ライナスと来たときよりも、聖殿への入り口は警備が厳しくなっていた。
事前に申請しなければ、部外者はいっさい入れないようになったらしい。
そんなことをしても意味がないのではないかという気持ちを、リートは抑えられなかった。今回のように、突然大人数で襲撃されてはひとたまりもない。
地下へと続く螺旋階段を下りながら、ルイスが口を開く。
「エヴェリーンの結界に入っていれば、全員助かったんだが」
ルイスの言葉にリートは首を傾げた。
「エヴェリーンの結界?」
「祈り場の入り口に施してある結界だ。エヴェリーンの結界は、人に危害を加えようと企む人間の侵入を許さない。賊が境界に入れば気絶していた」
ここにいれば安全だと言っていたライナスの言葉をリートは思い出した。
「だからここはほかの場所より警備が手薄なんだ。だが、まさかユーリエ以外の人間にまで危害を加えようとする者がいるとは思わなかった」
聖殿はすっかり元通りの状態になっていた。ここで最近襲撃があったと言っても、だれも信じないだろう。
「エヴェリーンっていうのは、ヴォルヴァなの?」
ルイスがうなずく。
「そうだ。今から」
「今から百年ほど前にいた、リヒトの声を聞くことができたという伝説のヴォルヴァだよ」
答えたのはメルヒオルだった。傍らには秘書が控えている。
「ほかのヴォルヴァとは桁違いの力を行使することができたらしい。その証拠に、エヴェリーンが施した聖殿の結界はまだ生きている」
「生きている?」
意味がわからず、リートは首を傾げた。
「普通のヴォルヴァが施した結界は、死ぬと同時に消えてしまうんだ。だが、エヴェリーンの術は死してなおこの世界に残り続けている」
そう言ってからメルