第2話 出会い

 リートはメルヒオルのあとについて、地上に続くせん階段を上った。
 知りたいことは山ほどあったが、メルヒオルはなにも教えてくれるつもりはないようだった。
 だが、そんなことはどうでもいいと思う自分もいた。あの世界にいなくてすむのならなんでもいい。
 もし現実の自分がこんすい状態で、これがそのときに見ている夢だとしても、なんでも。
 あの世界に一人きりでいるよりは、ここのほうがよほどマシだ。
 そんなことを考えながら、リートは階段を上って地上に出たが、目の前に広がる光景にあっにとられ、それまで考えていたことをすべて忘れてしまった。
 頭上に描かれた巨大な天井画も、壁一面に取り付けられたきらびやかな燭台も、足を取られそうなほど毛足の長いじゅうたんも、すべてが現実だとは思えなかった。
 自分のいた世界の、機能的ではあるが、無機質な人造石コンクリートガラばかりの殺風景な内装とはほど遠い。ここは宮殿かなにかなのだろうか。夢だとしたら、自分の想像力はなかなかのものだ。
 最初、リートは周りの視線を避けようと、メルヒオルの背に隠れるように歩いていたが、建物の壮麗さに目を奪われ、ほかのことはすべて頭から吹き飛んでしまった。四方八方に目をやりながらリートは辺りを観察した。
 階段を上り、ある部屋の前でメルヒオルは立ち止まった。
 メルヒオルが部屋の扉を開け、こちらを向いて微笑んだ。先に入れということらしい。リートはちょっと会釈してから、遠慮がちに部屋に足を踏み入れた。
 部屋に入った瞬間、まるで校長室か社長室みたいだとリートは思った。しかしそれよりずっと趣味が良くて落ち着いている。
 床には複雑な模様の入ったいろの絨毯が敷かれ、窓を背にして執務机が置かれている。壁際には本が立ち並び、少し離れた所には応接用のソファと机が用意されていた。
 ソファに近づいたその瞬間、リートは飛び上がらんばかりに驚いた。
 そこには先客がいた。ソファから人影がさっと立ち上がり、こちらを向く。
 服装から見ても、彼が身分の高い人間であることは、リートにも一目でわかった。
 男は、黒地に金のしゅうの入った詰め襟の宮廷服を身にまとっており、(その色のせいで、ソファと見分けがつかなかったことにリートは一人納得した)痩せていて背が高く、見るからに気難しそうな顔をしていた。
 男はつかつかとリートのほうに歩み寄ると、上から下まで値踏みするように全身を観察した。鼻の下にある整えられた髭が神経質に動く。
 またしても同じ状況に、リートは居たたまれない気持ちになった。自分の服装といえば、白いシャツに黒い長袴ズボンという典型的な学生の格好で、どう見てもこの場にはそぐわなかった。
 男はリートから視線を切ると、メルヒオルのほうを向いた。
「では、予言通りというわけか」
 メルヒオルが朗らかにうなずいた。
「そうだ。ところで、わたしは閣僚たちを集めておくようにと指示したはずだが?」
「わたしがいればじゅうぶんだろう。彼らはそれでなくとも忙しい。不確かなことで仕事を中断させるまでもないと思ったのでね」
 男の居丈高な物言いに、リートは全身がこわるのを感じた。自分は歓迎されていないのだろうか。
 しかし、メルヒオルは特に気分を害した様子も見せず、執務机に置いてある呼び鈴を鳴らした。すると、メルヒオルと同じ法衣を着た秘書らしき男がすぐに現れた。
「お呼びでしょうか」
「ソリン騎士団のルイスを呼んできておくれ」
 秘書はうなずいてその場を離れようとしたが、男がそれを鋭く制した。
「待て、なぜルイスなのだ。ミヒャエルが適任だという話だったではないか」
「そのつもりだったのだけどね。計画を変更しようと思う」
「話が違うぞ。おまえはいつもそうやって横やりを入れて現場の人間を振り回す。実務を任されているこちらの身にもなれ」
 メルヒオルが苦笑する。
「まったくだね、ハインリヒ。いつも申し訳ないと思っているよ。だがこの件は、陛下からわたしに一任されているはずだ。準備もわたしと聖殿担当の官吏たちだけで行った。君たちに頼んでも、忙しくてそんな暇はないと断られたからね」
 メルヒオルが穏やかに言うと、ハインリヒと呼ばれた男は不機嫌そうな顔で押し黙った。
「不服なら、書面にして提出してくれると助かる」
「言われずともそうする」
 言いながら扉のほうに向かうハインリヒにメルヒオルは声をかけた。
「立ち会ってくれないのかい?」
 男は足を止め、いんぎんな口調で告げた。
「遠慮しておく。それでなくとも、これから片づけなければならない仕事が山ほどあるのでね」
「それは残念だ」
 気を悪くした様子もなく、にこやかに笑うメルヒオルに、男は失礼するとだけ告げ、黒い宮廷服を翻すと、重々しい足取りで部屋を出ていった。
 ハインリヒが出ていってしばらくたったあと、扉をノックする音がした。
「入りなさい」
 メルヒオルが声をかけると、扉が静かに開いた。
「失礼します」
 現れたのは、濃紺と白を基調にした詰め襟の騎士服に、膝まである深靴ブーツを履いた長身の青年だった。やや面長の顔に、しい眉。ダークブラウンの短い髪に、瞳は薄い青色で、その意志の強そうなまなざしは、どこか少年のようにも見えた。
