ミヒャエルがリートの部屋を訪ねてきたのは、休暇の最終日だった。
「犯人が自首してきたの?」
リートは驚いてそう言うと、ミヒャエルがうなずいた。
「ああ。今朝のことだ。正確には爆薬を調合した犯人だが」
今部屋にいるのは、リートを除けばルイスとミヒャエルだけだった。
エミリアは両親と共に伯父のリヒトホーフェン公の屋敷に招かれていて、王宮にはいない。
「じゃあ、もう事件は解決?」
リートがそう言うと、ミヒャエルがなぜか意味ありげに微笑んだ。
「詳しく話したいところだが……その前に君は語学の勉強だ」
「えー」
リートは思わずそう抗議の声を漏らしたが、ミヒャエルは取り合わなかった。
「エミリアに頼まれたんだ。ルイスの教え方が下手だから、代わりに一度見てやってくれないかと。どうせおまえのことだから、教本に書いてあるような通り一遍等の説明をしたんだろう」
「それのどこが悪いんだ。教本より自分のほうが正しいとでも言うつもりか?」
ルイスが心外だという表情で言い返すと、ミヒャエルが嘆かわしそうなため息をついた。
「教本は教典じゃない。自分に合ったものを選ばなくては意味がない。しかもリートは教本通りの模範解答では納得しない人間だ。要するにズレてるんだよ、おまえの教え方は」
「どういう意味だ」
「的外れで頓珍漢だってことさ」
ミヒャエルがばっさり言うと、ルイスが顔色を変えた。
「そうなのか、リート」
「いや、そこまでは思ってないけど……」
ルイスに詰め寄られて、リートは返答に窮した。
ルイスがすべて悪いわけではない。
これはおそらく、何事も突き詰めなければ気が済まない自分の性格のせいだ。
だが確かに、ルイスの説明は明快とは言いがたい。リートがいくら質問しても、満足のいく回答が帰ってきた試しはなかった。
「君はまず言語の成り立ちから勉強したほうがよさそうだな。主語と述語はわかるだろう?」
「うん……それくらいなら」
しかし、授業が始まってものの数分でリートは深く集中していた。
ミヒャエルの授業は対話形式で、ひたすら文法を説明するだけのルイスとはまるで違っていた。ミヒャエルは比喩表現が的確で、なぜそうなっているのかを本質的に説明してくれたので、リートは理解しやすかった。これならいちいち法則を頭の中に詰め込む必要もないし、質問もできるから、自分がどこまで理解できているかすぐにわかる。学校の授業で板書するのは苦痛で仕方なかったのに、リートはミヒャエルの話す内容を聞きながら、自分でメモを取っていた。
「すごい。どうやって考えればいいのかわかってきたよ。ミヒャエルって教えるのも上手なんだね」
リートが興奮ぎみに言うと、ミヒャエルが微笑んだ。
「妹の勉強をよく見ていたからな。どうだ、ルイス。わたしの授業は」
「……もう話していいのか?」
ルイスが椅子に坐ったままの体勢で、不機嫌そうに言った。
ミヒャエルの質問にリートが詰まるとルイスが先に答えてしまうので、ミヒャエルにおまえは黙って椅子に坐っていろと言われていたのだ。
「わたしにはよくわからない。なぜそうやっていちいち突き詰めて考える必要がある? 覚えたほうが早いだろう」
「いかにも記憶力頼みの人間の言いそうなことだな」
ミヒャエルが呆れたように言うと、ルイスの視線が険しくなった。
「わたしを馬鹿にしているのか、ミヒャエル」
「ああ。そのとおりだが?」
ミヒャエルがにっこり笑って答えると、ルイスが反射的に立ち上がりかけた。
「ルイス」
リートが咎めるように名前を呼ぶと、ルイスはまた椅子に坐り、黙って横を向いてしまった。ミヒャエルが口元を手で隠し、声を出すのをこらえて笑う。
リートはため息をついた。エミリアなしでは、やはり二人の対立は避けられないらしい。
「さて、勉強はこのくらいにして、君に読み聞かせをしよう」
ミヒャエルが突然そんなことを言ったので、リートは首を傾げた。
「なんの?」
「ノルベルトの供述調書の写しを持ってきたんだ」
「ミヒャエル」
今度はルイスが咎めるような声を出したが、リートは聞いていなかった。
「今日は全部読んでくれるの?」
