生活を送ろうとすると、ストレスで死にそうになる。そんな人間とつき合ったって仕方ないだろ?」
メグがきっぱりと首を振る。
「関係ないわ。だって好きになってしまったもの」
「今だって、頭の中では、君をああしたいとかこうしたいとか、そんな不純なことばっかり考えてるのに?」
恋をしているわけじゃないのに。
「それはわたしもよ、瞬。わたしもあなたを、ああしたいとか、こうしたいとか考えてる」
シュンははっとしてメグを見つめた。
「わたしはもう向こうの世界の人たちとは違うの。じゃなきゃここには来なかった」
「……どうして」
「わたしがそう望んだから。あなたを好きになったから」
「俺が君を変えたのか?」
「……そうよ」
メグが微笑み、顔を近づける。
「瞬はどうしたい?」
シュンはごくっと唾を飲み込んだ。
彼女に触れたい。でもそれは、許されることなのだろうか。
砂漠のど真ん中で喉がからからに渇いているときに、水を飲みたいと思うのと同列に考えてもいいのだろうか。
「キス、していい?」
シュンが掠れた声でそう言うと、メグがシュンをじっと見つめた。
「どうして?」
……わからない。でもどうしても、彼女にキスしたい。
「理由がないと、だめ?」
メグが首を振り、かすかに微笑む。
「……いいえ」
その返事を聞いたとき、シュンは考えることをやめ、衝動のままにメグに口づけていた。唇の感触を味わいながら、その心地よさに思わず声が漏れる。
ああ、すごくいい。夢で見たよりも、ずっと。
舌でメグの唇に触れると、メグが自然に口を開いたので、シュンは我を忘れてしまった。メグの口内に舌を侵入させ、彼女の舌を絡め取って愛撫すると、メグが鼻にかかった声を漏らした。口づけながら、シュンは無意識に服の上からメグの胸を触っていた。 もっと彼女に触れたい。背中のファスナーを下ろして腰の辺りまで脱がせ、下着のホックを外して、白く滑らかな肌を露出させる。きれいだと、単純にそう思った。
手のひらで胸を包みこむように触ると、メグが小さく喘いだ。
まだ止めたくない。もっと彼女の声を聞きたい。
シュンがかがんで胸の先を優しく吸うと、メグがびくりと背中を反らして声をあげた。
「ああ、瞬……」
それは夢とまったく同じ光景で、シュンは我に返った。
肩で息をしながら、シュンはメグから離れた。
「ごめん……」
メグが首を傾げる。
「どうして謝るの? わたしはいやだと思ってないのに」
「だって……」
自分はなかなかに最低だ。
メグにはっきり好きだと言っていないし、ちゃんとつき合っていない。衝動に任せてこんなことをしているだけなのに。
「あの、瞬」
シュンは慌てて考えるのをやめてメグを見た。
「な、なに?」
メグが落ち着かなげに太腿を擦り寄せていた。
「脚のあいだがむずむずして……どうすればおさまるの?」
「自分でしたことないの?」
シュンが驚いてそう言うと、メグがこくりと頷いた。
シュンはちょっと迷ったが、メグの下着の中に手を入れてみて驚いた。キスして胸を触っただけなのに、そこはもうぐっしょりと濡れてしまっていた。
シュンの手が触れると、メグが喘ぎ、シュンの手に腰を擦りつけるように動いた。
「……もっと触って」
そう言われてシュンはせっかく取り戻した理性がまたぐらつきはじめるのを感じた。
仕方ない。触っていかせるだけだと、シュンは自分に言い聞かせた。
だいたい、彼女がこうなったのは自分のせいなのだから。
このまま彼女の中に挿入してしまいたい。そして衝動のままに腰を打ちつけたい――。
その思いをどうにか振り払い、シュンはメグを背後から抱いて、胸を触りながらメグの感じやすい場所に円を描くように指の腹でゆっくり触った。
しばらく触っていると、メグの呼吸が乱れ、腰が落ち着かなげに揺れはじめた。シュンが徐々に触る速度を上げると、メグは鋭く声を上げて頭を反らし、身体を震わせながら達した。
肩で息をしているメグの乱れた髪を整えながら、シュンは心配になって声をかけた。
「大丈夫?」
すると、メグがぎゅっと胸に抱きついてきたので、シュンは慌てた。
「ちょ、メグ」
「……すごくよかったわ」
囁くような声音でそう言われたとき、シュンはよくわからない感慨に襲われ、胸がいっぱいになるのを感じた。
「……俺も」
よかったと言いかけて、シュンは自分の身体がどういう状態だったかを思い出して口を閉じた。
「ちょっとトイレ……」
シュンはそう言いながら、慌てて立ちあがった。
トイレで自分の昂りを始末して、シュンは息をついた。
舞花と別れてからは、もう性交渉なんてしたくないと思っていたのに。
なぜこんなに求めてしまうのだろう。
感じているメグの顔はすごくきれいで、できるならもっと見ていたかった。
もっと声をあげさせたかった。
(……だめだって)
まだ安定した収入はないし、この生活がいつまで続くかわからないのに。
そういう仲になるわけにはいかない。
それ以上に、怖い。
彼女にのめり込んでいく自分が。衝動を抑えられない自分が。
舞花とするときに、こんなふうになったことはなかった。彼女の中に押し入って、ひとつになりたいとか、自分のものにしたいと思ったことはなかった。
(しちゃだめだ、これ以上は)
だが彼女はこういうことには無知だし、自分を拒否することはないのだから、好きなだけしてしまえばいい――そんな悪魔の声が囁いたが、シュンは首を振った。
そんなことはしたくない。身体だけ目当てで、彼女を利用するなんて真似は。人として間違っているし、してしまったあとで、罪悪感がつきまとうに違いない。自分だって、身体だけの関係でしかなかったとわかったときは、あんなに傷ついたのに。
(でも、そんなふうに考えるのは、俺がメグを好きだからじゃないのか?)
