第72話 だれが彼女を殺したか

 扉が開いた瞬間、リートは緊張した。
「おはよう、リート」
「おはよう、ルイス」
 しかし、リートはそこから言葉が続かず口を閉じた。こういうとき、なんと言っていいのかわからなかった。
 ルイスとまともに話したのは、葬儀の日以来だった。
「わたしがいないあいだ、問題はなかったか?」
 ルイスの問いかけに、リートは急いで答えた。
「大丈夫だよ。ヴェルナーにこっちの札遊戯の仕方を教えてもらって遊んでたんだ」
 そう言ったあと、リートはとっさにまた口を開いた。
「あのね、突然で悪いんだけど、ソリンに行ってもいい?」
「なぜだ?」
「ヴェルナーに札を返すのを忘れてたから、返しにいきたいんだ」
「それならわたしからヴェルナーに返しておくが」
「そうしようかと思ったけど、どうせならソリンに行ってみたいなと思って。僕はハーナルには行ったけど、ソリンにはまだ行ったことがないから」
 そこまで言ってから、リートは観念した。
「……違うよ。本当は、理由なんてなんでもいいんだ。とにかく、外に行こう」
 つくづくこういうときの自分は使えない。変なことを口走るんじゃなかったとリートは後悔した。やはり、黙っていたほうがよかったかもしれない。
 そんなふうに一人で右往左往しているリートの様子を、ルイスは黙って見つめていたが、不意に瞳がふっと笑った。
「……案内する」

 ソリン騎士団の訓練場は、周りに塀が張り巡らされていて、外からは見えないようになっていた。
 ヴェルナーは驚いたようだったが、リートを快く歓迎してくれた。ほかの騎士たちにも紹介すると言ってくれたが、邪魔をしては悪いので、リートはすぐに退散することにした。
 しかし、残念ながらそれはかなわなかった。
「無様だな、ルイス」
 そうリートたちに声をかけたのはクラウスだった。
 リートは頭を抱えた。なぜよりにもよってこの時機に会ってしまうのだろう。
「クラウス、今のルイスは話ができるような状態じゃないから」
 しかし、クラウスはまるでリートがその場にいないかのように無視して話しだした。愉悦を含んだ瞳があざわらうようにルイスを見る。
「悲劇の英雄になった気分はどうだ?」
 その言葉を聞いて、リートはあんたんたる気持ちになった。
 世間では一連の事件はそういう扱いになっているのだ。
 ルーツィアとルイスは共にベギールデの人間に殺されそうになり、ルイスはルーツィアを守りきれなかったのだと。
 間違ってはいない。それが起きたことのすべてだ。
 だが、ルーツィアが死んだのはミヒャエルのことがあったからだ。その事実が公になることはこれから先も永遠にない。
 事件の真相を知っているのは、リートとルイスとミヒャエル、それにエミリアとガブリエレとメルヒオルを加えれば六人だけだった。
「みんなおまえに同情的なようだが、わたしの考えは違う。婚約者が死んだのはおまえのせいだよ、ルイス。おまえは彼女のことをなにもわかってなかった」
 その言葉にルイスが弾かれたように顔を上げた。
 クラウスがにやりと笑う。
「叔父から聞いた。おまえの婚約者はベギールデに脅されていて、やつらの命令でおまえを嵌めようとしたそうだな。あの夜、婚約者がおまえに剣を向けているのを見た人間もいる」
 それを聞いてリートは納得した。
 あの時、迷宮庭園の近くでリートが拾った短剣はルーツィアのものだったのだ。
 彼女が本気でルイスを殺そうとしていたはずがない。
 きっと、ルーツィアはルイスを逃がすためにあえて彼に刃物を向けたのだ。それくらいしなければ、ルイスは敵から逃げないと彼女は思ったのだろう。
 だがルイスは敵前逃亡など絶対に選ばない人間だ。彼は最後の最後までルーツィアを守ろうとしたに違いない。その結果、ルーツィアだけが死ぬことになった。
「ルイス、聞かないで。 早く行こう」
 リートはそう言いながら、ルイスの腕をつかんで引っ張った。
 しかし、ルイスは動かなかった。
 捕らえた獲物をいたぶるように、それが楽しくて仕方ないという調子でクラウスがまた口を開く。
「彼女はおまえを裏切らなければならないほど追い詰められていたのに、そのことにおまえはまるで気づかなかったんだ。それどころか彼女を見殺しにした。昔からおまえはそうだ。人の痛みにまるで気づかない」
