第54話 消えた台本

 次の日、リートは聖殿にいるユーリエの元を訪ねていた。
「もう体調は大丈夫なの?」
 はい、とユーリエがうなずいた。
「申し訳ありません、わたしが意識を失ったせいで、ルイス様もリート様も危険な目に遭わせてしまって」
「君は悪くないよ。悪いのは犯人のほうだ」
 リートは急いでそう言った。
 リートはルイスを伴って聖殿に来ていた。
「でも、どうしてあの時泣いていたの?」
 ユーリエが困惑したようにわずかに眉根を寄せる。
「わかりません。あの侵入者の顔を見てから、なにも記憶がなくて……」
「本当に彼に会ったことはないの?」
 ユーリエがきっぱりとうなずく。
「ないはずです。わたしが王宮に来たのは物心つく前のことですし、そのあいだずっと一人でした。リート様がここに来るまで、同年代の人間と話をしたことはありませんでしたから」
 男が自分を殺そうとしたときのことをリートは思い出した。
 あの時なにが起きたのか、未だにリートにはよくわからなかった。
 わかっているのは、なぜか男が自分の身体に直接触れられなかったということだ。
 自分に超能力は使えない。使えないはずだ。リートは向こうの世界で心霊現象にすら出くわしたことがなかった。
 普通の人間なら簡単にできることが、なにひとつ満足にできないのが自分だった。
「ねえ、なんであのとき、あれは僕の力だって言ったの?」
 リートはそう訊ねたが、ユーリエはわずかに目を見開き、首を傾げた。
「なんのお話ですか?」
「だって言ってたじゃないか、あれは僕の力だって……」
 リートはそこで言葉を切ると、まじまじとユーリエを見つめた。
「覚えていないの?」
 ユーリエが困惑した顔でうなずく。
「はい」

 廊下を歩きながら、リートは考え込んだ。
 ユーリエが自分に嘘をつく理由がない。
 自分にユーリエのような力は使えない。だがなぜか敵の攻撃を防いだ。
 なにもかもわからないことだらけだとリートは思った。
 なぜあの男は自分を殺そうとしたのだろう?
 なぜ聖殿にいたのだろう?
 なぜ聖殿に入ることができたのだろう?
「リート」
 ルイスの声でリートは現実に引き戻された。
「どうしたの?」
「……鍵が開いている」
 ルイスにそう囁かれ、リートは身を硬くした。
 ルイスが施錠し忘れることはありえない。エミリアが自分たちの留守中に部屋に入ったのは衣装選びのときだけで、それからは必ずリートたちがいるときに訪ねてきていた。
 ならば答えは一つだ。だれかが自分の部屋に侵入した。
「ここで待っていてくれ。中を見てくる」
 ルイスはそう言うと音を立てず扉を開け、滑り込むように部屋に入った。リートはその後ろから部屋の中を覗き込んだ。
 居間は特に荒らされた様子は見受けられない。リートはまたユーリエが来たのではないかと一瞬思ったが、ルイスがすぐ戻ってこないところを見ると、どうやらそうではないようだった。
 しばらくしてから、すべての部屋を調べ終えたルイスが戻ってきた。
「だれもいないようだ。荒らされた様子はないが、なくなった物がないか確認したほうがいい」
「わかった」
 といっても、もともとこの世界には身ひとつで来たのだ。貴重品と呼べるものをリートはなにも持っていなかった。あるのは学校の制服くらいだが、衣装だんひきだしにずっとわれたままだった。
 部屋に入ってみると、確かにルイスの言ったとおり、粗探しした痕跡はなさそうだった。
 しかし、机の上を見てリートはすぐに異変に気づいた。
「……台本がない。しかも全部」