そんな考えが浮かんできて、シュンは考え込んだ。
やっぱり、そうなのだろうか。
向こうにいるときは、ジーンにときどき嫉妬していた。こちらに帰ってきてからは、つらいことがあるたびに、彼女に会いたいと思った。メグがまた会いにきてくれたときは戸惑ったが、本当は嬉しかった。ずっと、そのことを認められなかった。
だったら、勢いだけで関係を進めるのではなく、ちゃんとした手順を踏まなければ。
一度進めてしまえば元には戻れない。だとしても、終着駅まで行かなければいい。
そのあいだ、メグがずっと自分のことを好きでいるかどうかはわからないのだから。
シュンがトイレから出ると、メグがこちらを向いた。彼女がまた元通り服を着てくれていたので、シュンはほっとした。
裸にでもなられたら、理性を抑えられる自信がない。
「つき合おう、メグ。俺は、たぶん、君が好きなんだと思うから」
もうちょっとマシな言い方はないのかと思いつつ、シュンはそう言った。
「ほんと? 恋人になってくれるの?」
「うん」
「ありがとう!」
そう言ってメグはシュンに抱きつこうとしたが、シュンはすぐにメグの身体を引き剥がした。
「でも、さっきみたいなことはもうしないから」
「どうして?」
「どうしてって……」
「好きならするものなんじゃないの?」
「べ、べつに恋人だからって性交渉しなきゃいけないわけじゃないよ。恋人じゃなくてもしてる人はたくさんいるし、逆にしない人もいる。いろいろだよ」
(嘘つけ、本当はしたいと思ってるくせに)
しどろもどろに弁解するシュンに、心の中の自分がすかさず突っこんだが、シュンは無視を決め込んだ。
「俺は、君と安易にそういうことはしたくないんだ。まだこれからどうなるかわからないし、お金がなくて路頭に迷ったら、君と暮らせなくなるし。深い仲になりすぎたらお互いに困る」
「だからそれはわたしが」
シュンはきっぱりと首を振った。
「それはできない。俺よりもっと貧乏でお金に困ってる人はたくさんいるのに、俺だけズルするわけにはいかないから」
こちらの世界ではずるい人間が得してばかりだが、そういう人間と同じにはなりたくない。
「人生なんてただのゲームだ。だからきっと、なにか法則があるはずなんだよ。うまくいく法則が。俺はそれをだれかに教えてもらうんじゃなくて、なんとか自力で探したい。まだ、完全に行き詰まるまでは」
「そういうもの?」
きょとんとしているメグに、シュンは頷いた。
「うん。俺はそう思ってるんだ」
まだ自分はやれることをすべてやっていない。
自分の足で歩きだしたばかりなのに、自分を裏切るような真似はできない。諦めるにはまだ早すぎる。彼女に頼るのは最後だ。
メグが嬉しそうに微笑む。
「あなたのそういうところ、好きよ」
まともに笑顔を受けてしまって、シュンは気まずげに視線を逸らした。
彼女の笑顔は心臓に悪い。
「……見栄っ張りなだけだよ」
「それで、ほかにはなにをするの?」
「それは……デート、とか」
「デートって?」
「二人で一緒に時間を過ごすんだ。どこかに出かけたり、映画を見たり食事したり。そうやって相手のことを知っていくんだ」
シュンはそこで言葉を切り、メグを見つめた。
「俺はまだ、君のことをよく知らないし」
メグがにっこり笑う。
「じゃあやりましょ。できること全部」
「いや、それは……」
シュンはそこで口を閉じた。
自分の世界では、それをするのには金がかかる。というか、そうやって人に金を使わせようとする。
(どうしよう……)
性交渉しているほうがお金がかからないなんて悲しすぎる。
どうしてこの世界では、生活しているだけなのに、こんなにお金がかかるんだろう。なにかを新しく始めるのだってそうだ。でもするわけにはいかない。一度すれば、のめり込んで夢中になってしまうのはわかりきっている。
(それは嫌だ)
今の自分の最優先課題は、なんとか経済的に自立することだ。いっときの感情ですべてをふいにするような、愚かな真似はしない。
実際、好きなだけではどうしようもないし、どうにもならないのだから。
「うん、しよう」
そしてなるべく、お金のかからない方法で。
(なんか、すごく疲れた……)
ソファに横たわった体勢で、シュンは今日のことを振り返ってそう思った。
寝台では、メグがすでに寝息を立てていた。
恋人にすると決めた以上、シュンは寝台をメグに譲ることにした。メグにはそれは悪いから一緒に寝ようと言われたのだが、シュンは頑なに断って、ソファに自分の布団を敷いて寝た。そうしないと、いろいろ我慢できる自信がなかった。
もし彼女と最後までしてしまったら、自分はどうなってしまうのだろう。今まで自分を構成していたプログラムが、すべて強制的に書き換わってしまう――そんな気がした。
これから距離が縮まっても、彼女の身体には決して触れないようにしよう。
シュンはそう心に誓った。