「……だったらどうすればよかったんだ」
 感情のこもらない目でルイスがクラウスは見つめた。
「教えてくれ。わたしのなにがいけなかったんだ」
 クラウスに詰め寄るルイスの姿を見ていられず、リートは目を背けた。
「答えろ、クラウス。どうすれば彼女は死なずにすんだんだ」
 クラウスがあわれむような目つきでルイスを見る。
「そんなこともわからないのか?」
 リートはその言葉の続きを聞きたくなかった。止めなければと思うのに、どこかに置き忘れたように声が出てこない。
「助ける方法なんて、初めからどこにも存在しない。おまえがどう動こうと彼女の死は避けられなかった」
 ルイスがまるで全身を刺し貫かれたように動きを止めた。
「矛盾していると思うか? だがそれが事実だ。彼女が死んだのはおまえのせいだが、おまえがなにをしても彼女は助からなかった」
 リートはクラウスを否定できなかった。今まで考えないようにしていたが、それはうすうすリートも気づいていたことだった。
「……そんなはずがない」
 つぶやくようにそう言うと、ルイスがクラウスに掴みかかり、地面に引き倒した。
「そんなはずがない!」
「ルイス!」
 リートは慌ててルイスに近づこうとしたが、彼の身体に触れることを躊躇した。今のルイスに触れることはあまりに危険だった。
 倒れ込んだままの体勢でクラウスが狂ったように笑い声を上げる。
「わたしは昔、おまえに忠告した。いつかおまえは他者の弱さに敗北すると。おまえは昔からなにも変わらない。そしてなにもわかってない」
 クラウスは酷薄な笑みを浮かべ、ルイスにだけ聞こえる声でささやいた。
「……せいぜい苦しめばいい」
「ルイス!」
 リートは振り返った。声の主はアルフレートだった。
 糸が切れた人形のようにうなれたままのルイスの腕を掴み、クラウスからがす。
「クラウス、おまえはさっさと行け」
 アルフレートはクラウスにそう言い捨てると、厳しい表情でルイスを見据えた。
「来い、ルイス。メルヒオルのところに行くぞ」
 ルイスが目を見開いた。
「アルフレート、待ってくれ。わたしは」
 アルフレートは耳を貸さなかった。
「守るべき対象である人間を怖がらせる騎士がどこにいる。わたしをこれ以上失望させるな、ルイス」
 ルイスがはっとした顔でリートを一瞬見たあと、うつむいた。固く握り締めたその手は、リートにもはっきりとわかるほど激しく震えていた。
「今からちょうどメルヒオルのところに行く予定だったんだ。おまえの処分を決める権限は、今のわたしにはないからな」
 どうしてこうなってしまうのだろう。
 目の前で進んでいく事態を、リートはすすべもなく見つめていた。

 数分後、三人はメルヒオルの執務室の前にいた。
 アルフレートがメルヒオルの秘書に取り次ぎを頼むと、秘書が扉を開けてくれた。
 三人が部屋に入ると、来客用のソファにすわったメルヒオルがこちらを見るなり、すばやく立ち上がったが、その向かい側に坐っている壮年の男を見て、リートは驚いた。
 短く刈った銀髪に青灰色の瞳。ハーナル騎士団の団長、リューディガーだ。
 アルフレートも目を丸くしていた。
「なんだ、おまえも来ていたのか、リューディ」
「呼び出されたのでな」
 リューディガーは言葉少なにそう言うと、不機嫌そうな表情で足を組み直した。
「リート、彼はリューディガー・フォン・アイゼンシュタット。ハーナル騎士団の団長だ」
 メルヒオルが紹介すると、リューディガーが立ち上がってお辞儀した。
「ミヒャエルを立ち直らせてくれたことには礼を言う」
 出し抜けにそんなことを言われてリートは驚いたが、すぐに顔をうつむけた。
「……僕はべつになにも。選んだのはミヒャエルですから」
「だが、その選択を提示したのはあなただ」
「僕はただ、ルーツィアの願いをミヒャエルに叶えてほしかっただけです。彼になにかを選ばせたつもりはありません」
 リューディガーが小さくため息をつく。
「……なるほど。要するに奴は、あなたの頼みを聞いただけだということか。どこまでも愚か者だな」
 愚か者という言い方に、リートは非難の意味を込めてリューディガーを睨んだ。
「……そんな言い方」
 リューディガーがリートにくような視線を向ける。
 その眼光の鋭さは、リートのささやかな反発など歯牙にも掛けなかった。
