第32話 Fall in love

 めぐりは、ジーンと一緒に庁舎の渡り廊下を歩いていた。
 歩きながら、ジーンが硬い表情でめぐりを見やる。
「本当にこれでいいのか?」
 めぐりは小さく微笑んだ。
「いいのよ、ジーン。わたしは罰を受けなきゃいけないの。それだけのことをしたんだから。あなたを傷つけたし、疑ったし、嘘もついた。わたしはあなたに対していつも不誠実だった。ごめんね、ジーン」
 めぐりがそう言うと、ジーンが目を伏せた。
「謝罪は不要だ。君はそう思っているのかもしれないが、わたしはどれも気にしていない。ただ君とのあいだに子供を持てないことを残念に思っているだけだ」
「……それならいいんだけど」
 そうだ。こちらの人間はそういう考え方をする。ジーンが自分を婚約者に選んだのは恋愛感情が理由ではない。でも自分がジーンの立場なら、婚約しているのにほかの人間のことばかり考えていたら絶対に腹を立てただろう。だから謝罪した。
 瞬と出会ってから、自分は変わってしまった。
 もう、こちらの世界の人間とは考え方が違う。
「力はまだ戻らないのか?」
 ジーンの問いかけに、めぐりは無言で頷いた。
 こちらに戻っても、こちらのものを食べても、相変わらず力は使えないままだった。
 だが、めぐりは力が戻らなくてもかまわなかった。いつも持て余してばかりだったし、人に迷惑をかけてばかりだったから。
 ひょっとして、アイオーンは自分の影響を最小限にとどめるために、恋をさせて力を失わせたのだろうか。
 めぐりはそう考えてから、苦笑した。
 だとしたら、アイオーンはとても策士だ。
 自分の恋がうまくいってもいかなくても、アイオーンは目的を達する。
 自分はずっと、アイオーンの手のひらの上で踊っていただけだったのだ。
 でも、たとえなにもできなくなっても、この記憶さえあればそれでよかった。
 瞬を想うことができれば、それだけで。
 たとえこれから先、死ぬまでずっと独りだとしても。
 そのことに気づくまでに、ずいぶん時間を費やしてしまった。
 めぐりはそっと瞼を閉じた。瞬は今頃どうしているのだろう。自分が妨害しなくても、食事はきちんと摂っているのだろうか。仕事ばかりしていないといいのだけれど。
 それとも自分がいなくなってせいせいしている?
 自分を帰らせるために、瞬がわざとああ言ったことはわかっていたが、半分は本心だとめぐりは思っていた。
 確かにそうだ。自分はいつも瞬の優しさにつけ込んでいた。
 好きならなんでも許されると、心のどこかではそう思っていた――。
(ごめんね、瞬。でも、わたしはあなたを――)
 それが起こったのは、二人が廊下の真ん中辺りまで来たときだった。
「……ぐり……!」
 めぐりは立ち止まった。
 前を歩いていたジーンが怪訝な表情で振り返る。
「メグ?」
「待って」
 めぐりは手のひらをジーンのほうに向け、じっと耳を澄ませた。
「……聞こえる」
 ジーンが周囲に視線をやり、眉を上げる。
「わたしにはなにも聞こえないが……?」
「いいえ、聞こえたわ」
 だれかが自分を呼んでいる。
 それとも、これはただの自分の願望にすぎないのだろうか。こちらでは、親しい間柄でなければ声は直接届かない。前に瞬に呼びかけたときは届かなかった。
 しかしいくら待っても、もう声は聞こえてこなかった。
 やはり幻聴だったのだろうか。
「瞬……」
 めぐりはなにもない空間に右手を伸ばした。
 その時、がくんと身体が後ろに引かれ、メグは驚いて後ろを振り返った。
 だれかが自分の左手を掴んでいる。
 姿は見えない。だがこの手の感触を自分は知っている。
「瞬……?」
 まさか。ここはこちらの世界でも有数の強力な結界が張ってある場所なのに。そこになんの道具も使わず、生身で割り込んでくるなんて。
 しかし、メグは反射的にその手を引っ張っていた。すると、なにもない空間に波紋が広がり、続いてシュンの身体が徐々に現れた。
「メグ……!」
「瞬……!」
 別れてからまだ一か月も経っていないのに、めぐりはもう何万年も会っていないような気がした。
 そして、ああやっぱり自分は瞬が好きなのだとめぐりは思った。