リートが冗談めかして言うと、ミヒャエルは鞄から書類を取り出してにやりと笑った。
「これは歯の浮くような台詞じゃないからな。それに、ルイスが読んだのでは臨場感に欠けるだろう?」
ミヒャエル「なぜ自首しようと思ったんだ?」
ノルベルト「奴らにとって僕はもう用済みだからさ。僕が殺されるのは時間の問題だった。だから逃げてきたんだ。もともとちょっと実験で作ってみただけで、もう爆薬の研究には興味がないしね」
ミヒャエル「実際に実行したのはだれだ?」
ノルベルト「残念ながら、僕はベギールデのことはなにも知らない。僕はただ言われたとおり爆薬を作っていただけだ。ずっと監視付きの部屋に籠もりっきりでね。そもそも僕はそういうことには一切興味がない。僕はただ研究ができるというからあそこにいただけだ。信仰なんかどうでもいい。むしろああいう輩は理解に苦しむね」
ミヒャエル「人を救う宗教団体のはずが、やっていることは殺人兵器の開発というわけか」
ノルベルト「言っておくけど、僕は作っただけで使ったことはない。使ったのはベギールデの連中だ。それのなにが悪いんだ? 間違っているのは、僕の才能を認めないこの世界のほうだよ」
ミヒャエル「才能だと?」
ノルベルト「君は科学って言葉の意味を知ってる?」
ミヒャエル「感情や信仰から区別された、理性的あるいは知的な学問すべてのことだ」
ミヒャエルの回答に、リートは少し驚いた。
「科学って、そういう意味なの?」
ルイスがうなずく。
「ああ、わたしも大学でそう習った」
リートは訝しげな顔で首を捻った。
「なんだか、僕が思ってたのと違うな。僕の思う科学は、飛行機とか自動車とか原子爆弾とか宇宙船とか……」
「待ってくれ、リート。翻訳されていない」
「えっ」
ルイスの言葉に、リートは驚いてピアスに触れた。
ミヒャエルが面白そうに口の端を上げる。
「どうやら君は、この世界にないものの単語を言ったようだな」
「ヒコウキとはなんだ?」
ルイスがリートの発音を真似てそう言った。
「空を飛んで移動する大きい乗り物だよ。しかも鉄でできてる」
リートがそう説明すると、ルイスとミヒャエルは揃って驚いた顔になり、同じことを言った。
「君はいったい、どんな世界に住んでいたんだ?」
リートは、向こうの世界でいかに自分が科学技術を応用した機器に囲まれた生活を送っていたかを説明した。
ルイスはリートの話を聞きながら、ときどき嘆かわしそうな表情で深いため息をついたが、ミヒャエルは興味を持ったようだった。
「すごいな。それが科学技術の発達した世界なのか。そんなに便利な世界にいたのに、君はよくここで我慢できるな」
リートは苦笑いした。確かに彼の言うとおりだ。
「ほかの人なら退屈で時間を持て余してるだろうね。でも、僕はここのほうが落ち着くんだ」
もともと自分の話をするのは苦手だったが、リートは向こうの世界にうんざりしていた。だからこそ、自分のいた世界のことについて、リートはルイスに触りを話しただけで、詳細な実態を語っていなかった。
「ルイスには一度言ったけど、僕の世界にいる人たちは、科学の力に目が眩んで、なにか大事なことを忘れてしまっている気がするんだ」
リートは考えながら言った。
「僕に言わせれば、あんなのは全部ただの玩具だ。便利になった代わりに、僕らはなにかを失ってしまった。本当に大事にしなきゃいけないのは、そういうことじゃなくて……」
「リート?」
物思いに沈んでいたリートはそこではっと我に返った。ルイスの青に金の虹彩が散った瞳が、自分の顔を心配そうに覗き込んでいた。
「大丈夫か?」
リートは目をまたたかせた。さっきまで自分はなにをしていたのだろう。
深い海の底に潜っていたのに、いきなり急浮上したときのようなそんな気分だった。
「僕は喋りながらいろいろ考えてただけだけど……そんなに変だった?」
リートがそう言うと、ルイスとミヒャエルが顔を見合わせた。
「なにをそんなに考えていたんだ?」
「それは」
リートは勢い込んで口を開こうとしたが、なにを考えていたのかまったく思い出せなかった。
