「お待ちください、殿下!」
「待たない」
背後にかかるゾフィーの声に、エミリアは小声でそう返した。
どこまでも追いかけてくるゾフィーに苛立ちながら、エミリアは王宮の中を足早に歩いていた。元はと言えば、授業に身が入らず、ゾフィーの講義を途中退席したことが原因なのだが、追いかけられたのはエミリアにとって誤算だった。
今日という今日は、ゾフィーはエミリアの態度を許さないつもりらしい。
エミリアの機嫌はここのところ最悪だった。トリスタンと剣で打ち合っても一向に気分は晴れない。原因はわかっていたが、エミリアの心はそれを認めることを頑なに拒否していた。自分は確かにわがままだが、そこまで心は狭くないはずだ。むしろ、なんでも面白がってしまうほうだ。
そう思っていたのに。
……そう、思っていたはずだったのに。
逃げていても仕方ないと、エミリアは開き直った。
いつだって自分は、だれかと真っ向から渡り合ってきた。
たとえ苦手な相手だとしても、敵前逃亡など自分の自尊心が許さない。
中庭にある渡り廊下で、エミリアはゾフィーと向き合った。
「つまらないからサボっているだけよ。それのどこが悪いの?」
ゾフィーの講義は聴くに値しない。
その考えをエミリアは今更改めるつもりはなかった。
ゾフィーが眉をきっと吊り上げる。
「つまらないか面白いかという主観でわたくしの授業の価値を判断されても困ります。わたくしは今のやり方を変えるつもりはありません。わたくしは間違ったことを殿下にお教えしたつもりはありませんから」
(自分が間違っていないってどうしてわかるの?)
エミリアはそう言い返したかったが、ゾフィーの説教を黙って聞いていた。ここは大人しくしているのが得策だ。
厳しい口調で持論を延べ続けるゾフィーを見ながら、エミリアはふとあることに気づいた。
彼女の物言いはどこかルイスに似ている。もっとも、ルイスはここまでわからず屋ではないが。
ゾフィーの言葉はいつも自分の心を屈折させる。だが、ルイスの言葉はいつもまっすぐに自分の心に届く。
初めて出会ったときからそうだ。そのたび心が軽くなることに気づいたのはいつの頃だっただろう。彼といるとき、エミリアは王女だということも女だということも忘れて、ただの自分でいられた。
この気持ちはたぶん、ゾフィーにもほかの人間にも到底理解できないだろう。
「授業に出なくても、課題はちゃんとこなしているでしょう。わたしの成績には文句をつけられないはずよ」
「そういう問題ではありません。今の殿下の態度は、次期女王として相応しくありません。殿下の勉強に取り組む姿勢は、そのまま執務の執り行い方に現れるのです。気分の乗らない議題は会議を欠席するおつもりですか? 気に入らない臣下の話は無視なさるのですか?」
エミリアは決まり悪げに横を向いた。
「しないわよ、そんなこと」
「執政は、勝負事のようにすぐ決着がつくものではありませんし、単純なものでもありません。とても地味で地道な仕事の連続なのです。それなのに殿下は、ご自分の好きなことにばかり明け暮れていらっしゃる」
「……なりたい自分を目指してなにが悪いの」
エミリアが静かにそう言うと、ゾフィーがとんでもないことだと言わんばかりに目を剥いた。
「自分などどこにも存在しません。あなたは王女であり、女性です。それがすべてなのです。いいかげんに現実を直視なさってください。なりたい自分になるだなんて、そんなことは不可能ですし、許されないことです。殿下がなさらなければならないのは、王族としてあるべき自分の姿を模索し――」
その時、バサリと紙の束が落ちる音がして、二人は音のしたほうを振り返った。
そこにいたのは、ドレスに前掛け姿のルーツィアだった。どうやら仕事中に通りかかったらしい。ルーツィアがすぐに書類を拾って二人に頭を下げた。
「申し訳ありません、お話の途中にお邪魔を」
感情的になっているところを見られたのがいやだったのか、ゾフィーが気まずい表情でこほんと咳払いした。
「とにかく、殿下にはわたくしの授業に出ていただくようお願い申し上げます。次に出ていただけないようなら、陛下にも申し上げることに致しますので」
ゾフィーは早口でそう言うと、エミリアに挨拶してさっさと行ってしまった。
あとにはエミリアとルーツィアだけが残された。
「……ありがとう」
エミリアは硬い声でそう言った。彼女がわざと書類を落としたのは明らかだった。
「いえ、気になさらないでください」
そう言って控えめに微笑むルーツィアを見た瞬間、エミリアは胸の奥が軋むのを感じた。こうなるのは初めてのことではなかった。彼女が微笑むと、いつも自分の中にあるなにかが強張っていく。
そのことに気づかないふりをして、エミリアはバツの悪そうな顔を浮かべてみせた。
「格好悪いところを見せちゃったわね」
「申し訳ありません、立ち聞きするつもりはなかったのですが」
「いいのよ、わたしにとってはいつものことだから」
話しながら、エミリアは自分が別人になってしまったような気がした。
いや、自分は思っていることを話しているはずだ。なのに、なぜこんなにも言葉が上滑りしているのだろう。
ただ話しているだけなのに、なぜこんなにも息苦しく感じるのだろう。
エミリアは無理やり笑みを捻り出した。