 メグに手を引っ張られ、結界から身体が完全に出きると、シュンはその反動で勢いよく床を転がった。
「いった……」
 うめくシュンに、メグとジーンが走り寄る。
 シュンは頭をさすりながら、バツが悪そうな顔で二人に笑ってみせた。
「ごめん、ちょっと話したいことがあって……来ちゃった」
 シュンがそう言い終えたのとほぼ同時に、廊下に警報が鳴り響いた。
 警備の人間たちが、渡り廊下の入り口に瞬時に現れる。
「侵入者だ!」
「向こうの人間だぞ!」
 床に坐り込んだまま、シュンは額に手をやって天を仰いだ。
「ああ、来てからのことまで考えてなかった……」
 最初に動いたのはジーンだった。
 ジーンがガラをじっと見る。
 すると、シュンとメグは硝子の中に移動していた。そして、さっきまで硝子に写っていた自分たちが実体化する。
 彼はこうやって分身を作っていたのだと、シュンは納得した。
「行け、メグ。そこから向こうに行ける」
「腕をあげたのね、ジーン」
 メグが微笑みながら言うと、硝子越しにジーンが口元を上げた。
「また貸しだぞ」
 シュンはむっとした表情で言い返した。
「自由・平等・博愛の精神はどこに行ったんだよ」
「……冗談だ」
 笑みを浮かべるジーンは、やはり映画俳優のように決まっていて、シュンは複雑な気持ちになった。彼にはこれからも一生頭が上がらない気がする。
 そうしているあいだにも、警備員たちがじりじりと距離を詰めてくる。ジーンは彼らにちらりと視線を走らせてから言った。
「仕方がない。、メグ」
「わかった」
「えっ」
 頷くメグの横で、シュンは二人のやりとりから置いてけぼりにされて焦った。
 なにを落とすというのだ。まさか。
「わたしに掴まってて、瞬」
 メグがそう言ってシュンの身体を引き寄せた瞬間、ジーンが指をパチンと鳴らした。
 すると渡り廊下の両端に見えない刃が走り、まるでナイフでケーキを切るようにあっさりと切断された。支えを失った廊下が音もなく落下する。
(嘘だろ……)
 確かにこれなら追って来られないが。
「豪快すぎるだろ……!」
 ジーンが口元を上げたまま姿を消すのを視界の端に捉えながら、シュンは叫んでいた。
 そして二人は、真っ逆さまに宙に落ちた。

 このまま地面に墜落したらどうなる?
 ガラの中にいる自分たちの身体は、粉々に砕け散ってしまう。
「瞬」
 暗闇でメグの声が響く。
 その声を聞いただけで、シュンは不安が和らぐのを感じた。
 もっと彼女の声を聞いていたい。そう思った。
「瞬。目を開けて」
 シュンが固く閉じていた瞼を恐る恐る持ち上げると、目の前にメグがいた。
 二人はすべてが逆さまの状態で向かい合っていた。
「落ちてない……?」
 身体に加速度をまるで感じず、シュンがそう言うと、メグはなんでもないことのように答えた。
「落ちてるわよ。落ちる速度をゆっくりにしただけ」
「空気抵抗か……」
 メグが微笑む。
 それだけのことが、今のシュンには奇跡に思えた。
「大事なのは原理より想像よ、瞬」
 その言葉に、シュンは自然と口元を上げていた。
「……そうだな」
 それさえあれば、きっとすべてを越えられる。
 微笑む彼女を美しいと思えるのは、顔立ちが整っているからというわけじゃない。それを感じる心があるからだ。
「力、元に戻ったんだな。よかった」
 シュンがそう言うと、メグが泣きそうな顔で首を振った。
「……違うわ」
 ぎゅっと抱きしめられ、耳元で囁かれる。
「あなたが来てくれたから戻ったの」
 シュンも同じようにメグの背中に手を回し、そっと抱きしめた。
 地面に身体が墜落したら、人は死ぬ。
 それは自分の世界の話だ。彼女といれば話は違う。
 想像のセカイに、重力はない。

