「……これがわたしの記憶のすべて」
リートは瞼を開けた。
自分の隣を見てリートは驚いた。そこにはユーリエがいた。
どうやらユーリエも同じものを見せられていたらしい。
「どうすればいいの? どうすれば、彼を止められる?」
リートがそう訊ねると、エヴェリーンはためらうようなそぶりを一瞬見せたが、意を決したように口を開いた。
「リート。あなたの意識が戻るのと同時に、エルフリードの力をわたしとユーリエで封印する。でも、力を持たない人間は、一つの身体に二つの精神が同時に存在することができないの」
それが意味することを、リートは瞬時に悟った。頭で考える必要もなかった。
「つまり、僕は死ぬかもしれない?」
リートがそう言うと、エヴェリーンが苦しげな表情でうなずいた。
「だから、あなたの中にエルフリードがいるとわかっても、わたしはただユーリエの中で見守ることしかできなかった。あなたになにも告げずに封印するなんて、わたしにはできなかった。それにエルフリードに気づかれれば、王宮が甚大な被害を受ける可能性もあった。でもそのためらいが、今の状況を生んでしまった」
「そうだったんだね」
エヴェリーンの緑の瞳がじっとリートを見つめる。
「リート。あなたはこの世界に望むものがある? この世界に生きる、あなただけの理由。あなたの望み」
望み。その言葉を聞いた途端、リートの中でルイスの声がよみがえった。
(なら、君はなにを望んでいるんだ?)
リートはその問いに答えられなかった。
今だって、はっきりとわかっているわけではない。
「それはエルフリードにはないものなの。それがあれば、あなたはまたここに戻ってこられる。わたしは今までユーリエを通してあなたのことをずっと見てきた。わたしは、あなたが戻ってくると信じている」
エヴェリーンの真摯な瞳を見つめながら、リートは考えた。
戻ってこられる確証はない。だがやらなければならない。
いつだって、怖がっているだけなのだ。
なにもせずそこから逃げ出すことを、自分はもう選ばない。
結局いつか乗り越えなければならないときは来る。
それなら今、自分の意志で選びたい。
リートはうなずいた。
「わかった。やろう」
確率は二分の一だ。そして、たとえ自分がこの世界からいなくなったとしても、エルフリードはもう力を使えなくなる。
それだけでも、やる価値はある。
「駄目です! そんなこと」
「ユーリエ」
リートは驚いた。ユーリエがこんなふうに感情を露わにするところをリートは初めて見た。
「リート様が絶対に戻ってくる保証もないのに、そんなことはできません!」
ユーリエが、きっとした表情でエヴェリーンのほうを見る。
「エヴェリーン様はそれでいいかもしれません。でもわたしは、リート様がいない世界なんていやです!」
リートはユーリエのほうを見た。
「僕だっていやだよ。君や、みんなと会えなくなるのは。でも、このままじゃみんな死んでしまう。僕はみんなを守りたい」
「でも、ほかに方法が」
「本当なら、エルフリードを説得できれば一番よかった。でも彼はだれの言うことも聞かない。だれも信じない。ほかでもないわたしたちが彼をそうさせてしまったの。なのになんの関係もないあなたまで巻き込んでしまった。ごめんなさい」
頭を下げるエヴェリーンに、リートは首を振った。
「あなたは悪くないよ、エヴェリーン。間違ってるのは、あなたやエルフリードの自由を奪ったこの国の仕組みのほうだ」
リートはまっすぐにユーリエを見た。
「ユーリエ。必ず戻ってこられるかはわからない。でも戻れるようにできるだけ頑張ってみる。だから待ってて」
エヴェリーンに拒絶され、エルフリードはうつむいた。
「……なんでそんなことを言うんだよ。みんな都合のいいときばかり君を頼って、普段は君の力を恐れ、隔離して遠ざける。感謝のひとつもせず、恩恵だけを享受する。君だってこの国にうんざりしていたはずだ」
無表情のままそう語るエルフリードに、エヴェリーンが目を伏せた。