 青年はきびきびとした動作でメルヒオルの前に進み出ると、生真面目な口調で告げた。
「お呼びと伺い、参上いたしました」
「リート、彼はソリン騎士団に所属する騎士、ルイス・フォン・ブラウエンシュタイン。今日から君の護衛と世話を担当する。わからないことは彼に訊くといい」
 ルイスと呼ばれた青年がリートの前にひざまずき、恭しく礼をした。
「よろしくお願いします」
「よ、よろしくお願いします……」
 リートはその一言を返すので精一杯だった。向こうの世界で、だれかにこんなふうに挨拶されたことは一度もなかった。
 ルイスがメルヒオルに向き直る。彼の目には若干の戸惑いが見て取れた。
「メルヒオル、今回の事だが」
「ルイス、それについてはあとで話そう」
「……わかった」
 メルヒオルが静かに言うと、ルイスはそれ以上なにも言わなかった。メルヒオルがリートに微笑む。
「疲れているだろう。もう部屋で休むといい」

 リートはルイスを伴って、メルヒオルの部屋をあとにした。
 リートは内心どぎまぎしながら廊下を歩いた。初対面の人間と話すのがリートは苦手だった。いったいなにを話せばいいのか見当もつかない。
 どこまでその人のことを訊いていいのか、訊いたら失礼だと思われないか、迷惑だと思われないか、れしいと思われないか、嫌われて距離を置かれてしまうのではないか。ありとあらゆることを考えすぎて、結局最後は沈黙を選ぶことしかできない。
 そして結局、大人しくて無口な人間だと思われて、だれもリートに話しかけてこなくなってしまう。
 いつもそうだ。いつも失敗する。そして独りになってしまう。
「この部屋です」
 ルイスの言葉でリートは我に返った。いつの間にか部屋の前までたどり着いていたらしい。
 ルイスが扉を開けてくれたので、リートは遠慮がちに部屋に入った。
 室内は目もくらむほどの豪華さだった。部屋の中央には巨大な室内燈シャンデリアが天井からがり、床には毛足の長い絨毯が一面に敷かれている。
 壁際には趣味の良い調度品の数々が並べられ、壁にも凝った装飾が施されている。
 今の自分が住むにはあまりにも場違いで、リートは途方に暮れた。
「では、わたしは控え室にいますので、なにかあればお呼びください」
「あ、あの」
 リートが呼び止めると、下がろうとしていたルイスが振り返り、首をかしげた。
「なにか?」
「い、いや、なんでも」
 そう言いかけたものの、リートは思いきって言ってみることにした。
 とにかく、今までとはなにかを変えたかった。
「敬語はやめてほしいんだけど」
 リートがそう言った瞬間、ルイスの瞳が驚いたようにわずかに揺れた。
 ルイスの反応を見てリートは慌てた。意味もなく手を組んではほどく。
 言ったのはいいものの、そこからどうすればいいのかまるでわからない。
「その、僕は主従関係とかそういうのはよくわからないし、あなたとは普通に話がしたいっていうか、話し相手になってほしいっていうか……」
 しどろもどろでうまく伝えられない自分にリートは恥ずかしくなって、今すぐこの場から消えてしまいたいと思った。
 それがかなわなくてもいいから、せめて今自分の発した言葉すべてをなかったことにしてしまいたい。
 向こうの世界にいたときから、リートは自分の気持ちをうまく他人に伝えることができず、途中で黙り込んでしまうことが多かった。そのせいで、相手は困惑してリートから離れていってしまうのだ。
 しかし目の前の青年は、リートの態度に特に困惑した様子は見せなかった。
 ルイスはしばらく考え込んでいるようだったが、また青い瞳がリートのほうを見た。
「申し訳ありませんが、それはわたしの仕事ではないように思います」
 どうやら彼は、リートに今言われたことを実行するかどうか思案していただけだったらしい。
 リートはほっとしつつも、なぜか期待が外れたような気持ちになって、ルイスから目をらしたまま、慌てて取り繕うように言った。
「そ、そうだよね。ごめん、変なこと言って。もういいよ。一人にしてくれる?」
 ルイスが一礼して去ってしまうと、リートはため息をついて、重い扉を閉めた。
(やっぱり、言っただけじゃなにも変わらないんだ)
 広すぎる部屋に一人残され、リートはしばらくその場に立ち尽くしていた。
 とりあえず寝室で休もうと思ったものの、寝室につながる部屋の扉がどれかわからず、リートは手当たりしだいに扉を開けたり閉めたりを繰り返し、やっとのことで寝室に入ることができた。
 豪華な調度品には目もくれず、リートは一人では大きすぎるてんがい付きの寝台に力なく沈み込んだ。寝台は高級品らしく、自分の世界の宿泊施設に置いてある寝台より何倍も寝心地が良かったが、今のリートにはなんの心の慰めにもならなかったし、むしろ、ここが自分のいた世界とは別の世界だということを改めて思い知らされただけだった。
 宮殿の壮麗さを目の当たりにした高揚感は、とっくの昔に霧散していた。
 違う世界に来たところで、なにも変わらないとリートは思った。
 結局、自分が孤独なのは自分のせいなのだ。