また場面が変わった。
人々が逃げ惑っている。
黒ずくめの装束に白い仮面。リヒト原理主義者だ。
「リヒトに自由を!」
「リヒトを解放せよ!」
「エヴェリーン様をお救いするのだ!」
自分の命も省みず、捨て身で突撃を繰り返す原理主義者に、武装したソリンの騎士たちが必死に応戦している。
「エヴェリーン様、早くお逃げください!」
テレーゼがエヴェリーンの袖を引っ張りながら必死に言い募る。
しかし、エヴェリーンは逃げようとしなかった。彼女の様子は、リートが聖殿で襲撃を受けたときのユーリエとまったく同じだった。
「エヴェリーン!」
エヴェリーンの前に庇うように影が割り込んだ。剣が一閃し、敵が崩れ落ちる。
現れたのはユストゥスだった。
「怪我は?」
「……ないわ」
場面が変わり、二人は地下から地上へと移動していた。
騎士や医官が忙しなく行き交うなか、ユストゥスが床に坐り込んでいるエヴェリーンに険しい視線を向けていた。
「なぜ逃げなかった?」
「わたしの生死はリヒトが決めることだから」
エヴェリーンが淡々と言うと、ユストゥスが眉をひそめた。
「君は死ぬことが怖くないのか?」
「ええ。わたしはリヒトに生かされている身だから。わたしだけじゃない。ほかの人もそう」
「だからといって、抵抗せず殺されることを受け入れるなんて……どうかしてる」
「あなたはいつもなにかに抵抗しているのね」
そう言ってエヴェリーンが微笑むと、ユストゥスは下を向いた。
「したくてしているわけじゃない。俺にはそれしかできないんだ。君は諦めても俺は諦めたくない」
そう静かに語るユストゥスに、エヴェリーンが不思議そうに首を傾げた。
「どうしてわたしのことでそんなに怒るの?」
「怒ってない」
「うそ、怒ってるわ」
ユストゥスが気まずそうな顔になる。
「……すまなかった」
「どうして謝るの?」
「悪いと思ったら謝って、仲直りするものだろう」
エヴェリーンがくすりと笑うと、ユストゥスがむっとした表情になった。
「……なにがおかしいんだ?」
「いつも独りだと言っていたのに、あなたが今まで仲直りしたことがあるように言うから」
「白状すると、だれかと仲直りするのは初めてだ」
きまりが悪そうに横を向いたままユストゥスがそう言うと、エヴェリーンが微笑んだ。
「わたしも初めてよ。ありがとう、助けてくれて」
ユストゥスがうつむく。
「礼なんていらない。君風に言えば、助けたいから助けただけだ」
「……わかっているわ。でも、言いたかったの」
「なら、今度からは抵抗してくれ。君の力があれば簡単だろう」
エヴェリーンが首を振る。
「必要ないわ。だって、あなたが助けに来てくれるんでしょう?」
ユストゥスは呆気に取られた顔になったが、にやっと笑った。
「君は全然聖女なんかじゃないな。ときどきとても意地悪だ」
エヴェリーンがまた微笑んだ。その表情は、先ほどとは違って年相応の少女らしいものだった。
「わたしは自分のことを聖女だと言ったことは一度もないわ。周りの人間が勝手にそう言っているだけ」
また場面が変わった。
ユストゥスとエヴェリーンが、祈り場の中で話をしていた。
「エルフリードは孤独な人なの。わたし以外に信じられる人がいない。だから今は、わたしがそばにいてあげないと駄目なの」
「俺だって孤独だよ」
ユストゥスの口調からは刺々しさが消え、ずいぶん柔らかくなっていた。
「いいえ、あなたは孤独だと思っていただけよ。今はみんなとうまくやれているでしょう」
「それは君がいたからだ。素直になるのは、今もあんまり得意じゃない」
ユストゥスの率直な物言いにエヴェリーンの表情が硬くなった。
いつも超然とした雰囲気を纏っていたエヴェリーンからは戸惑いが感じられた。
「ユストゥス。わたしはヴォルヴァだからだれのことも好きにならないし、好きになってはいけないの」
「それで君は寂しくないのか?」
ユストゥスの問いかけにやや間を置いて、エヴェリーンが答えた。
「ええ。わたしにはリヒトの声が聞こえるから」
「そうか」
「……考えたことがなかったわ」
エヴェリーンがぽつりと言った。