「そうね。でも彼は違ったの。ユストゥスはわたしにはなにも望まなかった。ヴォルヴァとしてではなく、わたしを一人の人間として見てくれた。彼には特別な力なんてなかったけれど、わたしにできなかったことが彼にはできる。でも、わたしはそうする勇気が持てなかった。ただの一人の人間として、彼を愛することが怖かった……」
エヴェリーンはそう言うと、静かに瞼を閉じた。
エルフリードが泣きそうな顔で首を振る。
「そんなの信じない。それがなんだっていうんだ。愛なんて、なんの役にも立たない! そんなものはただの虚構だ。そんなものはどこにもない。どこにもないんだよ!」
エルフリードは嘲笑うような表情でそう叫んだが、その声はどこか悲痛さに満ちていた。
帰る場所がわからず、道に迷った子どものようにエルフリードはその場にうずくまった。
「どこにもないなら、どうしてそんなに頑なに否定するの、エルフリード」
エルフリードがうつむいたまま首を振る。
「違う! 違う……! 僕は間違ってなんかいない。いつだって間違っているのは世界のほうだ。僕じゃない。僕を除け者にして化けもの扱いする、この世界が間違ってるんだ!」
「ミヒャエル! しっかりしろ!」
ルイスに揺さぶられ、ミヒャエルは薄く瞼を開けた。
どうやら自分は疲労で意識を失いかけていたらしい。
そんなことをミヒャエルはどこか他人事のように思った。
「……そんなに叫ばなくても聞こえてる」
ミヒャエルは身体を起こし、ルイスのほうを見た。
「なぜ来たんだ。おまえと一緒に死ぬなんてわたしは願い下げだぞ」
ミヒャエルの皮肉を無視して、ルイスが答えた。
「ベギールデはソリンが制圧した。わたしたちが死ぬことはない」
「そうじゃない。早く逃げないと、王宮にいる人間は全員奴に殺される」
ミヒャエルはリートの姿をしたエルフリードに視線を向けた。
ルイスが立ち上がり、リートのほうに歩み寄ろうとしたが、ミヒャエルが鋭く制した。
「待て、ルイス。そいつはリートじゃない。身体を乗っ取られてるんだ」
「……メルヒオルにここに来る途中で会って全部聞いた。それにおまえの指図は受けない」
そう言うと、ルイスはうずくまっているエルフリードに近づき、片膝をついて屈み込んだ。
「彼に身体を返してくれないか」
ルイスが静かにそう言うと、エルフリードが顔を上げ、口元を歪めた。
「そう言われて僕が返すと思ってるの? 本当におめでたいんだね」
そう言ってエルフリードがじっとルイスを睨んだ。
その瞬間、全身の力が抜け、ルイスは床に坐り込んだ。
「ルイス!」
ミヒャエルが声をあげたが、ルイスが苦しげな声で言った。
「近寄るな、ミヒャエル」
ルイスの右腕が自分の意思とは関係なく、勝手に動きだしていた。近くに落ちていたミヒャエルの短剣を広い、リートの心臓の位置に突きつける。
エルフリードが嘲るように言った。
「君は騎士なんだろう? この国を守るために理人を殺してみる? それが最善の方法だと思うけどね」
「……やめ、ろ」
ルイスが必死に抵抗する様子を、エルフリードはしばらく楽しげに眺めていたが、不意に指揮者のように手をぱっと握る仕草をした。
短剣がルイスの手を離れて床に落ちる。
「……なんてね。殺しても無駄だよ。この力があるかぎり僕は死なない。まただれかに乗り移ればいいんだし」
エルフリードは動けないルイスに近寄ると、耳元で囁いた。
「ずっと君のことを見てたけど、まさか理人が君に興味を持つなんて思わなかったよ。てっきりすぐにうまくいかなくなって、お役御免になると思ってたのに。君には呆れるよ。君はいつも理人を守ると言う名目で彼の好奇心を殺してしまう。そのくせに君は自分を守ってばかりで、大切なものはなにひとつ自分の手で守れない。騎士失格だね」
エルフリードは声を立てて笑った。
「知ってた? 君が一番理人の邪魔をしてたってこと。理人は、君の婚約者の真実を知っても、君にはすぐに告げようとしなかった。君を傷つけたくなかったからだ。いつも真実を知りたがってるのに、理人は君のためなら自分を簡単に曲げてしまう。でも、それじゃ彼は前に進めない。君は最初から理人と一緒にいるべきじゃなかったんだよ」
