第69話 彼女のために

 王宮に戻ったリートは、ヴェルナーと手分けしてルイスを探した。
 ヴェルナーが宿舎を見てくると言ったので、その間にリートは自分の部屋を見てみたが、ルイスはいなかった。
 ヴェルナーがリートの部屋に入ってくる。
「宿舎にはいらっしゃいませんでした」
 だとしたらあそこしかない、とリートは思った。
 ルーツィアが使っていた部屋だ。
 ヴェルナーに外で待っているように促し、リートはどうかここでありますようにと祈るような気持ちで扉を開けた。
 リートの推測通り、ルイスはそこにいた。
 ルイスは腕に喪章をつけ、白の礼服姿で椅子に腰掛けていた。物思いに沈む彼の横顔はいつものように凛としていたが、表情は読み取れなかった。
 彼の手に握られていたのは、リートがこの部屋まで取りにきたあのハンカチーフだった。
「ルイス、行こう。みんな待ってるよ」
 ルイスは答えなかった。
「……わかった。僕とヴェルナーだけで行ってくる」
 それを拒否だと受け取ったリートは、部屋を出ようとした。
「……待ってくれ」
 背中にかけられた声に、リートは立ち止まった。
「行かなければならないところがあるんだ」
 そう言って、ルイスがまっすぐにリートを見つめた。
「ミヒャエルのところだ。葬儀に出てほしいと頼んだが断られた。もしいやでなければ、今度は君にも来てほしい」
 リートは目を見開いた。
 ルイスはメルヒオルから事の詳細を聞いているはずだ。それなのに、すべてを知ってなお、彼はルーツィアのために心を尽くそうとしている。
「わかった」
 リートはうなずいた。しかし、内心ではあまり乗り気ではなかった。自分が頼んだところで、ミヒャエルが聞いてくれるとは思えない。
 リートは部屋を出ようと扉に視線を向けたが、ふと戸棚の上にあったオルゴールのことを思い出した。
 それは、リートの記憶通りの場所にあった。ルーツィアの雰囲気によく合った、水色と白のせいで可憐な意匠のオルゴール。
 持ち主を失ってしまったそれを、リートは痛ましい気持ちでそっと手に取った。
 ルーツィアはある人からもらったと言っていた。それはだれだったのだろう。ルイスが贈ったなら、そんな言い方はしなかったはずだ。
 だが、これを贈ったのはルーツィアのことをよく知っている人間だとリートは思った。医術道具はすべて置いてきても、彼女はこれを王宮まで持ってきた。
 大切にしているからこそ、自分の手元に置いておきたかったに違いない。
「ルイス。このオルゴール、だれがルーツィアにあげたか知ってる?」
 リートが訊ねると、ルイスは当惑した顔で首を振った。
「いや、知らない。彼女がこんなものを持っていたことも知らなかった」
 リートはふたを開けようとしたが、鍵がないから開かないのだとルーツィアが言っていたことを思い出した。
(鍵を開けて)
 ルーツィアのいまの声がよみがえった瞬間、リートははっとした。
「鍵――そうだよ、鍵だ」
 リートは、まだ事態が飲み込めずにいるルイスをじっと見た。
「届けにいかなきゃ」

 リートとルイスはヴェルナーを馬車で待たせ、ハーナル騎士団の宿舎にあるミヒャエルの部屋を訪れていた。
 ルイスがドアを叩く。
「わたしだ。ここを開けろ、ミヒャエル」
「開けてよ、ミヒャエル」
 リートが扉に向かってそう言うと、すぐに扉が開いたので、リートは驚いた。
 ミヒャエルはシャツ姿ではあったが、いつも通り髪は整えられていた。しかし、いつもの優美で軽やかな雰囲気は跡形もなくせ、憔悴しきった表情だった。
 彼は昨日からろくに寝ていないに違いないとリートは思った。
「帰れ、ルイス。リートを連れてきても同じことだ。わたしは葬儀には出ない。それとも、出なければわたしを殺すとでも言うつもりか?」
 ミヒャエルが皮肉気な調子で言うと、ルイスがうつむいた。
「あの時はすまなかった。訴えるつもりなら好きにしてくれ」
 ルイスが静かに言うと、ミヒャエルは乾いた笑みを浮かべた。
「殺してくれてもよかったんだぞ」
「殺せるはずがないだろう。彼女が最期に言ったんだ。おまえを愛していると」
 ルイスがそう言った瞬間、ミヒャエルの笑みが自虐的なものに変わった。
「どうしておまえではなく、わたしなんだろうな。彼女はおまえといたほうが幸せになれたのに」
 それを聞いた途端、ルイスの顔が険しくなった。
