次の朝、リートの機嫌は最悪だった。
昨日はあれからひどいことばかりだった。寝室でうとうとしていたところを侍女に起こされ、それが終わったかと思うと食べきれない量の夕食が出され、侍女に給仕されながら食事するはめになった。
おまけに給仕を断ると、侍女にクビにされたのだと勘違いされ、誤解を解くのに数十分を要した。(結局その侍女は別の侍女が引き取っていった)
しかし悲劇はそれだけでは終わらなかった。まだ夕食と格闘しているリートの前に、今度は官吏らしい格好をした年配の男が現れ、一方的に今日の予定を話しだしたのだ。
リートがすべての事項を頭に入れ終わる前に夕食は片づけられ、リートが静止する間もなく、訪問者たちがぞくぞくと部屋に入ってきた。
健康状態を確かめるために矢継ぎ早に質問され、身体のあらゆる部位の寸法を測られ――そこからはもう思い出したくない。
そんなこんなで、リートはソファにぐったりとうつ伏せになっていた。ちなみに服は昨日と同じ学生服のままだった。侍女が刺繍付きの豪華な服に着替えさせようとするのをなんとか断って、部屋から追い出したのだ。
(なんでこんなことになってるんだろう)
確かに、自分のいた世界でないならどこでもいいとは言ったけれど。
(いつこの夢は終わるんだろう)
その時、扉をノックする音がして、リートは反射的に身を固くした。
来客はもういい。ずっと一人にしておいてほしいのに。
しかしノックがいつまで経っても鳴りやまないので、リートは仕方なく起き上がり、重い足取りで扉を目指した。こう部屋が広くては入り口までたどり着くのも一苦労だ。
ふらつく足取りでリートは重い扉を開けた。
「おはよう、リート」
そこにいたのはルイスだった。きっちり着込んだ詰め襟の騎士服には皺の一つもない。髪型も表情も、寸分違わず昨日の彼と同じだ。
ただ、その気軽な口調を除いたほかは。
昨日とは打って変わったルイスの口調に、リートは驚いた。
「お、おはよう」
「遅れてすまない。昨日君に言われたことを実行していいものかわかりかねたので、メルヒオルのところに相談に行っていたんだ」
「そ、それで?」
リートは不安になった。メルヒオルはなんと答えたのだろう。図々しい、礼儀知らずな人間だと思われただろうか。
「君の好きなようにしなさいと言われた」
ルイスの答えに、リートは拍子抜けした。
「だから、わたしの好きなようにすることにした。もともとわたしは敬語がそこまで好きではないし、このほうがやりやすい」
「そ、そう」
「騎士は騎士でも、わたしは近衛騎士として警護の訓練は受けていないから、いろいろとわからないところがある。今回のことも突然のことで驚いているし、正直慣れないことばかりだ。至らないところがあったらすぐに言ってほしい」
そう生真面目な表情で語るルイスに、リートはうなずいた。
「う、うん、そうするよ」
「それより、今日はわたしが来る前に衣装合わせをしているはずだったんだが――なぜだれもいないんだ?」
首を傾げるルイスに、リートは一瞬言葉に詰まったが、ごまかしきれるとも思えないので、正直に話すことにした。
自分が全員を追い出したこと、人がたくさんいるのは好きではないこと、矢継ぎ早に質問されて答えられず困ったこと。
それを聞いてもルイスはまったく怒らなかった。
「そうか。それはすまなかった。たぶんなにか手違いがあったんだろう。メルヒオルに伝えておく」
言いながら、ルイスは心配そうな表情でリートの顔を覗き込んだ。
「ほかにはなにもなかったか? そうだ、昨日はよく眠れたか? なにぶん、君がいた世界とはなにもかも勝手が違うだろうから」
リートはその言葉に驚いた。
「僕が違う世界から来たことを知ってるの?」
「ああ。だいたいのことはメルヒオルから聞いた。なにか要望があるなら言ってほしいとも言われている」
「要望っていうか、なんていうか」
言おうか言うまいかリートは悩んだが、思いきって口にしてみた。
「部屋を変えてほしいんだけど」
「なにか不手際が?」
ルイスが深刻な表情になったのを見て、リートは慌てて首を振った。
「違うよ、そうじゃない。部屋が広すぎるんだ。一人でいるだけなのに、あんなに広い寝室はいらないし、この応接間も立派すぎる」
リートは言いながら、部屋の入り口近くに置いてある、応接用のソファにそろそろと腰を下ろした。ソファは寝台と同じく高級品で、恐ろしく坐り心地が良かったが、リートは身体がふわふわして落ち着かなかった。
「わかった。聞いてもらえるかはわからないが、伝えておこう」
ルイスの答えにリートはほっとした。この部屋から解放されれば大分楽になるはずだ。
「しかし、君は天啓者なのだから、この国では賓客待遇だ。それを思えば、この部屋は特別広くはないと思うが……」
これで広くないだって? 自分とルイスの感覚の違いにリートは眩暈がしたが、それよりも、リートは彼が口にした単語が気になった。
「あの、テンケイシャってなに?」
「君のことだが?」
リートは脱力した。ルイスは真面目だが、なにかが自分とは決定的にズレている。
「そうじゃなくて……テンケイってどういう意味?」
「天啓とは、天、つまりリヒトから受ける啓示――教えや導きのことだ」
だから天啓かとリートは納得したが、即座に別の疑問が湧いてきた。
(それって、僕が啓示を受けた人間だってこと?)