「自分を粗末に扱う人間に、他人を救うことなどできない。それがすべてだ」
「今日も調だな、リューディ」
 アルフレートが朗らかな調子で言うと、ちゃされたのがいやだったのか、リューディガーが苦い顔になった。
「こうもやられっぱなしでは、いらいらもする」
「だからといって、リートにあたらないでほしいのだけどね」
 メルヒオルがやんわり苦言を呈すると、リューディガーはじろりとメルヒオルをいちべつした。
「……あたってなどいない。それで、おまえがうわさのルイスか」
 リューディガーはそう言って、リートの後ろに立っていたルイスに視線を向け、じっと観察したが、すぐにつまらなそうな顔になり、横を向いた。
「……聞いていたほど馬鹿には見えないな」
 メルヒオルがアルフレートにソファにかけるように勧め、話を促した。
「話を聞こうか、アルフ」
「ルイスのことだ。今し方、うちの団員とごとを起こした。大半はうちの団員の過失だが、先に手を出したほうが問題なのは明白だ。今の状態では、この先任務に支障をきたすおそれがある」
 アルフレートはそこで言葉を切り、ちらりとリートのほうに視線を向けた。
「もともとルイスはソリンの人間で、近衛騎士ではない。王の最高顧問である君の頼みだから引き受けたが、あくまで臨時の措置だ。エミリア王女にトリスタンがいるように、これを期に、近衛騎士のなかから専任の人間を選んだほうがいいと思うが?」
 メルヒオルが小さくため息をつく。
「……わかった。そうしよう」
「あの!」
 リートは耐えきれず、二人の会話に割り込んだ。
 部屋にいた全員の視線が一斉に自分に集中するのを感じながら、リートは口を開いた。
「僕を無視して話を進めないでほしいんですけど」
 リートはメルヒオルのほうを見た。
「それは僕が決めることだと思います。というか、僕に決めさせてください。お願いします」
「リート」
 ルイスが驚いたように目を見開く。隣でアルフレートが眉を上げる。
「ルイスをかばうというのか?」
「違います」
 急いでそう言いながら、リートは膝の上でぎゅっと両手を握り締めた。
 彼とそんな理由で引き離されなければならないなんて、リートには耐えられなかった。だが、この気持ちを説明したところでわかってもらえるとは思えなかった。
 特に、アルフレートやリューディガーのような地位の高い人間には。
「僕は、ルイスを解任したい。でもそれは、彼が僕にさわしくないんじゃなくて、僕が彼に相応しくないからだ」
 自分はべつにわかってもらいたいわけではない。
 この処分が気に入らない。ただそれだけだ。
 ルイスは、クラウスに悪口を言われたからげきこうしたのではない。彼が打ちのめされているのは、もっと別のことだ。
 この気持ちは、同じ経験をしたことのある人間にしかわからない。
 もう届くことのない願い。
 手からすり抜けていった永遠。
 越えることのできない断絶。
 リートは立ち上がり、アルフレートのほうに歩み寄った。
「後任はヴェルナーにしてください」
 なんと言われようと、これだけはリートは譲るつもりはなかった。
「ごめんなさい。僕は人づき合いが苦手だから、また一から関係を構築するのが難しくて……気心が知れている人がいいんです。お願いします」
「君がいいなら、わたしはそれでかまわないが」
 頭を下げるリートに、当惑した表情でアルフレートがメルヒオルを見やる。
「いいのか、メルヒオル」
 メルヒオルが静かにうなずいた。
「リートがそうしたいなら」
「ありがとう、メルヒオル」
 リートは礼を言ってから、無表情でこちらを見ているリューディガーに近寄った。
 リューディガーの青灰色の瞳を、リートはまっすぐに見つめた。
「ミヒャエルは愚かなんかじゃない。彼はただ、自分を許す方法がわからないだけだ。本当は傷ついているのに、自分を許すことも助けることもできないから、代わりに他人を助けてしまう。それにあなただって、ミヒャエルのそういうところを利用してきたんでしょう?」
 こんなことを言っても仕方ないことはよくわかっていた。
 それでもリートは止められなかった。
 なにもかも、簡単に許してしまいたくなかった。
「僕だってそうだ。僕にはミヒャエルを責める資格なんかない」
