第65話 迷宮の先に

「やめろ、ルーツィア!」
 短剣を避けながらルイスは叫んだが、ルーツィアはやめなかった。悲痛な表情を浮かべ必死に叫ぶ。
「お逃げください、ルイス様! 早く!」
 その言葉を聞いてルイスははっと周りを見渡した。幾つもの黒い影が音もなく自分たちにじりじりと近づいてくる。
 ルイスはやっとこれがわなだということに気づいた。これほど自分のかつさを呪ったことはなかった。
 ルイスはルーツィアの手から短剣をたたとし、手首を掴んだ。
「来るんだ、ルーツィア!」
 しかしルーツィアは激しくかぶりを振った。
「わたくしのことはかまわないで! 早く!」
 彼女がこんなにも強く自分の意思を表に出したのは初めてのことで、ルイスは一瞬されたが、強引にルーツィアの腕を取った。
「話はあとで聞く!」
 ルイスはルーツィアの腕を掴んだまま片手で剣を抜き放ち、構えた。
 その間にも敵は間合いを着実に詰めてくる。ルイスはじりじりと後退しながらどうすればいいか考えた。
 このままでは敵に包囲されてしまう。
 ルイスたちの背後には広大な迷路庭園が広がっていた。
 迷っている時間はなかった。ルイスはルーツィアを連れて迷路の中に足を踏み入れた。見取り図は頭の中に入っている。中で迷うことはない。
 幾つもの黒い影がまるで死に神のように自分たちを追いかけてくるのを感じながら、ルイスは迷路の中を走った。
 止まれば死ぬ。頭の中にあるのはそれだけだった。
 だが、わずかに残ったルイスの冷徹な思考は、この先に待っている結末をとっくに弾き出していた。この迷路に出口は一つしかない。そこをふさがれれば、逃れることは不可能だった。しかも中央にあるのは温室だ。自分たちがそこに誘導されようとしていることをルイスは自覚していた。
 完全な行き止まり。最初から、自分たちが助かる可能性はほとんど残されていなかった。温室のガーデンテーブルの下にルーツィアを先に潜り込ませ、自分もその後に続いた。息を整えながら、ルイスは瞼を閉じて息を詰めた。
 慌ててはいけない。ぎりぎりまで引きつけてから倒さなければ、二人とも助かる可能性はないに等しい。
 近づいてくる足音への焦燥感を必死に押さえつけながら、ルイスは剣の柄を握りしめた。本当なら自分が打って出て、そのあいだにルーツィアを逃したかったが、今の彼女を一人にしておくわけにはいかなかった。
 ルーツィアの手を握ったまま、ルイスは渦巻く疑惑を無理やり頭の片隅に押しやった。今考えなければならないのはここを切り抜けることだった。
「ごめんなさい、ルイス様」
 それまで一言も口を利かなかったルーツィアの静かな声に、ルイスの肩が跳ねた。
 今はなにも聞きたくないと思った。聞いてしまえば自分はもう元に戻れない。なぜだかそんな予感がした。
 しかし、そんなルイスの思いとは裏腹に、ルーツィアは淡々と言葉を紡いだ。
「ずっとあなたを裏切っていました。わたくしは、あなたを愛していない。わたくしが愛しているのは――」
 その名前を聞いた瞬間、いつの間にか自分が彼女の手を放していたことにルイスは気づかなかった。
 それが最後になった。
「ルーツィア」
 振り返ったルイスは魅入られたようにその場に立ち尽くした。
 彼が見たのは、ルーツィアの身体を敵の短剣が刺し貫いたところだった。剣を引き抜かれ、彼女の身体がゆっくりと傾いでいく。
 地面に倒れる寸前、ルイスは腕を伸ばしてルーツィアの身体を抱き止めた。
 見る間に血があふれ、ルイスの白い礼服をらしていく。ルイスはぼうぜんとしたまま彼女の名を呼んだ。
「ルーツィア……」

