第16話 葛藤(1)

 シュンは夢の中で、自分が作ったゲームのキャラクターになっていた。
 (やめてくれ。俺はだれとも一緒にいる気はないんだ)
 そう叫びたいのに、かまってくるプレイヤーには届かない。
 どんなに手懐けようとしても無駄だ。
 だって俺は、

 シュンははっと瞼を開けた。
 そしてまっさきに視界に飛び込んできたのは、メグの顔だった。
 寝台の傍らに坐り込んだメグが、にこりと微笑む。
「おはよう、瞬」
 状況を認識した瞬間、シュンは反射的にメグから離れようとして、背後にある壁に勢いよく頭をぶつけてしまった。
「った……」
「瞬! 大丈夫?」
 頭を抱えてうめくシュンに、メグが慌てて寝台に上がって距離を詰めてくる。
(やめろ、それじゃ逆効果だ)
 シュンは焦りながら、なんとかメグと距離を取った。
「大丈夫……それより、なにして」
 昨夜は、寝台をどちらが使うか話し合った末に、シュンが寝台で寝ることになった。メグは無理やり泊まらせてもらっているのだから、自分で寝具を出してソファで寝ると言い張ったのだ。
 シュンとしてはメグに寝台を使わせたかったのだが、シーツも枕カバーも何日も洗濯していなかったので、メグの申し出に甘えることにした。
 メグがすまなそうな顔になる。
「あなたを起こしてあげようと思っただけよ。でも、そんなに驚くとは思わなくて」
「起こすのはいいけど……もうちょっと違うやり方にしてほしいかな……」
 でないと心臓に悪すぎる。思えば、向こうでも彼女は寝ている自分を勝手に膝枕していた。彼女はそんなに自分の寝顔を見るのが好きなのだろうか。
(……そうじゃなくて)
 ああいうことは、恋人同士でやるからいいのだ。
 自分はそうではないし、そうなるつもりもない。
 彼女は恋人ではない。ただの居候だ。
 シュンはそう自分に言い聞かせ、寝台から降りた。
「……瞬」
 呼びとめられて、シュンは振り返った。
「なに?」
「おはようって言って」
 メグの要求の意味がわからず、シュンは訝しげな表情を作った。
「なんで?」
「さっき言ってくれなかったから」
 そういえばそうだった気もする。だがそれは、彼女が自分を驚かせるのが悪いわけで……そう思いつつも、シュンはしぶしぶ口を開いた。
「……おはよう」
 メグの顔にぱっと笑みが広がる。
「おはよう、瞬」
(……なんで)
 シュンは彼女の笑顔を直視できず、目を逸らした。
 なぜそれだけのことで、彼女は嬉しそうにできるのだろう。
 そして自分はなぜ、こんな胸が詰まるような感覚に襲われているのだろう。
 そう思いながら、シュンはメグを置いて洗面所に向かった。

 朝食の用意を終えても、時刻はまだ朝の七時を過ぎたところだった。
 会社を辞めてからのシュンは、ごみを出す以外の日は、夜更かししてゲームを作り、昼近くまで寝るのが当たり前になっていて、規則正しさをすっかり失っていた。といっても、毎日同じ時間に起きて寝ることにだってストレスを感じていたのだが。
 トースターで焼いた食パンをかじりながら、シュンはメグをちらりと盗み見た。
 シュンの借りている部屋の間取りは八畳1Kで、ダイニングがなかった。自分の給料ならもう少し広い部屋に住むことも可能だったが、家賃がもったいなくてやめたのだ。
 狭い部屋は移動距離も少なくてすむし、掃除も楽だ。物も増えない。そしてなにより落ち着く。しかし、いくら好きだとしても、こんな狭い部屋で一緒に住もうと思う女性はほとんどいないだろう。しかも自分は無収入なのだ。体裁が悪いことこの上ない。
 シュンの視線に気づいたのか、メグがこちらを見て微笑んだ。
「わたしが言ったこと、信じてないでしょう?」
「……当たり前だろ」
 シュンはため息交じりに言ってから、マグカップに淹れた紅茶をひと口飲んだ。
 ゲームやアニメの世界じゃあるまいし、そんな自分に都合のいいことばかり起きるわけがない。彼女はきっとわかっていないのだ。
 人を好きになるのがどういうことなのかを。
「どうして? わたしと性交渉したいならしてもいいのよ?」
 シュンは飲んでいた紅茶を噴き出しかけた。
「そういうことが平気で言える時点で、君の言う好きは子供と同じレベルなんだよ」
「そうなの?」
「そうだよ」
 口元を手でぬぐいながら、シュンは言った。
(……そういうものなんだよ)
 そんなふうに、無邪気に好きだと言われても到底信じられない。
 自分など、きっとただの暇潰しかなにかだ。そうに決まっている。
「だれかを本当に好きになったら、好きなんて簡単に言えなくなるんだ」
「それは人によると思うけど。わたしは本当にあなたが好きよ、瞬」
 そう言ってにっこり笑うメグに、シュンは顔をしかめた。
 なぜ彼女はここまではっきり言いきれるのだろう。わからない。
「それで、今日はなにを作る? 教えてくれるんでしょう?」
「じゃあ、まずはサンドイッチから……」
 シュンがそう言うと、メグが不満そうに唇を尖らせた。
「それじゃつまらないわ。あなたが食べたいものを作らせてよ」
「それだとまた失敗するだろ」
 シュンは呆れながら言った。彼女は教えを請う立場なのにわがままだ。
「料理は基本を覚えておけば応用が利くんだよ」
「そういうもの?」
「そういうものだよ。こういうのは段階を踏んでやらないと……」
 そう言いながら、ふとシュンは勉強も同じかもしれないと思った。
 経営とか法律とか、そんな難しいところから手をつけたのがよくなかったのだ。
 その前に自分は基礎知識が足りない。この国の歴史も政治も経済も、なにもかも。
(……認めよう。自分が馬鹿だってこと)
 今の自分では、難しい話をされても理解できない。
 まずは義務教育レベルの本から始めなければ。
「また考え事?」
 シュンははっと顔を上げたが、メグは気分を害した様子もなく微笑んでいた。
 そんな彼女を見ながら、シュンはまたしても例の胸が詰まる感覚に襲われて動揺した。
 確かに彼女はわがままだが、時折シュンがうわの空になっても怒らないし、不機嫌にならない。辛辣に突っこんでも、特に気にした様子もない。
 そういうことを考えたとき、なんだか胸の奥がいっぱいになって、どうしていいのかわからなくなる。そして、彼女にその気持ちをぶつけたくなる――。
 シュンはそこで思考を無理やり遮断した。
 だめだ。その気になってどうする。
 苦しむとわかっているのに、自分から足を踏み入れる必要はない。
「……ちょっとね」
 そう言いながら、シュンはまたマグカップを傾けた。