 そう言いながら、リートは荒れ狂う気持ちを制御するように、片手をぎゅっと握り締めた。
「確かに、ミヒャエルは自分を粗末に扱ってたかもしれない。でもそれって本当にミヒャエルだけのせいなの? ミヒャエルが自分を大切にできないのは、ミヒャエルだけのせいじゃない。そうさせる原因がほかにもあるからだ。ミヒャエルが全部悪いなんて僕は思わない」
 ミヒャエルはずっと孤独だった。頼れる人はだれもいなかった。なのに、すべてを自分独りで背負って守ることなどできるはずがない。
 そんなことができるのは、本当にごく一部の限られた人間だけだ。
 そもそも、そんなつらい決断を下さなければならない状況自体が間違っている。
 彼を責める資格がある人間などどこにもいない。
 リートはほかのだれにも、この事でなにも言われたくなかった。
「失礼します」
 感傷的な気持ちに押し流されるように、リートはメルヒオルたちに背を向け、部屋を出た。

「リート」
 ルイスに名を呼ばれても、リートは歩みを止めなかった。
 どこに向かっているのか、自分でもよくわかっていなかった。
「リート」
 その声でやっとリートは立ち止まった。
「大丈夫だよ。自分のせいだなんて思ってないから」
 ルイスのほうを見ず、リートはうつむいたままそう言った。
「そうか」
「……怒ってる? こんなこと、勝手に決めて」
「いや。すべてはわたしが至らなかったせいだ」
 静かにそう答えたルイスに、リートは一瞬息を止めた。
 そうだ。彼はそんな結論を出してしまう人間だ。だれのせいにするわけでもなく、ただ自分の責任だと受け入れてしまえる。
 自分がなにをしようと、ルイスの考えは変わらない。それがこんなにこたえることだと知らなかった。我慢できず、リートは振り返っていた。
「違うよ。それは違う。ルイスのせいなんかじゃない。ただ、僕は君に」
 しかし、ルイスの澄んだ瞳を見た瞬間、リートはその先の言葉を言うことができなかった。
 自分はいつもこうだ。感情があふれだすと、なにかが詰まったように言葉が出てこなくなってしまう。知識はあっても、考えることはできても、こういうときにかける言葉を自分は知らない。
 リートは項垂れた。
「……ごめんね」
 自分はいったい、なにに対して謝っているのだろう。
 自分自身でもよくわからないまま、リートはそう口にしていた。

 リートが部屋を出たあと、アルフレートはしばらく考えを巡らすように瞼を閉じていたが、おもむろに口を開いた。
「……メルヒオル。わたしはとんでもなくまずいことをしたようだな」
 リューディガーが鼻を鳴らす。
「おめでたい奴め。世の中はおまえのように、だれとでも仲良くなれる人間ばかりじゃないんだ」
「まさか彼がそこまでルイスを気に入っているとは思わなかったんだよ。ああ、失敗した。これではわたしが完全に悪者じゃないか」
 頭を抱えるアルフレートに、リューディガーが容赦なく言った。 
「馬鹿め。だからおまえは無神経だというんだ」
「わかっているさ。妻にもときどきそう言われるからな。しかし、彼はなんなんだ? まさかあんなふうに頼まれるとは思わなかったぞ。そうかと思えば、自分でルイスを解任するなんて」
「おまえにはわからんさ」
 アルフレートがむっとした顔でリューディガーを見る。
「なら、おまえにはわかるのか?」
「いいや。さっぱりわからん。だが、おまえに口を挟まれるのが気に入らなかったんだろうよ」
「より正確に言うなら、リートは自分で決めたかったんだよ」
 メルヒオルがそう言うと、リューディガーがやれやれという表情になった。
「自分で決めたと思いたい、か。おめでたいことだ」
「相変わらず、個人の意思を軽んじる人間だな、おまえは」
 アルフレートがあきれた顔になったが、リューディガーは一転して真剣な表情でアルフレートを見つめた。
「自分で決められることなどほとんどない。我々は常になにかを選ばされているだけだ。個人の意思ごときではなにも成せない」
「信じなければなにごとも始まらないだろう」
「わたしもアルフと同じ意見だね」
 メルヒオルがほほんで言うと、リューディガーは二人を睨んでからそっぽを向いた。
「議論はもういい。さっさと本題に入れ、メルヒオル」
 メルヒオルがうなずき、二人の騎士団長を真剣な表情で見た。
「君たちに話しておきたいことがある」