そこには、昨日会った男が立っていた。服は違うが、またしても着古した服で、靴は前と同じだった。
「身の丈に合うところから始めたね、青年。感心感心」
シュンは胡乱げに微笑んでいる男を見つめた。
(……何者なんだよ、この人)
服はくたびれているが、ホームレスの類ではなさそうだ。今の図書館では、ホームレスはすぐに追い払われてしまうのだと、昔ネットの記事で読んだことがある。
(新手の詐欺ビジネスの勧誘とか?)
そういう人間の被害に遭うのは、世間知らずで社会に居場所がなく、一発逆転で人生を変えることを夢見る愚かな人間と相場が決まっている。
つまり、自分のような人間。
(俺はべつに一発逆転なんか狙ってないからな)
最初はあわよくばという気持ちもあったが、あまりにも売れないので、そんな気持ちはどこかに消え失せてしまった。
「仕方ないでしょ、俺は頭の出来がよくありませんから」
シュンがふてくされた顔で言うと、男は真剣な表情で首を振った。
「それは違うよ、青年。君は頭が悪いから勉強ができないわけじゃない。ただ勉強が楽しいと思う機会に恵まれなかっただけだ」
「勉強が楽しい……?」
シュンは聞き間違いではないかと思った。勉強が楽しいと思う人間がこの世界にいるなんて信じられない。そいつは絶対に、勉強ができるのと引き換えに、悪魔に魂を売り渡したに違いない。
「本来勉強は楽しいものなんだよ。学校でいい成績を取るためにするものじゃない。いい成績を取ったところで、必ずしもそれが賢いという証明にはならない。勉強は学校でなくてもできるからね。まあ、なにもわからないうちからひとりで勉強しても成果は上がらないし、教え導く人間は必要だけど」
「それがあなただって言うんですか? その料金は幾らくらい?」
シュンが皮肉っぽく言うと、男が苦笑した。
「これが押し売りだと思ってるね、青年。大丈夫だよ、お金は取らないから。わたしは良心的なんだ」
「……それはそれで信用できないですけど」
目的のある人間より、純粋に人助けをしたいと思っている人間のほうが信用できない。 シュンはいつもそう思っていた。目的のある人間は、相手が利用できないとわかれば離れていくが、善意で近寄ってくる人間は、相手が断ると不機嫌になるし、こちらを責めてくる。優しい自分に酔っているだけで、相手のことなどまるで考えていないのだ。
男があっさり頷く。
「それならそれでいいよ。わたしの話を聞いたあとで、君が判断すればいい」
(判断、ね)
その言葉は気に入ったが、彼はそうやって自分を誘導するつもりなのだろうか。
教師たちはいつもそうだった。自分たちに考えさせるといいながら、答えはいつも決まっている。教師が想定している範囲外の答えはすべて不正解になる。そうやってみんな、他人に気に入られる答えを出さなければ生きていけないことを学んでいくのだ。
「ではさっそく第一問。君は、なぜ人は勉強するのだと思う?」
「それは……そうしないと、いい学校にも企業にも入れないから。それで年収が決まるから」
シュンは苦々しい気持ちで言った。親が金持ちでも権力者でもない人間は、学校の勉強ができなければ、上流へのパスポートを手に入れられない。
「模範解答だね。でも君はその答えに納得していない」
「そうですけど……」
答えながら、シュンは下を向いた。学校の勉強はまるでできなかった。自分はいつも劣等生だった。どの科目も興味が持てなかったし、面白くなかった。
「君は料理をする?」
「しますけど……」
「そのために本で勉強した?」
「するわけないでしょ。プロの料理人になるならともかく……そんなの、実際にやって覚えるのが一番早い」
「そう。そういうことは、知識を頭に詰め込んだところで、実際にやるのとは話が別だ。なのに勉強が嫌いな人たちは、興味がないのにひたすら知識を頭に詰め込んで、問題を解く作業だけをやってるんだ。学校でいい成績を取るという目標のために」
(だから俺はつまらないと思ってたのか?)
頭に詰め込んでいるだけで、実際は使わない知識ばかりだったから?