 リートはユーリエの手を引いて走っていた。
 辺りに響く騎士たちの怒号もまるで気にならない。
 早くしなければ間に合わない。
 複数の人影が視界に入り、リートはぎくりとして立ち止まった。黒い装束を着た人間たちが、迷路庭園から蜘蛛くもの子を散らすように逃げていくところだった。近衛騎士たちがその影を追って駆けていく。
 リートは二人の名を叫んだが、返事はなかった。
 その時、リートの足になにか硬い物が当たった。下を見ると、そこには抜き身の短剣が落ちていた。リートは短剣を拾い上げて観察した。とりあえず血は付いていなかったので、リートは少しだけ安心した。
 だが、二人はどこへ行ってしまったのだろう。
「ユーリエ、ルイスとルーツィアは」
 ユーリエが再び瞼を閉じたが、今度はすぐに瞼を開けた。
「……温室に」
 リートはユーリエと手をつないだまま、迷路の中に足を踏み入れた。ユーリエの千里眼に導かれるまま、リートは暗い迷路の中をなるべく急いで進んだ。
 やがて二人は、開けた場所にたどり着いた。目の前に円筒形の温室が立っている。
 リートはすぐにその中に駆け込もうとしたが、ユーリエがリートの服の裾を引っ張った。
「……ユーリエ?」
 ユーリエが泣きそうな顔で首を振る。それがなにを意味しているのか、リートは考えたくなかった。
 うそだ。ルイスがついているのに、そんなことがあるはずない。
 リートはふらつく足取りでユーリエをその場に残したまま温室に向かった。
 温室の中には、ルイスの後ろ姿が見えた。
「ルイス」
 ほっとしてリートはルイスに駆け寄ったが、ルイスが抱えているのがだれかに気づいてすくんだ。手から力が抜け、持っていた短剣を取り落としたことにもリートは気づかなかった。
「……ルーツィア」
 ぐったりと抱えられたルーツィアのドレスの腹部は血に染まっていた。
 いやだ。信じたくない。そんなことはあってはならない。リートは叫んでいた。
「ユーリエ! 早く来て! ルーツィアが――」
 今ならまだ助けられるはずだ。あの時ルイスは助かったのだ。彼女だって助かるはずだ。
「ルーツィア」
 リートは声のしたほうを振り向いた。
 そこに立っていたのはミヒャエルだった。
 ルーツィアがその声に反応し、閉じられていた瞳がわずかに開く。褐色の瞳がゆっくりとミヒャエルのほうを見た。
 ミヒャエルが傍らにひざまずく。
 グレーと褐色の瞳が交差した。
「ミヒェル様……」
 ルーツィアはミヒャエルの愛称をそっと口にした。
 ルーツィアの白く細い指が、ミヒャエルのほおに触れる。二人の姿はまるで一枚の絵画のようだった。
 微かな声がルーツィアの唇から漏れる。
「鍵を、開けて」
 触れた指が滑り落ち、力なく地面に落ちる。ルーツィアの手がそれきり動くことはなかった。
 もう二度と、永遠に。

「……ルイス」
 リートは声をかけた。
 ルーツィアを抱えたまま、うつむいているルイスの表情は、だれにもうかがることができなかった。
 ミヒャエルは騎士たちに担架を用意させてくると言って先に戻ってしまった。
 ルイスは祈りの言葉も口にせず、ルーツィアの遺骸を抱き抱えたまま立ち上がった。
 リートとユーリエはその後に無言で従った。
 迷路を出たところで、ハーナルの騎士たちが待っていた。
 担架に乗せられた遺体が白い布で覆われ、騎士たちが運ぶのを見送ってから、リートたちは無言のまま王宮に戻った。
 玄関の扉の前に、ミヒャエルはすわんでいた。
 三人の姿を見てミヒャエルは立ち上がった。ルイスは無視して通り過ぎようとしたが、ミヒャエルがルイスの腕を掴んだ。
「待て、ルイス。その格好ではおまえが殺人犯だ」
 その瞬間、ルイスがミヒャエルの胸倉を掴み、壁にたたきつけていた。血に染まっている白い手袋を嵌めた両手が激しく震えていた。
「……どういうことだ、ミヒャエル」
 ミヒャエルは答えなかった。
「どうしてなんだ」
 ルイスがうつむき、叫ぶ。
「どうして!」
 その声はあまりに悲痛さに満ちていて、そばで聞いていたリートのほうが胸が痛くなった。
「なにやってるの!」
 リートが声をしたほうを見ると、トリスタンを伴ったエミリアがこちらに駆け寄ってくるところだった。リートは申し訳なくなった。
 彼女にはなにも事情を話していない。それでも、彼女は今までリートたちを探してくれていたのだろう。
 二人の姿を見たエミリアは顔色を変え、すぐにミヒャエルからルイスをがそうとした。
「やめてよ、ルイス!」
「離せ、ミリィ!」
 ルイスがエミリアを振り払う。突き飛ばされたエミリアをトリスタンが抱き止めたが、今のルイスの目にはミヒャエルしか映っていなかった。
 ミヒャエルがうつむいたまま言う。
「殺したいなら殺せばいい。おまえに殺されても仕方ないと思っていた。すべてはわたしが招いたことだ。おまえは悪くない。悪いのは」
「やめろ!」
 それ以上聞きたくないと言うように、ルイスが短剣を抜いた。
 リートは思わず顔を背けたが、その時、ミヒャエルをかばうように小さな白い影が二人のあいだに割り込んだ。
 それがだれかわかった瞬間、リートは叫んでいた。
「ユーリエ!」
 ユーリエはすまなそうに瞳を一瞬伏せたあと、ルイスを見た。
「申し訳ありません、ルイス様」
 ユーリエがルイスの前ですっと手をかざすと、ルイスの目がふっと閉じた。短剣が手から離れ、音を立てて床に落ちる。
 ユーリエは意識を失ったルイスの身体を支え、壁にもたれかけさせた。
「ルイスになにをしたの?」
 リートが問いかけると、ユーリエが答えた。
「眠らせました。朝になれば目覚めると思います」
「場所を変えたほうがいいのではないかな」
 全員が声のしたほうを見た。
 そこに立っていたのはメルヒオルだった。
「……ここは目立つ。わたしの部屋に」