「なにを?」
「わたしは寂しいと思っているのか。今まで、わたしに寂しいかと訊いた人はいなかった」
エヴェリーンがじっとユストゥスを見た。
「あなたはずいぶん変わったわ。そんなことを言うようになるなんて思わなかった。それとも、もともとあなたがそういう人だったということなのかしら」
ユストゥスがふっと笑う。
「かもしれない。君が気づかせてくれたんだ。俺がどんな人間か」
「わたしが?」
「君は俺にとって、鏡みたいなものだ。曇りも歪みもない鏡。だが俺は、その鏡の向こうにいる君を知りたい」
エヴェリーンが緑の目を瞬かせる。
「わたしを?」
ユストゥスがうなずく。
琥珀色の瞳に迷いはなかった。
「ああ。……君という人間を」
また場面が変わる。
エルフリードとエヴェリーンが部屋でお茶をしていた。
エルフリードの部屋は様変わりしていた。品の良い調度品が運び込まれ、壁際には分厚い革張りの本がずらりと並んでいる。
髪を短くし、清潔な服を着たエルフリードはあの時と別人のようだった。ただし着飾るのは好きではないようで、リートと同じように、胴着も襟飾りもつけず、上は簡素なシャツ、下は長袴の上から深靴を履いていた。
アウグストの血を引いているだけあって、エルフリードの顔立ちはそれなりに整ってはいたが、愛想はまるでなく、猜疑心の強い怯えた目つきをしていた。
エヴェリーンが淹れた茶の入ったカップを手元に引き寄せながら、エルフリードが口を開く。
「最近の君は、なんだか変だ」
エルフリードがエヴェリーンをじっと見つめながらそう言った。
「そう?」
エヴェリーンが気のない返事をする。
彼女は明らかに別のことを考えているようだった。
そんなエヴェリーンの様子に気づいていないのか、エルフリードは落ち着かない様子で、ちらちらと彼女のほうを見た。
「エヴェリーンは、だれかを好きになったことがあるの?」
カップを口に持っていこうとしたエヴェリーンの手が止まる。
「……どうしてそんなことを?」
「小説で読んだんだ。学術書にはもう飽きたから。でもつまらなかった。みんな恋をすると、途端につまらない人間になるんだ。自分に自信があって、頭脳明晰で才能もあるのに、だれかを好きになると、みんな賢明とは言えない判断を下す。理解できない。そのままで完璧なのに……わざわざ自分から馬鹿になるなんて」
「完璧だから幸せだとは限らないわ」
エヴェリーンがそう返すと、エルフリードが皮肉っぽい笑みを浮かべた。
「幸せか……僕には一番縁遠い概念だ。僕に幸せなんてあるはずない」
「どうしてそう思うの?」
「それが事実だからだよ。ほかの人たちは、僕らとは違う」
「いいえ、同じ人間よ」
エルフリードが理解できないという表情になる。
「どうしてエヴェリーンはこの国の人たちの味方をするの? みんな君の力を怖がっているのに」
「だれがどう思うかは関係ない。これがリヒトからわたしに与えられた役割だから、わたしはその役割を全うするだけ」
エヴェリーンの淡々とした答えに、エルフリードが嫌悪に顔を歪める。
「リヒトなんて――」
エルフリードはそこで言葉を切ると、エヴェリーンのほうを見て笑った。
「言わないでおくよ。君に嫌われたくはないからね」
エヴェリーンがエルフリードをじっと見る。
「あなたはこれからどうしたい?」
エルフリードは、一瞬戸惑ったような表情になった。
その様子はまるで迷子になった子どものようにも見えた。
「わからないよ、そんなの。自分のことなんて……」
エルフリードが投げやりな口調で言うと、机の上に置いてある本を手に取って開いた。
「人は嫌いだ。関わり合いになんてなりたくない。それに、あの人は……父は僕がここから出ることを許さない。僕には自由なんてない」
エルフリードはそこで言葉を切ると、本から顔を上げて上目遣いにエヴェリーンを見た。
「エヴェリーンは?」
「……わたしは」
エヴェリーンが少し考えたあとで口を開く。
「なにも変わらないわ。ずっとこのままよ。リヒトのために生きる。それが自分に課せられた役割だから」
「なら、ずっと僕のそばにいてくれるよね」
