ざわめきが聞こえる。
どんな? 形容しがたいざわめきだ。なにもかも違う。声の高さも話す速度も、そこにはなんの秩序も法則もない。音楽のような美しさはどこにもない。
とりとめのない内容のおしゃべりで埋め尽くされた教室の中で、一人の少年が窒息しそうになっていた。
本に目を落としてはいるものの、頭にはまったく内容が入ってこない。集中しようとすればするほど、周りの音が気になった。
いつの頃からか、少年は本を読むことに集中できなくなっていた。
昔は本を読むのが好きで仕方なかった。
好きな場面の台詞はすべて頭に入っていたし、思い出すのは少年にとって造作もないことだった。それが彼にとって世界のすべてだった。
しかし、今の少年はその世界に価値があるとは思えなくなっていた。本は現実ではなんの役にも立たない。虚構の物語は現実の自分を救ってはくれない。力を与えてはくれない。
少年は耐えきれずに席を立った。自分で選んだわけでもない、ただ便宜上指定されただけの自分の席。しかしそこを離れてしまえば、彼を守るものはなにもなかった。
休み時間で人が溢れた廊下を、少年は足早に歩いた。一人でいるところを見られるのが恥ずかしかった。その恥ずかしいと思う自分すらも嫌でたまらなかった。だが、どうすればいいのか少年にはわからなかった。
(逃げ出したい)
(でもどこに?)
どうすればこの苦しさから抜け出せるのだろう。
少年がそう思ったのと、階段の一段目を踏み外したのはほぼ同時だった。
「あ」
そう思ったときにはすべてが暗転していた。
自分は死んでしまったのだろうか。それでもべつにかまわないと少年は思った。
どうせなにもできないなら、このまま消えてなくなってしまえばいい。
しかし、いつまで経っても予想していた衝撃は訪れなかった。
(理人)
自分の名前を呼ばれ、その少年、理人は瞼を開けた。
だれかが自分を呼んでいる。
でもどこから?
頭の中だろうか。それとも心の中から?
どれも違う気がした。
(だれ?)
理人は無意識に問いかけていた。
姓ではなく、自分の名前を呼ぶ人間はこの学校にいないはずだ。しかしその声は、理人の問いかけに答えるつもりはないようだった。
(ここにいたい?)
いつも、だれになにを訊かれてもはっきりと答えることができなかった。
家族にも、教師にも、同級生にも。だが、これだけはすぐに答えられる。
(いたくない)
(なら行こうよ)
なんだか安心する声だと理人は思った。初めて聞くはずなのに、ずっと昔から知っているような気さえした。
なにも話さなくても、自分のことをわかってくれているような、そんな気がする。
(どこに?)
(ここではないところ)
ここでないならどこでもいいと理人は思った。
この苦しみから逃れられるなら。
だれかの足音が聞こえる。理人は瞼を開けることを拒んだ。
きっとこのまま瞼を開けたら、自分は階段の一番下に死体よろしく寝転がっているのだ。周りには自分を取り囲む生徒たちがいて、上の階からは好奇の視線に晒され、携帯型通信端末で動画や写真を撮られる。どうせそんなところがオチだ。
せめて教師が来るまで意識を失ったままならよかったのに。
もし身体が動くなら、すべてをなかったことにしてこの場を立ち去りたい。何食わぬ顔でまた教室に戻り、自分の席に――そこまで考えてから、理人ははたと気づいた。
(身体が痛くない?)
その事実を認識した途端、理人はぱちりと瞼を開けていた。
しかし、最初に目に入ったのは、学校の無機質な石膏ボードの天井でも、階段の上から自分を見下ろす生徒たちでもなかった。
陶器のように滑らかな肌。限りなく白に近い、淡く光を放つ金色の長い髪。
眉下で切り揃えられた前髪の下にある、長い睫毛に縁取られた薄紫色の瞳が、まばたきもせずにじっとこちらを見つめている。
まるで西洋の陶器人形のようだと理人は思った。
(女の子に見えるけど……そもそも人間なのか?)
なにせ、少女の顔には表情というものがまったくなかった。恐れているのか驚いているのか、はたまた困惑しているのかまるでわからない。
少女は理人のほうをじっと見ながら、何事か囁いた。
「え?」
耳にしたことのない言語に、理人は戸惑った。外国語の授業は得意ではない。
そもそも、自国の言葉でだれかと会話することも難しいのに。
べつに言語野に異常があるわけではないが、理人は話せなかった。人となにを話せばいいのかまるでわからないのだ。
少女は少し沈黙したあと、まだ仰向けに寝たままの状態の理人に近づいた。理人が驚いて声を上げる暇もなく、少女がゆっくり自分に覆い被さってくる。
理人は慌てたが、身体は金縛りに遭っているかのように動かなかった。
これは夢なのだろうか。だとしたら自分はかなり最低だと理人は思った。深層心理下で自分が考えていることが、よりによってこういうことだなんて。
そんな邪な願望を抱いたことは一度もないはずだったのに。
(いや、一度もないはさすがに言いすぎかも……)
しかし、理人の予想に反して、少女は母親が子どもの熱を測るときのように、理人の額に自分の額をくっつけた。
(じっとして)
理人は思わず自分の頭を押さえた。驚いたことに耳を通さず、直接脳内に少女の声が響いてくるようだった。
どういう仕組みなのかまったくわからない。
(なにも考えないで)
まるで自分の思考を読んだかのような少女の言葉に、理人はどきりとした。
(ただ自分の声に耳を傾けて)
声? リートは訝しげな気持ちだった。それはどういう意味だろう?
