「……ルイス」
エミリアはそれだけ言うのがやっとだった。
なぜ、よりにもよってこんなところを見られてしまうのだろう。
いつも自分たちは間が悪いことの連続で噛み合わない。
バツの悪い思いで固まっているエミリアとは対照的に、ミヒャエルはまったく動じていない様子でソファから立ち上がった。
「どうした?」
ルイスは硬い表情で、手に持っていた書類を差し出した。
表情には出ていなかったが、内心では自分たちに呆れているに違いない。
「さっきの聴取記録だ」
「ありがとう」
「取り込み中すまなかった」
それだけ言ってすぐに出ていこうとしたルイスを、エミリアはとっさに呼び止めていた。
「待って、ルイス!」
ルイスが立ち止まり、振り返る。
「わたしはべつにそういうつもりじゃ」
エミリアが言い淀むと、ルイスが首を傾げた。
「なぜそんなことを言うんだ? 君たちは婚約者同士なんだから、わたしに断りを入れる必要はない」
「だからって挨拶もなしなの? それにあなた、気に入らないって顔をしたじゃない」
「ミヒャエルの節操のなさに呆れていただけだ。ここは私的な空間じゃないんだぞ」
エミリアは自分の顔に皮肉っぽい笑みが広がるのがわかった。
「なら、わたしも節操なしね。先に近づいたのはわたしのほうだから」
エミリアがそう言うと、ルイスがはっとした顔になった。
「違う、そういうことが言いたかったわけじゃない」
気まずげにうつむいてしまったルイスを見たとき、エミリアは後悔した。
なぜこんなことを言ってしまうのだろう。
そういうことが言いたかったわけじゃない。
そう言いたいのはエミリアのほうだった。
自分はいつもそうだ。彼を困らせて、傷つけて楽しんでいた。
罰を与えているつもりだった。
なにもかもすべて、彼が自分の気持ちに気づかないのが悪いのだと思っていた。
今まで自分はいったい、ルイスになにを期待していたのだろう。
「……ごめんなさい。忘れて」
エミリアは小さな声でそう言うと、ルイスの横をすり抜けるように、開いていた扉から外へ出た。
「ミリィ!」
背後から追いかけるようにかけられたルイスの声を聞いたとき、エミリアは泣かないように唇を噛み締めた。自分にそんな資格はなかった。
トリスタンを伴って、エミリアは足早に庁舎を出た。
弱い自分が嫌でたまらなかった。
もう決めたはずなのに、彼に会っただけでこんなにも簡単に自分の決意は揺らいでしまう。
自分はなぜルイスを呼び止めたのだろう。
なにを言うつもりだったのだろう。
言ったところで、なにも伝えられることなどない。
最初から、自分たちのあいだにはなにもなかった。それが事実だ。
そしてそれは、ほかでもないエミリア自身が望んだことだった。
去っていくエミリアをどうすることもできず、ルイスはその場に立ち尽くしていた。
エミリアが来ていたのは知っていたが、書類を渡すだけだとトリスタンに言って部屋に入ったことを、ルイスは後悔した。
どうしてだろう。不適切なことを言ったのは自分のはずなのに、謝ったのはエミリアのほうだった。だがそれを考えるよりも、今のルイスはエミリアのことで頭がいっぱいだった。彼女はひどく傷ついた顔をしていた。
そんなつもりで言ったわけではなかった。けれど言ってはいけないことだった。
ルイスがふと視線を感じて顔を上げると、そこにはいつも通り、穏やかな笑みを浮かべてミヒャエルが立っていた。
この男の計算し尽くされた微笑みが、感情を読ませないための仮面なのだということに、ルイスはミヒャエルと働きだしてから気がついた。
そしてそれが、自分を苛立たせる原因のひとつだったのだということも。
「さすがだな」
ルイスはミヒャエルを睨んだ。
それが褒め言葉ではないことくらいは、ルイスにもわかっていた。
「ミヒャエル、話がある」
「悪いが話すことはないな。おまえにエミリアとのことでなにかを言われる筋合いはない。それとも、今更その気になったのか?」
ルイスは、皮肉っぽく微笑むミヒャエルから視線を逸らした。
なぜこんなにも落ち着かない気持ちになるのか、まるでわからなかった。
「違う。わたしのこととは関係ない。わたしはこんなことは間違っていると思うから言っているだけだ。それに、彼女が好きなのは」
「……好きなのは?」
ミヒャエルが囁くような声音で繰り返す。