「でも勉強が好きな人間は違う。彼らにとっては、知識を得て理解を深めることそのものが喜びなんだ」
それを聞いてシュンは戦慄した。この世には、そんな人種が存在するというのか。役に立つかどうかもわからないのに、ただ知りたいから知ろうとする? 理解不能だ。
シュンの様子を見て男が笑った。
「そんなの無理だって思ってる? でも、意外と簡単なことだよ」
シュンは黙って男の言葉の続きを待ったが、そこで男はじらすように、ちらりとシュンのほうを見た。
「……どうすればいいんだって訊かないの?」
シュンは顔をしかめた。彼は胡散くさい上に面倒くさい。
やっぱり自分は騙されているだけなのだろうか。
けれど、彼の言うことはそれなりに理に適っているような気もする。
……仕方ない。
「……どうすればいいんですか?」
シュンはめいっぱい嫌そうな顔を作ってから、男に訊ねた。
夕食の片づけを済ませたあと、シュンはぼんやりとソファに坐っていた。
(身の回りのことに、疑問や関心を持てばいい。それが勉強の第一歩なんだ)
嫌そうな顔を作って訊いたシュンに、男は笑顔でそう言った。
(って言われてもな……)
人のことも世の中のことも、興味なんてない。
この世界に無数にある、暗黙のルールに従いながら生きていくので精一杯だ。
それに、なにも知らないほうが幸せだという言葉もある。
知ることそのものが喜び。どうすればそんなふうに思えるようになるのだろう?
「ねえ、どうしてテレビってこんなにつまらないの?」
メグの声でシュンは我に返った。メグはシュンの隣に陣取ってしばらくテレビを見ていたが、人差し指だけを左右に動かして、映像を消してしまった。
「こっちでは、芝居が見たかったら劇場とか見世物小屋に行くけど、こんな出来ならみんな途中で帰ってしまうわ。帰るどころか野次が飛ぶかも。どうしてみんな抗議しないの?」
「それは、えーと……」
シュンは携帯電話で検索してみた。
テレビ、つまらない、理由。
「この国ではテレビ局よりも芸能事務所の権限が強すぎるから、脚本を現場で書き直すんだって。だから事務所が売りたい俳優が不自然にたくさん出てきて、面白くなくなるみたいだよ。あと、スポンサーが気に入らないとお金を出してくれないとか、内容が過激だと批判が殺到するから無難になる、とか」
そこまでネットの記事を読んでから、シュンはメグのほうを見た。
「……わかる?」
「ぜーんぜん」
「じゃあなんで訊いたんだよ……」
シュンが脱力していると、メグが声を立てて笑った。
「あなたと話したかったから」
シュンは動揺して手に持っていた携帯電話を落としかけた。
(やめろ。変なことを考えるな。本気にするな)
「まあそれはともかく、実際に作っている人以外の都合でなにもかも決まってるってことはわかったわ」
その言葉を聞いて、シュンは表情に出さなかったが、内心メグの理解力の高さに驚いていた。向こうにいるときから思っていたが、彼女は馬鹿ではない。
「でも、どうしてつまらないのに抗議しないのかはわからないままね」
シュンは苦笑した。
「君はどうしてばっかりだな」
「だって、学校でそう教わるもの」
「学校で?」
シュンが驚いてそう言うと、メグが当然とばかりに頷いた。
「ええ。自分が疑問に思ったことを大切にしなさいって」
あの男と同じことをメグが言ったので、シュンはまた驚いた。
自分がいた学校は、それとは真逆だった。
どうして? そう訊ねても答えてくれる大人はいなかった。
母はいつも仕事や家事で忙しくしていたから、話すことを遠慮していた。だからすぐに諦めてしまった。なにもかも、そういうものなのだから仕方ないと思っていた。
なぜ学校に行くのか。
なぜ勉強するのか。
なぜ受験するのか。
なぜ将来の夢がなければいけないのか。
なぜ働かなければならないのか。
なぜ税金を納めなければいけないのか。
なぜ母親が朝から晩まで働かなければ生きていけないのか。
「……ああ、そうか」
そうやって勉強すればいいのか。
なにがわからないかわかっていないから、どんな本を読めばいいのかわからなかったのだ。ゲームに対する不満や問題点なら、いくらでも挙げられたではないか。
その要領でやればいいのだ。
「……わかってきたよ、メグ」
「なにが?」
きょとんとしているメグに、シュンは口元を上げてみせた。
「……勉強のやり方」