 騒ぎを聞いてすぐに駆けつけてきたのはエミリアだった。
「台本がなくなったんですって?」
 応接用のソファに坐ったまま、リートは力なくうなずいた。
 派遣されてきたハーナルの騎士はリートたちへの事情聴取を終え、今は部屋の中を調べていた。
 リートはミヒャエルに会えるのではないかと少し期待していたが、来たのは見たことのない騎士だったのでがっかりした(窃盗の捜査はミヒャエルたちの部署の担当ではないのだと、あとでルイスが説明してくれた)。
「せっかく全部メモしておいたのに。九十七冊ぶんなんて覚えてないよ」
 消えたのは台本だけではなかった。リートが書いたメモの類はすべてなくなっていたので、これ以上の考察は不可能だった。
「大丈夫だ、リート。わたしが覚えている」
 リートは驚いてルイスを見た。
「覚えてるって……僕の国の字だよ?」
「意味はわからないが、形はすべて覚えている」
 リートは呆然とした。ルイスはただ記憶力がいいわけではなかったのだ。
 彼は見たものすべてを瞬時に記憶できる、映像記憶能力の持ち主なのだ。
「それにほかは無理だが、今年の台本なら復元できる。すべての頁に目を通したからな」
「ルイスって、電子演算装置パーソナルコンピュータより便利だね……」
 リートが思わずそう感想を漏らすと、ルイスが首を傾げた。
「それはなんだ?」
「僕の世界にある機械の名前だよ。人間の代わりに膨大な量の情報を記憶して、正確に演算してくれるんだ。ほかにもいろいろなことができるけど」
「人間の代わりに――そこまで機械にやらせてしまうのか」
「最終的に僕らはなにもしなくてもよくなるかも。だから僕は困ってるんだ」
 リートがそう言うと、今度はエミリアが首を傾げた。
「どうして? 面倒なことを全部機械がやってくれたら、自分の好きなことができるのに」
 ルイスが呆れた顔になる。
「それでは人間がなんのために存在しているのかわからないだろう。自分の価値を自分で否定しているようなものだ」
 ルイスの反論を聞きながら、リートはそのとおりだと思った。
 こういう話になったとき、彼が出す答えはいつも正しすぎるほど正しい。
 彼はいつだって、人がどうあるべきかを知っている。
「だから、僕らの世界では自分の価値を見つけるのが大変なんだよ」
 リートは二人にそう言いながら下を向き、意味もなく両手の指を組み合わせた。
「未だに僕にはそれがわからないし、自分になにかができるとも思えない」
 ルイスが驚いたような表情でリートを見る。
「なにを言ってるんだ。こうして研究してるじゃないか」
「でも、べつになにかの役に立つわけじゃないし。ただ気になるからやってるだけで」
 リートがそう言うと、ルイスはきっぱりと首を振り、真剣な表情でリートを見つめた。
「それはだれにもわからないことだ。いつか役に立つかもしれないし、立たないかもしれない。だが役に立たないからと言って、意味がないことにはならない」
「役に立つかどうかより、そこからあなたがなにを学ぶかのほうが大事よ、リート」
 ルイスとエミリアに畳み掛けるようにそう言われ、リートは目をぱちぱちさせた。
 なぜ二人はそんなふうに確信を持って言えるのだろう。
 役に立たないならやる意味がない。
 リートはどうしてもその考え方から抜け出せずにいた。
「ミリィ、それがわかっているならゾフィー殿の授業に」
「出ない。いくら聞いても役に立たないってことを学んだから」
 エミリアの切り返しに、リートは声を立てて笑った。
 そうだ。まだ自分は問いを立てただけで、答えを出していない。少なくとも、そのことには意味があるはずだとリートは思った。
 たとえ世界中の人間から役に立たないと言われたとしても、きっと自分は自分で納得できる答えを見つけ出さないかぎり、考えることをやめられない。

「それにしても、どうして台本なんて盗んだんでしょうね。盗んで売ったところでお金にならないのに」
 そう言って、エミリアが思案するように腕を組んだ。
 ハーナルの騎士が帰ったあと、リートたちは卓を囲んで坐っていた。
「クラウスの野郎の嫌がらせかもしれませんよ。あいつはセコいですから」
 エミリアの言葉に応じたのは、うわさを聞いて駆けつけてきたヴェルナーだった。
 ルイスはソリンの詰め所に戻れと言ったのだが、ヴェルナーは警護の増強が必要だと言い張ってそのまま居座っていた。
 エミリアが意味ありげな笑みを浮かべる。
「それはないわね」
「どうして?」
 リートは顔を上げずに訊いた。
 リートはルイスが書く自国の字を眺めていた。
 意味がわからなくても、書き順はちゃちゃでも、彼の模写はおそろしく正確だった。 しかも、自分の書く字より若干きれいだ。
「このあいだ偶然出会ったときに、ちょっとくぎを刺しておいたの。ルイスを誘い出したとき、リートもそこにいたんだって話をしたら、震え上がってたわ。さすがのクラウスもそこまで馬鹿じゃないでしょうから、リートにはちょっかいを出さないわよ」
「道理で最近大人しくしてると思いましたよ。ありがとうございます殿下、リート様」
「いや、僕はべつになにもしてないし……」
 リートが慌てて言うと、ヴェルナーは重々しく言った。
「そんなことはありません。リート様だからこそですよ。リート様になにかあれば、ハインリヒだって言い逃れできないんですからね」
 全員が部屋からいなくなったあと、リートはソファにうつ伏せに寝転んだ。
 なにもしていないのに、ひどく気疲れしていた。
 やはり自分は人の相手をしているより、本と格闘しているほうが性に合っているようだとリートは思った。
 台本がなくなったのは痛いが、ルイスのおかげで九十七回ぶんのメモの記録は復元できたので、リートはひとまず安心した。これなら、結末についての考察に支障は出ない。
 明日はメルヒオルに事情を説明しに、彼の部屋に行かなければならない。
 そのことを考えると、リートは気が重かった。
 わざわざ頼んで手に入れてもらったのに、こんなことになるなんて。
 リートはため息をついてから、寝返りを打った。