「……ごめん、覚えてない。あ、でも、僕の世界より、ミヒャエルが普段やってる捜査のほうがよっぽど科学だよね」
リートがそう言うと、ミヒャエルが微笑んだ。
「そうだ。わたしは捜査に科学的手法を取り入れた。結果には必ずそれを引き起こす原因がある。そう考えるのが科学だからな。だが残念ながらこの国では科学的思考より、信仰のほうが大事なんだ。理性より感情なんだよ」
ルイスが聞き捨てならないとばかりに、鋭いまなざしをミヒャエルに向けた。
「信仰を馬鹿にするな、ミヒャエル。信仰こそ、この世で最も理性的な行為だ」
「どうせメルヒオルがそう言っていたんだろう」
ルイスが反論しようと口を開きかけたので、リートはその前に先を促した。
「ミヒャエル、続きを読んで」
ノルベルト「正解。だから、そういうことさ。僕にはそれができる。リヒトなんて僕には必要ないんだよ」
ミヒャエル「そういう君は、科学を信仰しているようにわたしには見えるが」
ノルベルト「そうだ。科学こそが僕のリヒトだ。この世界の摂理を思うがままに操る。科学はその方法を僕に教えてくれる。リヒトは怖いんだよ。僕らがリヒトの領域に近づくのがね。だからこうして邪魔をしようとする」
ミヒャエル「リヒトとは関係ない。おまえがここにいるのは、許されないことをしたからだ。建造物の破壊に傷害。その上混乱を引き起こして国の治安を揺るがすきっかけを作った。法律に違反しているから咎められる。それだけのことだ。自分の罪を正当化するな」
ノルベルト「おめでたいんだね、騎士さん。だから人はいつまで経っても真理に近づけないんだ。そうやってつまらないことに囚われてばかりで本質を見ないから、同じ失敗を繰り返す」
ノルベルト「アルベリヒには会ったかい?」
ミヒャエル「いや、まだだ」
ノルベルト「だろうね。住所自体が偽造だから。もしも、僕が実際にアルベリヒの住んでる場所を知ってるって言ったらどうする?」
ミヒャエル「なるほど。だから自首したのか」
ノルベルト「そうだ。でもその代わり条件がある。僕を雇ってくれ。僕は研究さえできればいいんだ。地位も名声も権力も金も必要ない。ほかにはなにも望まない。権力者にとって、僕は生かしておく価値がある。そう思わない?」
ミヒャエル「違う出資者に乗り換えようというわけか」
ノルベルト「そういうこと。まあ、考えておいてよ。僕は爆発で人が死のうが、そんなことはどうでもいいからね。リヒトの権威が失墜しようが、国が倒れようが、天変地異が襲おうが……」
ミヒャエル「アルベリヒはどういう人間なんだ?」
ノルベルト「慈悲深くて残酷。会えば僕の言ってる意味がわかる」
「これで終わりだ」
ミヒャエルが読み終えると、ルイスが探るような視線をミヒャエルに向けた。
「おまえたちは犯罪者と取り引きするつもりなのか?」
ルイスの言い方には、明らかに気に入らないと言う気持ちが滲んでいた。
調書を鞄にしまい込みながら、ミヒャエルが肩を竦める。
「それは団長の判断しだいだな。今は予断を許さない状況だ。早急にベギールデを逮捕しなければ、治安にも国政にも影響が出かねない。奴に研究させる自由を与えるだけで手がかりが得られるなら、わたしは躊躇しないが」
そこで言葉を切ったミヒャエルの瞳に暗い光が差した。今の彼の瞳は、グレーではなく茶色に見えた。
「本当の意味で罰を与えるなら、一生研究できないようにしてやるのが一番いいんだろうが……そんな権利は我々にはないからな」
リートは考え込んだ。
倫理観のない人間は科学を悪用する。自分のいた世界でもそうだった。
だが、なにかを発見するということと、それをなにに使うは別の問題のはずだ。
ミヒャエルが帰ってから、リートはルイスに話しかけた。
「国に乗り換えても監視される状況は変わらないのに、それでも研究がしたいなんて、ノルベルトはよっぽど研究が好きなんだね」
ルイスが苦い表情になる。
「好きと言うよりは狂っているな。研究のために自由を犠牲にするなど」
「彼は研究する自由が欲しいんだよ」