エルフリードが縋るように言うと、エヴェリーンがうなずいた。
「ええ、ずっと」
祈り場の中で、エヴェリーンがユストゥスと対峙していた。
「ユストゥス。もう会うのはやめましょう」
「なぜだ?」
「あなたはもうソリンで孤立していないし、両親とも折り合いをつけてつき合っている。わたしに会う必要はないわ」
エヴェリーンは顔を上げ、ユストゥスを見つめた。
「あなたは常に変化している。でもわたしは変化しない。変化してはいけないの」
「俺はべつに変わったわけじゃない。ただ、昔より自分がどういう人間かわかるようになっただけだ。君が俺に教えてくれたんだ」
ユストゥスが決然とした表情でユーリエを見つめた。
「俺は君に会えなくなるのはいやだ」
「ユストゥス……」
「君はどう思っているんだ、エヴェリーン」
揺れる気持ちを押し隠すように、エヴェリーンが目を伏せる。
「ユストゥス、ヴォルヴァはなにも選べないし、選んではいけないの」
ユストゥスが静かに首を振る。
「なにかを選ばないなんて不可能だ。選んでいないというなら、それはだれかの意思で動いているだけにすぎない。君はヴォルヴァである前に人間だ。恐れることなんてない。自分の意志に従うことが生きているということだ。リヒトの声ではなく、君の意思に従うべきだ」
「わたしは……」
エヴェリーンはためらいがちに口を開いたが、途中で瞼を閉じた。
「いいえ、それはできない。リヒトの意思がわたしの意思だから」
「なら、君は俺が嫌いか?」
「嫌いじゃないわ。でも、わたしにはどちらかを選ぶことなんてできない」
エヴェリーンが自嘲するように微笑む。
「わかったでしょう? わたしはヴォルヴァだから。人と考え方が違うの」
「考え方が違うのは当たり前のことだ。違うなら、その違いを理解し合えばいいだけのことだ。君はそうやって、人を遠ざけようとしてるだけなんじゃないのか」
ユストゥスの琥珀色の瞳がふっと微笑む。
「俺は君が好きだよ、エヴェリーン。君が好きになるのは禁忌だが、俺が勝手に好きになるのは禁忌じゃない。だろう?」
エヴェリーンが目を見開き、わずかに顔を歪める。
「あなたはそれでいいの?」
「君に会えなくなるほうがいやだから」
ユストゥスはそう言って手を伸ばし、エヴェリーンの頬に触れた。
エヴェリーンはユストゥスの手にそっと自分の手を重ねると、静かに瞼を閉じた。
「……ありがとう」
「どうしてだよ、エヴェリーン。あんな騎士、君にはまるで相応しくない」
エルフリードがエヴェリーンに必死に言い募っていた。
「あいつが言った言葉を本気で信じてるの? 君に会えなくなるほうがいやだなんて――あいつは君をいつか自分のものにするつもりなんだ。薄汚い欲望で君を穢す気なんだよ。あの男が僕の母親にしたように」
エヴェリーンが緑の目を見開く。
「あなた、わたしたちの話を全部聞いていたの?」
今度はエルフリードが動揺した顔になる。
「それは――だって、君が心配だったから。この頃の君はいつもうわの空だったじゃないか。ずっとそばにいるって、君はそう言ったくせに、君はあの騎士を選んだんだ」
「違うわ」
「違わない。君は僕を裏切ったんだ」
「待って、エルフリード」
エヴェリーンはエルフリードの腕を掴もうとしたが、エルフリードは思いきり振り払った。
「僕に触るな! 穢らわしい!」
その声とともに、天井から下がっていた室内燈が弾け、硝子の雨がエヴェリーンに降り注いだ。
「っ……!」
エヴェリーンが力を発動すると、破片が落下をやめて空中で静止し、次の一瞬で跡形もなく霧散した。
エルフリードは怯えた顔で、後退りながら首を振った。
「……違う。僕はそんなつもりじゃ」
「エルフリード、落ち着いて」
エヴェリーンはそう言って、ゆっくりとエルフリードに近づこうとした。
しかし、エルフリードはエヴェリーンを見ていなかった。うつむいたまま、エルフリードが早口で言う。
「……結局、僕はだれにもここにいることを望まれてないんだ。このあいだ、部屋を抜け出したときに臣下たちが話してるのを聞いたよ。僕の母は父に襲われて僕を身籠もったんだって。それに僕を置いて自殺したって」
