いつのまにか薬缶の湯が沸いて、蓋がカラカラと音を立てていた。
あふれる涙を乱暴に拭ってからシュンは言った。
「……俺はどれだけ頑固なんだよ。何回リプレイしても落ちないって……乙女ゲームならみんな怒ってすぐに配信停止だろ」
そうだ。自分はずっとプレイヤーのつもりだったが、本当は自分のほうが彼女に何度もプレイされ続けていたのだ。
「……一回くらい流されてもいいのに」
「だからよかったのよ」
メグが泣きそうな顔で笑う。
「だからわたしはあなたが好きなのよ、瞬。わたしの力がどれだけ強くても、あなたはわたしの影響を受けない。自分で出した答えを選べる。いつも自分を信じてる」
「信じてる? 俺が?」
「ええ。あなたは他人に影響されない。いつも自分の意志で物事を決めてる。あなたはゲームのキャラクターじゃなくて、生きている人間だもの」
「それは君も同じだろ」
シュンはソファから立ちあがり、メグのほうを振り返った。
「行こう。君の世界に」
「いいの? 本当に?」
「うん」
シュンは頷いた。なぜあんなになにかを失うことに怯えていたのか、今となっては全然わからなかった。本当に失いたくないのは、記憶ではなく、メグだったのに。
失うものなんて、最初からなにひとつなかったのに。
「メグ」
「なに?」
「いつか、君が俺の夢がなにか訊いたとき――あれは全部本心だったけど、本当の夢は言ってなかった」
「それはなに?」
シュンはそこで口を閉じた。
やっぱり、自分のことを話すのは、今も得意じゃない。それにはとても勇気がいる。
でも、伝えたいと思う。
もう、言葉を惜しむようなことはしたくない。
シュンは声が上擦りそうになるのを必死にこらえながら言った。
「母さんに親孝行すること。両親とは違う、暖かい家庭を築くこと。……そして、だれかを愛すること。それが、本当の俺の夢」
「その相手がわたしでいいの? あなたが好きになってくれるまで何度も繰り返しちゃうような女なのに?」
「それは違うよ、メグ。俺が馬鹿だから、君に何回も繰り返させたんだ。それでこんなに遠回りするはめになった。君は何度も機会をくれたのに。俺は不運なんじゃなくて、ものすごく幸運だったのに。……そう考えることにしたんだ」
シュンはまっすぐにメグを見つめた。
「必ず君を幸せにする。ほかのだれでもなく、この俺が」
「でもわたし、あなたが隣にいてくれればそれで幸せよ」
「……俺もだよ。だからそれを実現させようと思う。ただし、すべては捨てない」
「記憶は消さないってこと? でも……」
「思いついたことがあるんだ。うまくいくかどうかはわからないけど」
シュンはメグに手を差しだした。
「行こう、メグ。これ以上騒ぎになる前に話をつけにいこう」
つまらない遊びは終わりだ。
今度は真剣に遊ぶ。ゲームではなく、この現実で。
「それはいいけど……向こうに行くのはあなたのお茶を飲んでからがいいわ。せっかくお湯も沸いたし」
シュンは苦笑した。こんな時でもメグは自分のペースを崩さない。
でもたぶん自分は、彼女のそんなところが好きなのだ。
自分の淹れたお茶を飲みたいと、そう言ってくれる彼女のことが。
「用意するよ」
ああ、こんなに事態が切迫していなければ、彼女にもっとキスして、それからあの時の続きをするのに。そう思いながらシュンは、しばらく使っていなかったティーセットを食器棚の扉を開けて取りだした。
「どういうつもりだ、ジーン」
自分よりひと回り以上は歳が離れていそうな管理者たちに囲まれても、ジーンは落ち着き払った態度で出された紅茶を飲んでいた。
「この世界に裁判はないはずだが、わたしは尋問されているのか?」
「尋問ではない。質問だ」
「それにしては和やかな雰囲気ではないが。人を裁かず、何事も話し合いで決定を下すのが我々の流儀のはずだろう」
女性の管理者が頷く。
「もちろんそうよ。でも、庁舎を破壊したことに正当な理由があるとは思えない」
「わたしはメグを助けようとして渡り廊下を落としただけだ。それが一番手っ取り早いと思ったからな」
「そのとおりよ」
その声とともに現れたのは、メグとシュンだった。
突然現れた二人に管理者たちが息を呑む。
「メグ……!」
「なぜ戻ったんだ。この世界に法律はないが、君は三原則を破っているんだぞ」
メグが困ったように笑う。
「……もともとわたしの存在自体が三原則に違反していることは、あなたたちもわかっていると思うけど。わたしが自由にやると、普通の人よりもこの世界に影響を与えてしまう。あなたたちと同じにはなれないのよ」
「個人差があるのは当然のことよ。だからあなたの権利が損なわれないように、わたしたちは配慮してきた」
メグが静かに頷く。
「それはわかっているわ。感謝してる。でも、嬉しくはなかった。与えられて、守られてばかりで、対等だとは思えなかった。自由だとも思えなかった」