リートは訂正した。ノルベルトはそれくらい研究がしたいのだ。
たとえほかのすべてを犠牲にしても。
「ノルベルトは悪いことをしたってことになるのかな。彼はきっとやりたいことをやってただけなんだ」
「だからといって、犯罪に協力していいわけではない。それは自分のことだけしか考えていないということだ」
そのとおりだとリートは思った。自分の目的のためだけに他人を犠牲にすることは間違っているし、許されることではない。
「それは、そうなんだけど……彼の気持ち、ちょっとわかるような気がして」
リートはそう言ってじっとルイスを見つめた。
「ルイスは、僕の知りたいって気持ちを尊重してくれるよね。でも、もしそれが周りに悪影響を及ぼすような可能性があるとしたらどうする?」
ルイスの瞳が揺れる。
「それは……止めるだろうな。それに、実際にわたしは君を止めようとした」
「でしょ? まあ、僕としても、だれかに止めてほしいけどね」
そう言ってリートは皮肉っぽく笑った。
「でも、なんでもかんでも善い悪いを第三者が決めて制限するって、なんだか変だよね。それをされると不都合な人がいるから禁止なんて、勝手だよ」
リートが図書室に入れなかったのも、大人たちの勝手な都合によるものだ。世の中はそんなことで溢れている。
「だが、それでは秩序がなくなってしまう。いかなる理由があろうと人を傷つける行為は許されない。他人を傷つけていいのは、自分や大切な人間を守るときだけだ」
「わかってるよ。その理屈で君は僕を守ってくれた」
だから自分は今こうして生きている。
「犯罪を肯定するつもりはないよ。でも、悪いのは、そういう人の気持ちにつけ込んで利用する人間のほうだよ。知りたいって気持ちに罪はない。僕はそう思う。彼はきっと、自分の望みを叶えるために生きてきたんだ」
彼はミヒャエルの言ったとおり、大勢の人間に迷惑をかけるきっかけを作った。しかし、爆弾を作ること自体が悪いことだとは、リートにはどうしても思えなかった。
(勝手なこと言っちゃったかな)
ルイスが退出してしまってから、リートは沈んだ気分で考え込んでいた。
こういうことに関しては、ルイスは必ず秩序を重んじる。
彼の言うことはいつも正しい。
しかし、リートはどうしてもノルベルトに同情的になってしまっていた。
やりたいことが禁止されてできないのはつらい。
だいたい、科学を研究するという行為自体は、人を傷つけるようなものでは決してない。研究で得られた成果を、兵器にして悪用する人間が悪いのだ。
だが、自分の知りたいという気持ちは、どこまで許されるだろう?
自分のいた世界よりはマシだが、こちらにだって制限はある。
世の中には知らないほうがいいこともある。向こうの世界の大人たちはすぐにそういうことを言って逃げようとした。
(でも、犯罪者にはなりたくないな)
自分の目的のために手段を選ばない人間にはなりたくなかった。
しかし、すべての物事を善悪で分けることなどできないのではないか。リートはふとそんなことを思った。
科学にも、知りたいという気持ちにも善悪はない。感情や信仰と区別して考えるとは、そういうことではないのだろうか?
しかし、こんなふうに考えてしまうのは、自分を正当化したいという気持ちが心のどこかにあるからかもしれない。
そこまで考えてから、リートはそれ以上考えるのをやめた。
調書の内容だけではなんとも言えない。本人に直接会ってみなければわからないこともある。彼の態度を見れば多少は今の考え方も変わるかもしれない。
面会させてくれと言ったら、ミヒャエルは了承してくれるだろうか? だがルイスは難色を示すに違いない。
リートはそう思いながら、また台本を読む作業に戻ったが、すぐ違和感に気づいた。
(……読める?)
なぜか文章の意味が、自国の文字と同じ速度で理解できる。
何枚頁を捲っても同じだった。
いちいち自分の国の言葉に翻訳しなくても、その単語を見ただけで頭の中に意味が勝手に流れ込んでくる。
まるで頭の中にもう一人自分がいるみたいだと思いながら、リートは呆然とつぶやいた。
「……どうなってるの?」
