書いても書いても終わらない。
リートはため息をついた。
手書きで台本を復元するのは骨が折れた。リートはこんなに長時間、自分の手で文字を書くのは久しぶりだった。
自分の世界では、電子演算装置に鍵盤型入力装置で文字を出力するのが当たり前だった。だが、印刷技術が発達するまではみんなこうして一から写本をしていたのだ。
「そういえば、今日は来ないね、ミリィ様」
「そういえばそうだな。来ないなら来ないでなんだか嫌な予感がするが」
そう言って渋い表情になるルイスを見て、リートはくすりと笑った。
「ルイスはミリィ様には結構手厳しいよね。ほかの人にもはっきり言うけど、そういうのとはちょっと違う気がする」
「つき合いが長いからな」
その答えを聞いたとき、リートはルイスにエミリアのことをどう思っているか訊いてみたい衝動に駆られたが、なんとか言葉を呑み込んだ。
「……そうだよね」
訊いてどうするんだとリートは思った。ルイスにはルーツィアがいるのだ。波風を立てるようなことを言っても仕方がない。
「今日はこれで終わりだ」
「えーっ、あと少しなのに」
「残念だがもう時間だ」
不満げな顔でリートはルイスを見たが、ルイスは取り合わなかった。
時には規則も平気で曲げるくせに、彼は時間や毎日の習慣をきっちり守りたがる。
仕方ないとリートは思い直した。自分だけがやるならともかく、彼に残業させるわけにはいかない。
喜ぶのは明日にとっておこうとリートは決めた。
その時、ノックの音に続いて扉が開いた。
現れたのはエミリアだった。いつもと同じミモレ丈のドレスに深靴姿だったが、なぜか今日は彼女らしい覇気が感じられなかった。
「……どうしたの?」
リートが声をかけると、エミリアが微笑んだ。しかしそれもどこか無理しているような笑い方だった。
「なんでもないわ、リート」
「そう?」
とても気のせいだとはリートには思えなかった。体調でも悪いのだろうか。
「それより、明日は母の誕生日の夜会があるってこと、覚えてる?」
「……忘れてた」
リートは正直に答えた。研究に夢中で、夜会のことなどすっかり忘れていた。
エミリアが小さく微笑む。
「やっぱりね。退屈だと思うけど、我慢してつき合ってね。それだけ言いにきたの」
確かに夜会はリートにとって退屈だった。不特定多数の人間と会って話をすることは、リートには苦痛でしかなかった。なによりあそこには自分の居場所がない。それよりも研究に打ち込んだほうがよほど有益だとリートが考えていると、エミリアがルイスに歩み寄った。
「ルイス。退出する前に話があるの。わたしの部屋に来て」
ルイスは当惑した表情を浮かべたが、すぐにうなずいた。
「わかった」
エミリアがリートのほうを見て微笑む。
「じゃあまた明日ね、リート」
「うん、また明日」
リートはそう言って手を振ったが、扉が閉まるとすぐに手を下ろした。
研究に打ち込んでいるあいだに、周りの変化に疎くなっていく自分がいることをリートは感じていた。
好きなことに没頭する代わりに、周りのことを置き去りにしてしまったら。なにか重要なことを見落としたら。
リートは一瞬そんな不安に駆られたが、心配しすぎだと自分に言い聞かせた。
ルイスはエミリアの部屋に入るなり、口を開いた。
「なんだ? わざわざ部屋まで呼び出すなんて。わたしはこのあと約束が」
最後まで話を聞かず、エミリアは封筒から紙を取り出すと、硬い表情のままルイスに差し出した。
「これを読んで」
「ミリィ?」
「いいから読んで」
差し出された紙をルイスは怪訝な表情で見つめた。
「これは?」
「ミヒャエルに関する資料よ。あなた、まだ彼を警戒しているでしょう? 読んでおいたほうがいいと思って」
「君は読んだのか?」
エミリアが硬い表情のままうなずくと、ルイスが険しい視線を向けた。
「なぜそんなことをするんだ。君は婚約者なんだから、隠し事があったとしても彼が話してくれるのを待つべきだろう」
「わかってるわ。でもあなたにも関係することなの」
エミリアの切羽詰まったような態度にルイスは一瞬戸惑ったような顔になったが、またすぐに厳しい顔つきに戻った。凛とした眉をひそめ、エミリアをまっすぐに見据える。
「だとしてもわたしは読まない。なぜ隠れてこそこそする必要がある」