そう言ってから、メグはシュンを見つめて微笑んだ。
「でも、彼を好きになってから初めてそう思えたの」
管理者のひとりが衝撃を受けた顔になる。
「特定のだれかを愛することが、自由で、平等だと?」
「そうよ」
ざわざわしはじめた管理者たちに流されまいというように、ジーンを問い詰めていた年配の管理者が厳しい視線を向ける。
「だが君は彼をここに連れて来た。向こうにいたときのことを忘れることに同意したと解釈していいんだな?」
「いいえ。記憶は消しません」
シュンは急いでそう言ってから、頭を下げた。
「さっきは勝手に侵入してすみませんでした」
シュンが謝るとは思っていなかったのか、管理者たちは戸惑ったように顔を見合わせた。
シュンは緊張しながら口を開いた。
いつものように、ただ言いたいことを言うだけではだめだ。冷静に、慎重に。感情的にならないように。それでいて、毅然とした態度でいなければ。
「俺に永住権がないならそれでかまいません。でも、俺は彼女と別れるつもりはありません。俺がこっちの世界に来られなかったのは、あなたたちが意図的に招待しなかったからだとメグから聞きました。過失じゃなくて故意にやったなら、問題があるのは俺じゃなくて、あなたたちのほうだ。俺の父親は追放しておいて、自分たちのやったことには目をつむるんですか?」
シュンはじっと管理者たちを見まわした。
「あなたたちは、俺の世界にいる人たちとは違う。道理をねじ曲げたり、無視したり、自分たちに都合が悪いからといってごまかしたりしないはずだ。じゃなきゃ、こんなに美しい世界がずっと保てるとは思わない。彼女が優しいのだって、ここの人たちに大事にされてきたからだ。あなたたちのそういうところを俺は尊敬してる。俺はあなたたちと敵対したいわけじゃない。あなたたちのしたことを責めるつもりもない。過去を清算して前に進みたいだけだ」
「それで、どうしようというんだ?」
「それは」
「待ってください」
その声とともに現れたのは、白い装束を着た長い黒髪を持つ女性だった。
しかし、背丈や頭身のバランスはどう見ても少女のそれで、先程の落ち着き払った声音が本当にこの女性のものだったのか、シュンは疑った。
シュンとメグを取り囲んでいる管理者たちの前に女性が立つと、不思議なことに管理者たちはなにも言わず道を空けた。女性はシュンに歩み寄ると、静かに微笑んだ。その微笑み方は、確かに精神的に年齢を重ねた人間にしかできないものだった。
「時任瞬。やっとお会いできましたね。あなたが今も生きていてよかった」
「あなたは?」
「わたしには名前がありません。アイオーンの意思を伝えるために存在する、ただの巫女です」
彼女はいったい何歳なのだろうとシュンは思った。彼女が自分を発見したのは二十年くらい前のはずだが、背格好は十代前半の少女にしか見えない。
「あなたは、こうなることがわかっていたの?」
メグの問いに、巫女が首を振る。
「いいえ、なにも。あなたと彼が選んだからこうなったのです。世界はあなたの選択でできている。すべては決まっていると同時に、なにも決まっていないのです」
「よ、よくわからない……」
シュンが思わずそう言葉を漏らすと、巫女が微笑んだ。
「頭ではわからなくても、あなたはわかっている。知っている。あなたが決めた瞬間、物事はすでに半分以上は達成されているのです。だからあなたはここに来た。そして、アイオーンはそれを許した。でなければいくら強い力があっても、あなたはここに来ることはできなかったはず」
巫女は管理者たちのほうを見た。
「めぐりさんが許されないなら、わたしも許されないことになります。彼女が向こうに行くきっかけを作ったのはわたくしですから。あなた方にわたしを追放する覚悟があるのなら、そうしてください。そのときは潔くこの役目を退きましょう」
「それはわたしも同じだ」
そう言ったのはジーンだった。
「管理者で彼のことを一番よく知っているのはわたしだ。もしなにかあれば、責任はわたしが持つ」
「……わかった。これから協議で決めよう」
「待って。まだ瞬は要求を言ってないわ」
メグがそう言うと、ジーンがじっとシュンを見た。
「どうするつもりだ? ずっとここにいるなら記憶を消す必要がある。向こうにいても、めぐりは身分証明ができないんだぞ」
「どちらでもない」
シュンは首を振ってそう言った。
「一年のうちの半分は俺がこっちで暮らす。そしてもう半分は向こうで暮らす。俺がここの住人にならないなら、記憶は消さなくてもいいはずだ」
驚いている管理者たちを見まわしながら、シュンはかまわず続けた。
「いくら監視をつけられても、自由がなくてもいい。でも俺は記憶を消すつもりはない」