しかし、返事は帰ってこなかった。理人はどうすべきか迷ったが、少女の言葉にただ従うことにした。瞼をぎゅっと閉じて暗闇を見つめる。
しかし、実行するのは難しかった。なにも考えないようにしようと思っても、頭が勝手にいろいろなことを考えてしまう。
そのままの体勢で、時間だけが過ぎた。
「?-$_#」
別の人間の声が割り込んできたのは、その時だった。
意味はわからなかったが、その声を聞いて理人ははっと我に返った。
少女が理人から離れ、台の上から飛び降りる。理人も身を起こし、少女の姿を目で追った。
理人と少女の前に現れたのは、白く長い法衣のような衣装を着た痩身の男だった。五十代半ばに見えるが、態度は若々しく、老いたところがまるで見られない。
堂々とした態度、知性を湛えたグレーの瞳。これで白い髪と髭が生えていれば、幻想小説に出てくる賢者か魔法使いそのものだったが、男の髪と髭は褐色だった。
男は理人の顔を見ると、すぐに少女のほうに顔を向けた。
「%=$_=+@!/?」
男の短い問いかけに、少女がうなずく。
するとなぜか、男と少女は揃ってじっと理人のほうを見た。
二人から視線を向けられて、理人はたじろいだ。悪目立ちすることはあっても、だれかに注目されるなどかつてないことだ。
理人が居心地の悪さに耐えかねていると、少女が男のほうを見た。
「メルヒオル様、彼は言葉がわかりません」
少女の言葉だけは、理人の頭の中で意味を持って伝わってきていた。
しかし、それを聞いても賢者か魔法使いのようなこの男は、いっさい動じることがなかった。
「?-$_#、+&?#%#%@.*」
男が何事か命じると、少女はうなずいて奥に続く部屋に姿を消した。
そのあいだに、理人は周りを観察した。
理人がいるのは、弓型の装飾が連なってできたドーム型の部屋だった。立ち並ぶ弓
型の柱には、明かりを灯すための燭台がかけられている。
理人の世界でこれに一番近い建物は教会だが、長椅子はどこにも置かれていなかった。しかし、宗教的な場所には間違いなさそうだ。
聖殿。その時唐突に思い浮かんだ言葉に、そうだそれだと理人は思った。ここは聖殿だ。見たのは映画や本の中だけで、実際に行ったことはないけれど。
ここからはわからないが、おそらくどこか奥の部屋に祭壇があって、聖体が安置されているのだろう。
そして理人はといえば、部屋の中央にある台の上に寝かされていた。
しばらくすると、少女が再び姿を現した。両手に盆を捧げ持っている。盆の上には小さな木箱が載っていた。
少女が男に盆を差し出すと、男は慎重な手つきで木箱を手に取り、蓋を開けた。中には、周りが金で縁取られた青色の小さな丸い石が二つ並んでいた。石の中には金色の八芒星が嵌め込んである。まるで羅針盤のようだと、理人は思った。
「?-$_#、=@#&%$#/+$#%?@」
また声がして、理人が男のほうを見ると、男は細く長い棒状の金属でできた道具を手にしていた。先端は竹を斜めに切ったように鋭く尖っている。
その道具を目にした瞬間、理人は男がなにをしようとしているのかわかって慌てたが、少女の手が理人の両肩に触れると、まるで身体全体が凍りついたように動かなくなった。
男の手が理人の耳に触れ、理人は固く瞼を閉じた。
しかし、予想していた痛みは訪れなかった。それどころか、
「わたしの言葉が理解できるかな?」
いきなり耳に飛び込んできた自国の言葉に、理人は面食らった。
「どうして」
理人が思わず口に出して言うと、男が満足げにうなずいた。彼もまた、理人の言葉を理解しているらしい。
「そのピアスは言語に関係なく、着けた人間の発した言葉と、聞いた言葉を翻訳する力があるんだ」
まだ呆然としている理人にそう説明すると、男が不意に微笑んだ。
「ようこそ、リヒトガルテンへ」
そう言われても、理人はなんと言えばいいのかまるでわからなかった。
「あの、僕は――」
「心配しなくていい、君が来ることはわかっていたからね」
困惑する理人をよそに男はまた微笑んだ。
「君はリヒトに選ばれた人間だ。だれも君に危害を加えることはしない」
「リヒト……?」
意味がわからず、理人はその言葉を繰り返した。
それが自分の名前でないことだけは確かなようだった。
「この世界の真実だよ。……ただひとつのね」
理人がそれはどういう意味か訊ねる前に、男がまた口を開いた。
「わたしはメルヒオル・フォン・ヴァイスハウプト。この国の聖職者で最高顧問だ。彼女はユーリエ。この国のヴォルヴァだ」
ユーリエと呼ばれた少女が、無言で理人に頭を下げた。
「君の名前は?」
問われて理人は答えるのをためらった。
しかし、名なしでいるわけにもいかない。
「……理人」
名乗りながら、今更これを言うのは馬鹿みたいだと理人は思った。
「そうか。では、これから君のことはリートと呼ぼう。この国では君を本名で呼ぶのは差し障りがある」
「あの、僕は――」
我慢できずに理人は口を挟んだが、メルヒオルは残念ながら聞いていなかった。
「これからよろしく、リート」
そう言って手を差し出すメルヒオルに、理人はなんと返していいかわからず、困惑するしかなかった。
リート。それが自分の名前だと言われても、べつに自分の中でなにかが変わるわけではない。しかし、なぜかそのことを不愉快だとは思わなかった。