「エルフリード、それは――」
「僕の存在は、この世界のだれにも望まれてない。だったら全員殺してやる。こんな世界、なくなってしまえばいいんだ!」
エルフリードの周りに風が巻き起こり、姿が消えた。
「エルフリード! 待って!」
エヴェリーンは部屋を出たが、その途端になにかに躓いた。
それがなにかわかった瞬間、エヴェリーンは立ち竦んだ。
「テレーゼ……」
エヴェリーンは倒れているテレーゼを抱き起こした。テレーゼは目を開けたままの状態で、すでに事切れていた。なにが起きたのかもわからないまま死んだのだろう。
テレーゼの瞼を閉じさせ、エヴェリーンは立ち上がった。
エヴェリーンが廊下を進むたび、傷ついた召し使いたちが彼女に縋りついた。
「エヴェリーン様、どうかお助けください」
「大丈夫よ、今治すわ」
エヴェリーンは傷ついた人々を治療しながら、廊下を進んだ。
リートは、エヴェリーンがどこに行くのかわからないままあとをついていった。
だが、エルフリードが復讐を企んでいるのなら、狙っているのはアウグストだろうとリートは思った。彼の母親に性暴力を振るい、父親であるにも関わらずエルフリードを監禁し、幽閉していたのはほかでもないアウグストなのだから。
エヴェリーンが階段を上り終えると、物陰で様子を窺っているソリンの騎士たちがいた。その中に見知った姿を見かけ、エヴェリーンが目を見開いた。
「……ユストゥス」
彼女の声が聞こえたのか、ユストゥスがふと後ろを振り返った。エヴェリーンの姿を認めた瞬間、ユストゥスは驚いて立ち上がった。
「エヴェリーン!」
しかし、ユストゥスと一緒にいるソリンの騎士は数人だけだった。
「ほかの騎士たちは?」
ユストゥスが首を振る。
「……みんな死んでしまった。残っているのは俺たちだけだ。命令違反だが、レナードが俺たちに撤退を命じたおかげだ」
そう言ってユストゥスが視線を向けた先にいたのは、ユストゥスより年嵩の茶髪の騎士だった。ルイスの上官であるロベルトと同じように、制服の襟と袖の線の数がほかの騎士より多い。
レナードが硬い表情でエヴェリーンを見た。
「いったいなにが起きているのですか? 我々はろくに説明も聞かされず、とにかく出動せよと命じられたのです。わたしは反対したのですが、聞き入れられず……」
エヴェリーンは、なにが起きているのかを騎士たちに説明した。
「ですから、彼の狙いは陛下と閣僚です。彼らを守ろうとする人間にも容赦はしないでしょう。あなたがたが何人束になっても、エルフリードには対抗できない。それよりも、どうか罪のない人たちを助けてください」
ユストゥスがレナードを見つめる。
「レナード、ここはあなたが決めるべきだ。俺たちはだれを守ればいい? ほかの部隊長は団長の命令に従って死んだ。だがあなたは違う。問題を起こしてばかりだった俺のことも見捨てなかった。俺はあなたの指示に従う」
「ユストゥス……」
ユストゥスの周りにいるほかの騎士たちも口々にレナードに言い募る。
「わたしもユストゥスと同じ意見です。あなたの命令に従って死んでも悔いはありません。どうかご命令を」
レナードは逡巡するようにしばらく瞼を閉じていたが、やがて覚悟を決めたように瞼を開いた。
「……我々が忠誠を誓うのはこの国と国民だ。愚かな国王でも横暴な貴族でもない。王太子夫妻は近衞騎士に任せて、我々は召し使いたちを避難させる」
騎士たちが一斉に返事する。
「承知しました」
レナードは剣を抜くとその場に跪き、剣を水平に寝かせて胸の前に翳した。ほかの騎士たちもレナードの周りに跪き、頭を垂れて瞼を閉じる。
「リヒトのために」
指揮官に続いて騎士たちが一斉に唱和する。
「リヒトのために」
慌ただしく動きはじめた騎士たちを置いて、ユストゥスはエヴェリーンに近寄った。
「君はこれからどうするつもりなんだ?」
「陛下のところに行くわ」
「俺も行く」
二人を見ていたレナードがユストゥスにうなずく。
「おまえはもともとだれの言うことも聞かない人間だ。好きにしろ」
「……ありがとう」