ルイスがすべてを受け入れるように、静かに瞼を閉じた。
「……そうだ。わたしは自分の役目を全うできなかったし、失敗ばかりだった。今更騎士のように振る舞うつもりはない。だが彼はわたしにはないものを持っている。それがなにかはわたしにもよくわからない。理由もわからない。それでも、守らなければならないと思ったから来た。たとえ、なにもできなくても」
エルフリードが鼻で笑った。
「君といいユストゥスといい、どうしてそんなに馬鹿なんだろうね。なにもできないなら、最初からなにもしなくていいのに」
エルフリードがエヴェリーンのほうに向き直る。
「エヴェリーン、君が僕の言うことを聞けないなら、そのヴォルヴァの身体を壊す。それからこの騎士二人を殺して……そのあとは面倒だから、真空状態にでもしてみんなまとめて殺そうかな」
エルフリードは投げやりな口調でそう言うと、指先をユーリエに向けようとした。
しかし、エルフリードの手は動かなかった。
「……なんで」
その時、エルフリードの頭の中で声が響いた。
〈……ユーリエは殺させないよ、エルフリード〉
その声を聞いた瞬間、エルフリードはまた元の暗闇に逆戻りしていた。
リートは瞼を開けた。
深い眠りから目覚めてすぐのはずなのに、意識はどこまでもはっきりしていた。
〈理人……! 君一人の力で僕と入れ替われるはずがない。エヴェリーンが君に力を貸したのか〉
頭の中で聞こえる声を無視して、リートはルイスに向き直った。
「ルイス。君が悪いんじゃないよ。僕が君に近づきすぎたんだ。あれは僕の失敗だ。あの日に戻れたら、僕はきっと別の答えを選ぶ。でも、君を好きになったことを後悔したことは一度もないよ」
「リート……」
〈僕に逆らうつもりか、理人〉
エルフリードが敵意に満ちた声で低く囁く。
〈君にはなんの力もないはずだ。なのにどうしてこんな……なんなんだよ、いったい。気持ち悪い〉
気持ち悪い。
そう言われて、リートは急にエルフリードに憐れみを感じた。
エルフリードはきっと、そんなふうにしか思えない人生を送ってきたのだ。
彼は人を好きになる感情そのものを理解することができない。
それは、すべてエルフリードのせいなのだろうか?
すべて彼が悪いのだろうか?
だが、生きられるのはどちらか一方だけだった。
自分がエルフリードを救うことはできない。
今の自分は、自身を救えるかどうかさえ危ういのだから。
リートはルイスとミヒャエルを見た。
「二人に言っておきたいことがあるんだ。ルーツィアが死んだのは、二人だけのせいじゃないよ。だから、少しだけでいいから自分を許してあげて」
「リート」
「ここに来てわかったんだ。自分で自分を許せないのが一番苦しいって。お願いだから、そんなに苦しまないで。そんな二人を見てるのはつらいんだ」
リートの言葉を呆然と聞いていたミヒャエルがはっとした顔になる。
「待てリート、なにをする気だ?」
リートは少しだけ笑った。さすがにミヒャエルは察しが良い。
「心配しないで。ちょっと眠るだけだから」
リートはエヴェリーンがユストゥスに言ったのと同じ言葉を口にした。
そして、アルベリヒに言われたことを思い出した。
確かに自分は勇敢な人間ではないかもしれない。だが勇敢であろうとすることはできる。
だれがなんと言おうと、そう信じている。
リートはユーリエのほうをまっすぐに見た。
「ユーリエ!」
ユーリエがうなずき、瞼を閉じる。
それとほぼ同時にリートも瞼を閉じた。
リートはユーリエに初めて出会ったときのことを思い出した。
(なにも考えないで。ただ自分の声に耳を傾けて)
今なら、その意味がはっきりわかる。
(そうするよ、ユーリエ)
リートは心の中でそう答えた。
その瞬間、白い光が辺り一面を覆い尽くした。
そして、なにも見えなくなった。