まさかとは思うが、この世界で自分は物語に出てくる救世主かなにかのような扱いなのだろうか。それなら、こんな立派な部屋を宛てがわれた理由も説明がつく。
(君はリヒトに選ばれた人間だ)
メルヒオルに言われた言葉がよみがえる。
あれは、そういう意味だったのだろうか。
「メルヒオルから聞いていないのか?」
リートは無言でうなずいた。そんな話はまったく聞いていない。メルヒオルは説明らしい説明をリートにほとんどしなかった。
「メルヒオルが話していないなら、わたしからはなにも言えない。今の君には話す必要がないと思ったんだろう」
「ふうん……」
リートはなんだか嫌な予感がした。自分のような人間がなにかに選ばれるなんて、きっとろくでもないことに違いない。なにか面倒なことを押しつけられたり、祭り上げられたりしたらどうしよう。やはりそんなうまい話があるはずなかったのだ。
自分は、ただの落ちこぼれの学生にすぎないのに。
(なにもできないってわかったら、殺されちゃうかも)
ルイスだって、それがわかれば態度を変えるかもしれない。
「ほかには?」
そう促されてリートは迷ったが、駄目元で言ってみることにした。こんなにたくさん、だれかに頼み事をしたのは生まれて初めてだった。
「その、だれか一緒に食事してくれる人が欲しいっていうか――たぶん無理だろうけど」
自分のいた世界では、リートはいつも一人で食事をしていた。学校でも家でも同じだった。それが嫌で嫌でたまらなかった。
級友たちが賑やかに談笑しながら昼食を摂っているのが羨ましかった。そんな境遇がいやであの世界から抜け出したいと思っていたのに、結局こちらの世界でも一人で食事しなければならないなんて拷問だ。
それとも、それがいやだと思う自分のほうがどうかしているのだろうか。べつの人間なら、広い部屋で豪華な食事ができることを喜ぶのだろうか。確かにそれが普通なのかもしれないとリートは思った。幸せな人間はきっとそう思うのだ。
リートがそう一人で結論を出している横で、ルイスは不可解そうな表情を浮かべていた。
「なぜ一人で食事するのがいやなんだ?」
「え……?」
そう言われた途端、リートは突然自分の足元が覚束なくなる現象に見舞われた。
豪華な部屋も、美しい調度品も、手に持った紅茶のカップも、なにもかもが一緒になって自分を責め立てているような気がして、そんな自分をリートは訝った。
どうして自分はこんなに動揺しているのだろう。
たった一つの、こんな単純な質問で。
「それは、だって、寂しいし……」
「わたしは食事のときはいつも一人だ。だが寂しいと思ったことは一度もない」
青い瞳がまっすぐにリートのほうを見た。
「なぜいやだと思うんだ?」
リートはいよいよ返答に困った。
そんなことは考えたこともなかった。あれこれ考えるのは得意なはずなのに、なにも思い浮かばない。
なぜ自分は一人で食事をするのがいやなんだろう?
そんなの、考えるまでもないことじゃないか。当たり前のことだ。でも――。
(……そうじゃないのかもしれない?)
「リート」
リートがはっと気がつくと、すぐそばにルイスが来ていた。心配そうにリートの顔を覗き込んでいる。
「大丈夫か? すまない。君を困らせるつもりはなかったんだが」
「う、うん。大丈夫だよ。僕こそごめん。急に黙ったりして」
「ほかになにか頼みはないか? 訊きたいことでもいい」
そう言われて、リートはこの国の情報をまったく知らないことに気づいた。
「じゃあ、この国について教えてくれる?」
しかし、この質問をしたことを、リートはすぐに後悔するはめになった。
ルイスは束の間考え込む表情になったが、即座に語りだした。
「リヒトガルテンは、今から一千年ほど前に成立した王国だ。リヒトガルテンという国名は、この地が常にリヒトの照らす光で満ちた場所であってほしいという、初代女王アーデルハイト・シュテラ・リヒトガルテンの願いによってつけられた。今の国王の名はマティアス・クレメンス・リヒトガルテン。王都の名はリヒテンシュタット。人口はおよそ八百万人、そのうち王都人口は百五十万人前後、主要言語はリヒタール語、通貨単位はリヒテンマーク。王族、貴族、平民の三つの身分があり――」
「ちょっと待って!」
ルイスの怒涛の説明をリートは慌ててやめさせた。
「知識が欲しいわけじゃないんだ。いや、知識も必要なんだけど、そういうことじゃなくて」
早口でそこまで言ったあと、リートはふと我に返った。
(そういうことじゃなくて、なんだ?)
自分はなにを知りたかったのだろう。
リートが考え込んでいる横で、ルイスがうなずいた。
「そうだな。知識だけあっても仕方ない。自分の目で、王宮の中を直接見て回ったほうがいい。だが、君はまだ部屋から出てはいけないそうだ。混乱をきたすといけないと言うのがおもな理由らしい」
「そうなんだ」
リートは少しがっかりした。この豪華な部屋から外に出られたら、少しは気分も変わるかもしれないのに。
「では、わたしはこれで失礼する。なにかあったらまた呼んでくれ」
「うん、ありがとう」
ルイスを見送ったあと、リートは疲労感を覚えながらソファに仰向けに寝転がった。
高い天井に施された幾何学的な装飾をぼんやりと見つめながら、リートは先ほどの会話を反芻した。
(なぜいやだと思うんだ?)
リートは固く瞼を閉じた。彼の真摯な声が、表情が、態度が、ひどく心をざわつかせた。
(わからないよ、そんなの。嫌なものは嫌なんだ)
リートは自分に言い聞かせるように、そう心の中でつぶやいた。
ただ真面目なだけだと思っていたのに。
リートはルイスのことを急速に、なにか得体の知れないもののように感じはじめていた。