「なぜいつもそうやって決めつける。勝手に決めるな」
「アルベリヒが言っていただろう。おまえは存在するだけで人を傷つけると。そうさ、わたしは大学生だったときからおまえが嫌いだった。おまえのまっすぐで、諦めることを知らない、どこまでも自分の意志を貫けると信じているところが!」
 話しているうちに感情的になってきたのか、ミヒャエルは声を荒らげ、ルイスを睨みつけた。
 しかし、リートには彼がルイスを憎んでいるようには見えなかった。
 彼は本当は、そうやって自分を傷つけているのだ。
 今のミヒャエルはライナスを失い、自分を責めることしかできなかったあの時のリートと同じだった。
「おまえはいつもわたしを惨めな気持ちにさせる」
 打ちひしがれるミヒャエルの姿は、ただ痛々しかった。
「どうしても考えてしまうんだ。もしおまえがわたしと同じ立場だったら、おまえは彼女を守れただろうと。世間の評価も、貴族としての地位も財産も父親の期待も、なにもかもすべてを捨てて、彼女を取っただろうと」
 ミヒャエルは激しい調子でそう言い募ったが、一転して声を震わせた。
「わたしはなにひとつ捨てられなかった。考えていたのはいつも自分のことだけ。わたしと出会わなければルーツィアは死ななかった。わたしが大人しく父の操り人形になっていれば。いっそのこと、わたしがいなければ」
「……ふざけるな」
 低い声がルイスから漏れる。
「いつまでそうやって自分をごまかしているつもりだ。おまえがわたしをどう思おうと、そんなことはどうでもいい。憎むのも嫌うのも好きにしろ。だが、彼女が愛しているのはおまえだ。彼女の気持ちを無下にすることは、わたしが絶対に許さない」
 ルイスがミヒャエルをまっすぐに睨みつける。青に金の虹彩が散った瞳が雷光を思わせるような激しさをたたえて明滅した。
「メルヒオルがよく言っていた。自分のことばかり考えている人間も、他人のことばかり考えている人間も本質は同じだと。本当はそういう人間ほど、自分のことも他人のことも大切にしていない。おまえは自分のことばかり考えているんじゃない。本当は、自分のことなんてどうでもいいと思ってるんだ」
 ミヒャエルが目を見開く。ルイスがミヒャエルから視線を外さず、とどめとばかりに言い放った。
「これはおまえのためじゃない。ルーツィアのためだ」
 ルイスのあとに続いて、リートは口を開いた。
「ミヒャエル。あなたに渡したいものがあるんだ」
 そう言って、リートは手に持っていた包みをほどいた。中からルーツィアのオルゴールが現れると、ミヒャエルが息を呑んだ。瞳が激しく揺れる。
「……どうしてこれを君が」
「やっぱり、あなたがルーツィアにあげたんだね。ルーツィアの最期の言葉、覚えてる?」
 鍵を開けて。彼女はそう言った。
「ルーツィアの願いを叶えてあげてほしい。あなたにしか叶えられないんだ」
 ミヒャエルが痛みをこらえるように瞼を閉じた。
「わかった。行こう。ここで待っていてくれ」

 教会にルイスとリートがミヒャエルを伴って現れると、参列者たちがかすかにざわめいた。
 儀式用の白に黄色の縁取りがされた祭服に身を包み、帽子をかぶったメルヒオルがルイスに目だけで微笑んでうなずくと、ルイスも無言でうなずき返した。
 メルヒオルが静かに口を開く。
「では、始めようか」
 葬儀は滞りなく進んだ。
 リヒトを賛美する歌が歌われ、メルヒオルが教典の祈りの言葉を読み上げる。今は字が読めたので、リートも一緒に唱和した。
 ライナスが死んだとき、ルイスが唱えてくれた言葉を読み上げながら、リートはささくれ立っていた気持ちがしだいに収まっていくのを感じていた。
 リートの住んでいた国では、特定の宗派の様式にのっとった葬儀はしないのが一般的だった。参加者全員が故人にもくとうし、肉親や友人がお別れの言葉を述べ、最後に参加者が一人ずつ祭壇に献花をする。
 リートは身内の葬儀に出たことが一度もなかった。祖父母は自分が幼い頃に亡くなっていて、その時の記憶がない。
 話したこともない学校の同級生の葬儀に出たことが一度あるきりだった。
 本人の意識がないのに、なぜこうしてわざわざ儀式をして送り出す必要があるのかリートにはよくわからなかった。
 ライナスの葬儀に出ることに気が進まなかったのも同じような理由だった。