 シュンが再び瞼を開けると、そこは見慣れた自分の部屋のリビングだった。
 戻ってきたのだ。それもメグと一緒に。
 抱きしめていた彼女の身体の感触を認識した瞬間、メグがシュンの身体から手を放して距離を取ったので、シュンも同じようにした。
 彼女から身体を放すのは名残惜しかったが、仕方なかった。
 メグがソファに腰掛ける。
「それで、話したいことってなに?」
 平静を装ってはいたが、メグが見るからに緊張して堅くなっていたので、シュンは少し申し訳なくなった。しかも、これからもっと緊張させることになる。
 だが話さなければならない。前に進むためには。
「それはなにか飲んでからにしないか?」
 シュンは言いながら、キッチンの戸棚を開けてかんを取りだした。
「って言っても、紅茶しかないんだけど」
 いくら独立しても、稼ぎに余裕ができても、相変わらずコーヒーは飲めないままだった。たぶん、この先もこの体質が変わることはないのだろう。
 メグがかすかに微笑む。
「あなたの淹れる紅茶、好きよ。初めて会ったときから」
 シュンは、シンクの蛇口から薬缶に水を入れ、ガスコンロの火にかけながら慎重に言った。
「……、俺は今みたいにお湯を沸かしてた?」
 メグが凍りついたように動きを止める。
 シュンは苦笑した。
 そんな顔をしてほしくなかったのに。
 それを咎めるために会おうと思ったわけじゃない。
(俺は、君がなにをしようともう、)
「……もうひとつあったよ、メグ」
「なにが?」
「ループから抜け出す方法」
「……それはなに?」

 シュンはそう言ってメグを見つめた。
「信じるんだ。すべては繰り返しにすぎないかもしれないけど、自分にとってはすべてがかけがえのない一瞬だって。そうすれば、いつか自然と抜け出せている」
 シュンは自然と笑っていた。
 なぜだろう。笑うことにはあんなに抵抗があったのに。
「いったい今まで何回繰り返したんだ、メグ」
 メグはしばらく黙っていたが、やがて静かに息を吐いてから言った。
「……どうしてわかったの?」
「想像しただけだよ。あとはなんだろ、今まで見てきたゲームとかアニメとか……それ以外にも君はいろいろ俺にヒントをくれた」
 あれだけヒントが転がっていながら、自分は今までずっと気づかなかった。
「あなたがなにも知らないのは、平等じゃないと思ったの」
 そうぽつりと言ってから、メグは首を振り、泣きそうに顔を歪めた。
「でも、気づいてほしくなかった。だって嫌われたくなかったから。でもわからない。たぶん両方よ。気づかれたくなかったし、気づかれたかったの。あなたは何度繰り返しても、わたしとは一緒にいることを選ばないってわかってたのに……」
 メグの目から涙がはらはらと零れ落ちた。
「ごめんなさい、瞬」
 シュンは泣きじゃくるメグの隣に腰掛けた。
「――間違っていたのは俺も同じだ。君のことが好きなのに、君とずっと一緒にいる覚悟ができなかったから」
 シュンはじっとメグを見つめた。彼女は泣いて顔がぐしゃぐしゃになっていたってきれいだ。心からそう思う。
「……教えてほしい。俺にすべてを」
 メグの目に不安の色が浮かぶ。
「でも……」
「約束する。すべてを知っても君と離れないって。君を嫌いにならないって」
 シュンはメグの濡れた頬に手を当て、指で涙を拭ってからそっと言った。
「……だって、俺は君を愛しているから」
 その刹那、見開かれたメグの瞳からまた涙が一筋零れ落ちた。
「……わたしもよ」
 メグが囁くように言う。
「わたしもあなたを愛しているわ、瞬」
 シュンはメグの両頬に手を当て、顔を近づけると、メグがそっと瞼を閉じた。
 温かな唇の温度を感じながら、シュンはメグと何度も口づけを繰り返した。
 もう、迷わなかった。