しかし、ルイスはなぜかそこから言葉を繋げることができなかった。なにかがルイスの中でその行為を制止していた。
ルイスは両手を固く握り締めた。どうすればいいのかわからず、苛立ちだけが加速していく。
「言えないのか? ルーツィアには愛していないと言われたんだろう。だったらべつにいいだろう?」
「そういう問題じゃない」
ルイスは険しい顔でミヒャエルに詰め寄ろうとしたが、その前にミヒャエルがルイスの眼前に優美な動作で手を掲げた。その手には銀色の指輪が輝いていた。
「ルーツィアは永遠にわたしのものだ。勝手に思うのはやめてもらおうか」
突きつけられた手を直視できず、ルイスは目を背けた。
「だったら、おまえこそ婚約を断ればいいだろう。おまえは愛してもいない人間と結婚する気か?」
「それとこれとは話が別だ。確かに愛してはいないが、わたしはエミリアを気に入っているし、それなりにうまくやる自信もある。愛がなくても、婚姻はできるからな」
「ふざけるな」
ルイスは、そんなことを平然と言い切れるミヒャエルの神経が信じられなかった。なぜこの男はいつも、感情のこもっていない言葉を淀みなく、まるで詠うように紡げるのだろう。
「なら、おまえにわかるのか? 愛するということがどういうことなのか」
ミヒャエルに切り返され、ルイスは言葉に詰まった。
(それがわたくしにとって、たったひとつの愛です)
そう言ったルーツィアの言葉を、ルイスは否定した。
だが、彼女はそれを捨てるくらいなら死を選んだ。
ルイスにはそれが理解できなかった。理解したいとも思わなかった。
「おまえはエミリアをどう思ってるんだ? ただの知り合い? 幼馴染み? 友達? 仕えるべき相手? それとも、わたしが気に入らないからそんなことを言うのか? いずれにしても余計なお世話だ」
「それは――」
ルイスは答えられなかった。
そうだ。自分が口を出すべきことではない。それはわかっていた。
しかし、ルイスは気に入らなかった。
気に入らないものは気に入らない。そう思ったときはいつも自分の考えを主張してきた。
そんなルイスの考えを見通したかのように、ミヒャエルがまた笑みを浮かべた。
その微笑みは、慈悲深い天使にも残酷な悪魔にも見えた。
「おまえはエミリアのことをなにも知らない。今まで彼女がどれだけおまえのために心を砕いていたのか知っているのか? 前夜祭の日が非番になるように働きかけたのも、ルーツィアが王宮で暮らせるように取り計らったのも彼女だぞ。わたしの過去を調べたのも、わたしがおまえに危害を及ぼす可能性を考えてのことだ」
ルイスは目を見開いた。
そんな見方をしたことは今まで一度もなかった。
違う。そんなはずがない。
(あれは彼女が――)
「彼女が勝手にやっていただけだ、頼んだ覚えはないとでも言うつもりか? そうだな、おまえにとっては全部余計なことでしかなかっただろうからな。べつにおまえのせいじゃないさ」
そこに込められた痛烈な皮肉に、ルイスはなにも反論できなかった。
いつも穏やかな光を湛えたグレーの瞳に敵意を浮かべ、ミヒャエルはルイスを冷たく睨んだ。
「おまえが自分のことに集中できるのは、周りの人間がおまえを支えていたからだ。おまえ一人の力じゃない。そんなことも知らないくせに、今更善人面して彼女の心配か? 笑わせるな。そんなおまえに、わたしのことをどうこう言える資格があるのか?」
ルイスは身動きひとつできなかった。
冷水を浴びせられた心地で、ルイスは呆然とミヒャエルの言葉を聞いていた。
ミヒャエルは呆れるのを通り越し、憐れむような表情を浮かべた。
「自分の気持ちもわからないような人間の言うことなど聞くに値しない。つまらないことで右往左往しているおまえと違って、わたしは忙しいんだ」
そう一息に言い切って、ミヒャエルはまったく目の笑っていない笑顔になった。
「出ていけ」
命じられるままに、ルイスは部屋を出た。
なにも考えられないまま、自分に宛がわれた席に機械的に坐る。自分でも無意識のうちに、ルイスは事務机の上に両肘を載せ、両手を組み合わせていた。
震えてうまく息ができない。
世界のすべてが根底から揺らいでいた。
自分の信じていた世界が遠ざかっていく。
ルイスは固く瞼を閉じた。
「……なぜだ」
なぜこんなことで悩んでいるのだろう。
ルーツィアが死んでしまったあの日から、ルイスはまるで別の自分になってしまったような気がした。