 だがきっとこの一連の儀式は、生きている人間のためにあるのだとリートは思った。
 死んだ人間と離別して、心に整理をつけるために。
 そして、自分たちのいる世界とは別の世界の住人になってしまったのだということを、もう二度とこちら側には戻れないのだということをはっきりとした形で示すために。
 死者と生者を分かつ。それが葬儀の目的なのだとリートは思った。
 最後のお別れのために人々が立ち上がり、棺に花を手向けた。
 しかし、ミヒャエルは立ち上がろうとしなかった。
「……ミヒャエル」
 ルイスが呼ぶと、ミヒャエルが立ち上がった。
「ついてきてくれ」
 リートは無言でうなずくと、オルゴールを両手に持ったまま立ち上がった。
 一歩一歩踏みしめるように、ミヒャエルが棺に納められたルーツィアの元に歩み寄る。リートはその後に続いた。
 棺の中のルーツィアは、血に染まっていた水色のドレスではなく、純白のドレスに着せ替えられていた。まるで花嫁衣装を着ているようだとリートは思った。
 彼女が抱えてきた苦しみがすべて嘘のように、ルーツィアの表情はどこまでも安らかだった。
 こんなときにまで気を使わなくていいのに、とリートはもどかしい気持ちになった。
 ルーツィアが子どもっぽいわがままを口にしたところをリートは一度も見たことがなかった。
 だが、そんな彼女を想像することがリートにはできなかった。
 ミヒャエルは、片手で礼服のポケットを探り、銀の懐中時計を取り出した。
 リートも何度か見たことがある、彼が愛用している物だった。
 しかし、ミヒャエルの目的は時計ではなかった。
 よく見ると、制服のぼたん穴に通された鎖には、時計と一緒に小さな銀色の鍵がつけられていた。
 ミヒャエルは微かに震える手で鎖から鍵を外し、リートが持っているオルゴールの鍵穴にゆっくりと鍵を差し込んで回した。
 かちりと音がして錠が開いた。ミヒャエルが蓋を開けると、そこに並んでいたのは二つの銀の指輪だった。
 ミヒャエルはオルゴールから指輪を取り出すと、ルーツィアの手を取って薬指に嵌め、自分の指にも嵌めた。
「すまないルーツィア」
 ミヒャエルが囁くように言った。
「もう大丈夫だ。わたしはどこにも行かない。これからはずっと、君だけのものだ」

 埋葬が終わると、それとほぼ同時に雨が降りはじめた。その雨に追い立てられるように、参列者たちは帰路に就いた。
 ミヒャエルが、ガブリエレと共に帰る姿をリートは見届けた。彼らはきっと一緒に郊外にある屋敷に帰るのだろう。
 ガブリエレがそばにいるなら、ミヒャエルは大丈夫だとリートは思った。
 そして、リートはルイスに視線を向けた。
 参列者が帰ってしまってからも、ルイスはルーツィアの墓前に立ち続けていた。
 ヴェルナーにもう少しだけ待ってほしいと頼み、リートはルイスの元に向かった。
 頭巾を目深にかぶって雨をしのぎながら、リートはルイスに近寄った。
「ルイス、もう戻ろう」
 しかし、リートの声には答えず、ルイスはその場にしゃがみ込んだ。うつむけた顎からしずくがとめどなく流れ落ちていく。
 だが、ルイスは泣いてはいなかった。
「彼女が助言をくれたんだ」
 そうルイスがぽつりと言った。
「君から絶対に離れてはいけないと。わたしが信じることを諦めなければ、必ず相手も信じてくれるからと」
 リートははっとしてルイスを見た。
 彼女は知っていたのだ。
 どんな言葉よりも、治療よりも、相手を信じることが大切なのだと。
 どうして彼女はその気持ちを自分に向けなかったのだろう。
 自分は助かるはずだと信じることができなかったのだろう。
「君がライナスのところで泣いていたとき、わたしはなぜか懐かしい気持ちに襲われた。なぜそんな気持ちになるのか、自分でもわからなかった。だが今ならわかる。両親が死んだとき、わたしも君と同じことを思っていた。どうして死ぬのが自分ではなかったのかと」
 ルイスの声には怒りも悲しみもなかった。ただ淡々と、彼は心の裡を述べ続けた。
「今も同じだ。どうしてわたしだけが生きているんだろう」
「……ルイス」
 リートはそのあとに続く言葉を見つけることができなかった。
 その沈黙を埋めるように、降り注ぐ雨音が静かに周囲に響いていた。
 ヴェルナーが呼びに来るまで、リートはルイスのそばから一歩も動かなかった。