エミリアがため息をついた。ルイスがなにを言うか半ば予想していたような反応だった。
「……そうね。わたしが悪かったわ。これは燃やしておく。それでいいでしょう」
エミリアはそう言ってルイスに背を向けようとしたが、ルイスはそれを許さなかった。すばやく回り込み、エミリアの前に立ちはだかる。
「待て。そういうことを言ってるんじゃない。なぜ君がそうしたのか聞いてるんだ」
ルイスは、視線を合わせようとしないエミリアをじっと見つめた。
「最近の君は変だ。君は気に入らないとすぐに相手をやり込めるくせに、ときどきそうやってなにも反論せず自分が悪いと言う。 特にわたしが注意したときに、君はいつもなぜそういうことをしたのか言おうとしない」
ルイスの放つ言葉のすべてが、エミリアの身体の周りに突き刺さった。まるで手足の自由を奪われ、壁に縫いつけられているように、エミリアは身動きが取れなくなった。
「理由があるなら、はっきり言ったらどうだ」
エミリアが小さく息を吐いた。
「そこまでわかっているのに、言わなきゃいけないの?」
その声はどこか泣きそうにも聞こえた。
「それはどういう意味だ」
「好きなの」
顔を伏せたままエミリアは告げた。
「あなたが好きなの」
うつむいたエミリアの表情はルイスには見えなかった。
今なぜ彼女がそんなことを言うのか、ルイスはわからなかった。わからないまま、思ったことが口を突いて出ていた。
「それは、この件とどういう関係があるんだ」
エミリアが泣きそうな顔で笑う。
「ないわね、なにも」
エミリアが身を翻し、ルイスに背を向けた。ミモレ丈のドレスから覗く、深靴を履いた足が床を蹴る。
「……帰って」
「ミリィ!」
寝室の扉が閉まる。エミリアが行ってしまっても、ルイスはその場に立ち尽くしていた。
エミリアは寝室のベッドにうつ伏せに倒れ込んだ。
靴を履いたままだということに気づいて、エミリアは履いていた深靴を乱暴に脱ぎ捨てると、二つとも壁に投げつけた。深靴は壁にまともに当たり、くたりと床に落ちて重なった。最後に持っていた書類を丸めて部屋の隅に放り投げる。
(……当然の結果よね)
そう独りごちて、エミリアは寝台の上に仰向けになった。腕で顔を覆う。
なにもかも自分が悪いのだ。
こうなるとわかっていて黙っていた自分が。
こうなるとわかっていたのに、好きになった自分が。諦められなかった自分が。
だとしても、自分の心に嘘はつけない。
そう思いながら、エミリアは固く瞼を閉じた。
「ルイス様?」
ルイスはその声で我に返った。
目の前には、心配そうな表情で自分の様子を窺っているルーツィアがいた。
今日は宿舎ではなく、ルーツィアの部屋で一緒に食事をしようと約束していたのだ。そんなことをルイスは今になってぼんやり思い出した。
だが、自分があれからどうやってここまで来たのか、ルーツィアとなにを話しながら食事をしていたのか、ルイスはまったく覚えていなかった。
そんなことは、これまで生きてきたなかで一度もない出来事だった。
少なくとも、自分の記憶にあるかぎりは。
「どうなさったんですか?」
「……なんでもない」
「なんでもないというふうには見えませんが。リート様となにかあったのですか?」
ルーツィアにそう問われて、ルイスはふとリートのことを考えた。
彼はいつも大人しいが、ときどきこちらが予想もつかない行動力を発揮する。そして時折深遠な問いを投げかける。
ルイスはリートのような人間に会ったことはなかった。向こうの世界に馴染めないといつもこぼしていたから、おそらく向こうの世界でもリートのような人間は珍しいのだろう。
彼と関わるようになってから、ルイスは経験したことのない不思議な気持ちに襲われるようになっていた。だが、それがなにか未だにわからずにいる。
「いや、そうではないんだ。ただ……」
「ただ?」
ルイスは開きかけた口を閉じた。なぜこんなにためらっているのか、自分でもよくわからなかった。
「いや、よそう。個人的なことだ。君に心配をかけるわけには……」
「そこまで言われては、言っていただかないと困るのですが」
ルーツィアが苦笑しながらルイスを見つめる。
「ルイス様は隠し事が下手すぎます」
ルーツィアにずばりと指摘され、ルイスは言葉に詰まった。意味もなく、食事の終わったあとの空っぽの皿に目を落とす。