 読んでいた歴史漫画を開いたままの体勢で、シュンは机に突っ伏した。シュンはメグを部屋に残して、いつものように図書館に来ていた。
(あなたのこと、好きになってしまったの)
 もう、そういうことに夢は見ないと決めたのに。
 今の自分に必要なのは、恋愛にうつつを抜かすことではなく、経済的に自立することだ。そしてそのために必要な知識を身につけること。現実から逃れるために夢を見てはいけない。あの男にもそう言われた。しかし、この世界のことをなにも知らない彼女を部屋から締め出して見捨てるわけにもいかない。
(わたしと性交渉してもいいのよ?)
(……いいわけないだろ)
 シュンは内心で突っこんだ。だいたい、彼女はそういうことについてどこまで知っているのだろう。向こうで性教育は受けたのだろうか。あらぬ方向に思考が飛びそうになって、シュンは首を振った。とはいえ、彼女は異性だ。まったく意識していないといえば嘘になる。しかもひとつ屋根の下で一緒に暮らしているのに。
(……あんな夢まで見たのに)
 普段なら、時間が経てばすぐに忘れてしまうのに、夢で見た光景をシュンは今でも鮮明に覚えていた。
 それは溶けるほど熱くて、甘美で、心地よいとうすい感に満たされていて――。
 シュンは両手で頬を叩いて空想を頭の中から追い払った。
 全部ただの妄想だ。だって、ただの一度も現実でそんなふうになったことはない。頭の片隅では、いつもどこか冷めていた。
 性交渉なんて、したところで虚しいだけだ。もう失望したくない。それに、つき合うつもりがないのにそういうことだけするなんて、道徳的に間違っている。
(それ以前に、そもそも好きってなんなんだ?)
 彼女には子供と同じレベルだと言ってしまったが、自分だって恋愛に関しては初心者なのに。だが、性的な関心を持つことイコール好きにはならないはずだ。
 映画で見た恋愛にはもっといろいろなドラマがあったし、波瀾万丈だった。寝ても覚めてもその人のことを考えてしまうとか、四六時中一緒にいたいと思ってしまうとか、わかっていても愚かな行動を取ってしまうとか――。
 シュンはため息をついた。
 そんなふうにだれかを思ったことは一度もない。メグだって違う。
(そんな恋は、たぶん一生せずに終わるんだろうな)
 でもそれはほかの人間も同じはずだ。自分だけができないわけじゃない。そうでなければ、恋愛映画はとっくの昔にこの世から滅んでいるはずだ。
 シュンはそう自分に言い聞かせながら、またため息をついた。
 だいたい、これからの生活はどうする? 貯金はいくらかあるが、今は完全に無収入だ。メグに生活費の半分を出してもらうとしても、このまま収入がなければ二年ほどで底をついてしまう。
 なぜメグはよりによって自分のような人間を選んだのだろう。ほかの人間が羨ましがるようなものはなにも持っていない、しかも安定した生活を蹴って、ゲームを作っているような人間を。
(でも俺は、たぶんこんな生き方しかできない)
 シュンはそう思った。実際こんな状態でも、会社員に戻りたいとはまったく思わなかった。安定した生活と引き換えにやりたいことを我慢するのも、歳をとって死ぬ間際になってからやっておけばよかったと後悔するのも嫌だった。たとえ貯金が底をついて、アルバイトで食いつなぐことになっても。
 何度やり直したとしても、きっと自分はこの道を選ぶ。そんな確信があった。
「こんにちは」
 突然背後から声をかけられ、シュンはびくっとして振り向いた。