「医局長から聞いたわ。あなたに医局を手伝ってもらえて助かってるって」
「いえ、そんな。学ばせていただいているのはわたくしのほうですから」
「あなたはいつも謙虚ね。わたしとは大違い。わたしはとってもわがままだから」
エミリアは自嘲ぎみにそう言ってから、ルーツィアの反応を伺った。
ルーツィアは否定も肯定もしなかったが、なにか言うのをためらっているようだった。
「なに?」
「いいえ、なんでもありません」
そう言ってルーツィアが顔をうつむけたとき、自分でも苛立ちの正体がわからないまま、エミリアは衝動的に口を開いていた。
「……ずっと言いたかったんだけど」
いけないとわかっていた。だが、止められない。抑えきれない。
「あなた、本当はわたしのことを馬鹿にしてるんじゃないの。深靴を履いて剣を振り回してる王女なんて滑稽だって、笑ってるんじゃないの」
ルーツィアが驚いたようにわずかに目を瞠る。
エミリアは言ってしまってから、はっと我に帰った。
「……ごめんなさい。こんなことを言いたかったんじゃないのに、わたし」
エミリアは視線を逸らしたまま、しどろもどろにそう言った。
言ったところで、なかったことにはできない。それはわかっているのに。
「……エミリア様」
エミリアが視線を戻すと、ルーツィアは元の穏やかな表情を取り戻していた。
「あなたはとても優しい方です。わたくしなどよりずっと」
そう言うとルーツィアは、その場を辞する挨拶をすると、静かに一礼して去っていった。
取り残されたエミリアはうつむいたまま、両手をぎゅっと握りしめた。
「……そんなわけないじゃない」
馬鹿で滑稽だと思っているのは彼女じゃない。自分のほうだ。
エミリアはしばらくその場を動けなかった。
そんな自分を迎えに来たのはトリスタンだった。
エミリアはトリスタンを伴って、自室までの道を無言で歩き続けた。彼の前で泣き言は言いたくなかった。
トリスタンが声をかけたのは、部屋の前まで来たときだった。
「王女、少しお話があるのですが」
「どうしたの?」
エミリアは不機嫌さを隠さず言った。
これ以上小言はごめんだった。
しかしそうではなかった。トリスタンは制服のポケットから封筒を取り出し、エミリアに差し出した。
「頼まれていたものです」
エミリアは内心びくりとした。
頭が急速に冷えていく。彼に頼んでいたことを、今の今まですっかり忘れていた。
「ごめんなさい。あなたに諜報員みたいな真似をさせて」
エミリアはうつむいたまま、小さな声でそう言った。
トリスタンは表情を変えなかった。
「わたしは王族の命令に従うのが仕事ですから」
それはつまり、彼をどう使うかはエミリアしだいということだ。
トリスタンは昔からそうだ。エミリアのやることには強く反対しない。だからこそ、命じる覚悟と責任をその都度問われる。
だが、この頼みは適切だったのだろうか。
今のエミリアには考えてもわからなかった。
考えていても埒が明かない。意を決してエミリアは封筒に指をかけた。
しかし、トリスタンは封筒からすぐ手を離そうとしなかった。
「トリスタン?」
エミリアは訝しげに名を呼んだ。自分を諌めることはあっても、トリスタンがこんなふうに自分の意思を行動で表したことはかつてなかった。
「申し訳ありません。ただ、少々気になることが」
「なに?」
トリスタンはエミリアの問いに答えず、目を伏せた。
「王女がお読みになってからお話しします」
「そう。わかった」
部屋に戻ると、エミリアは机に封筒を乱暴に置いた。
ソファに腰を下ろし、顔を両手で覆う。
あんなふうにだれかに気持ちをぶつけたことは初めてだった。
いつだって、嫌味を言われても笑って受け流してきたし、我慢できないときはやり返してきた。悪意を向けられたわけでもないのに、どうして苛立ちを抑えきれなかったのだろう。
それは、彼女がどこまでも非の打ち所がない淑女だからだとエミリアは思った。
自分とはかけ離れた場所にいる女性。自分のように周りの人間と戦わなくてもやっていける女性。
(そんな女性をルイスは選んだ……)
エミリアはそこまで考えて頭を振った。
嫉妬じゃない。そうじゃない。それとは無関係だ。
まるで自分という存在を否定されているようでいやなのだ。
エミリアが必死に守ってきたものを、ルーツィアはいとも簡単に打ち砕く。自分が手に入れられなかったものを、彼女はやすやすと手に入れていく――。
彼女が苦労してきたことを知っているのに、そんなことを考えてしまう自分が嫌で仕方なかった。ルーツィアは善い人だ。貶すところなんてひとつもない。
(だからこそ、こんなにも苦しい)
仕方ないとわかっている。わかっているが、この気持ちを諦めきれない。
エミリアは顔を上げ、机に置いた封筒を見つめた。
これを読めば少しは冷静になれるかもしれない。向こう見ずな気持ちでエミリアは封筒を開け、紙を取り出した。
しかし、読みはじめてすぐに、エミリアの期待は見事に裏切られた。
エミリアは立ち上がると、机に置いてある呼び鈴を鳴らした。
トリスタンがすぐに現れる。
「お呼びですか」
エミリアはトリスタンをじっと見た。これを知ることで、さらに苦しみを抱えることになるとしてもかまわなかった。
もう、なかったことにはできない。
「……気になることってなに?」