「思いがけないことを言われたから、どうしていいかわからなくて」
「思いがけないこと、ですか?」
「好きだと言われたんだ」
その言葉を口に出した瞬間、なぜかルイスは、部屋の中で突然時間が止まったような錯覚に陥った。
なぜそんなことになるのかまるでわからない。
ルイスがそう思っていると、沈黙していたルーツィアが口を開いた。
「そうでしたか」
ぽつりと漏らしたその言葉から、ルイスはルーツィアの心情を窺い知ることができなかった。
「それでどう思われたのですか?」
「それを訊くのか」
ルーツィアが微笑む。そのまなざしは月の光のように優しかった。
「興味がありますから」
「なんというか、試験の答案にすべて間違った答えを書いていたような気分になった」
ルイスがそう答えると、ルーツィアは目を丸くしたあと、口元を隠してくすくすと笑いはじめた。
「……笑わないでくれ」
「申し訳ありません。そんな喩え方をなさるとは思わなくて」
居たたまれない気持ちになっているルイスを残してひとしきり笑ったあと、ルーツィアはまたルイスのほうを見た。
「……間違ったままにしておくんですか?」
「間違ってしまったものはもう訂正できない。これから考えを改めていくしかないだろう」
ルイスが考えながらそう言うと、ルーツィアがそっと目を伏せた。
「でも、なにが正しくてなにが間違っているかなんて、いったいだれにわかると言うのでしょうね」
「だが考えなくては。正しい行いこそが、わたしたちを正しい方向に――」
しかし、そこでルイスは言葉を切った。
(正しければ、人を傷つけてもいいの?)
そう言ったのはリートだった。そしてなぜか、うつむいて自分に背を向けたエミリアの姿が頭をよぎった。
「どうなさいました?」
「いや……」
ルイスは口元に手をやり、ざわめく心を落ち着かせようとした。
なにが正しいかなど、考えるまでもない。
今までもずっとそうだった。
だが自分はなにかとても重要なことを見落としている。
それがなんなのかわからない。掴めそうで掴めない。
知ってはいけない。なぜか自分の裡でそんな声がする。
「……申し訳ありません」
ルーツィアの突然の謝罪に、ルイスは顔を上げた。
「なぜ謝る?」
「リート様からお聞きしたんです。最近わたくしの元気がないことを、あなたが心配していると」
ルイスは目を見開いた。
「リートがそんなことを?」
「それだけではありません。わたくしに元気がないのは、ルイス様が自分の騎士になったせいではないかと、気にしていらっしゃいました」
ルイスはまた驚いた。リートはなにかに没頭しているときは、他人のことなどどうでもいいのだと言っていた。だが一方で彼は、自分が他人にどういう影響を与えているかについてはいつも気にしている。ルーツィアが自嘲するように微笑んだ。
「わたくしは馬鹿ですね。ルイス様にもリート様にも気を使わせてばかりで。ただ、少し不安だっただけなのに」
「不安だったのか?」
ルイスがそっと訊ねると、ルーツィアがゆっくりと瞑目した。
「……ええ。幸せになることが」
「なぜ不安なんだ?」
「ルイス様。わたくしは、ルイス様が思うほど善い人間ではありません」
不意にルーツィアから放たれた言葉に、ルイスは目をまたたかせた。
「それはどういう意味だ、ルーツィア」
ルーツィアが困ったような表情を浮かべる。
「わたくしだって、あなたが別の女性に言い寄られていると、複雑な気持ちになるという意味です」
「そ、それはすまない……」
しかし、言葉とは裏腹にルーツィアの表情がどこまでも優しかったので、ルイスはいつもの落ち着きを取り戻すことができた。
今日の彼女にはまるで優位に立てる気がせず、ルイスは苦笑を浮かべるしかなかった。
「今日の君は、なんだかはっきり言うんだな」
「気に障りましたか?」
「いや、そんなことはない。どんな君でも君は君だろう?」
そう言いながら、ルイスはルーツィアを見つめた。
「わたしはまだまだ君のことを知らないな」
「これから知っていけばいいのではありませんか。時間はたくさんあるのですから」
そうだな、と相槌を打ちながら、ルイスは揺れる心を隠すようにそっと目を伏せた。
あの時ルイスが感じたなにか。一瞬手の届く距離にあったそれがまた遠ざかっていく。その正体がわからないまま、それはどこかに消えてしまった。
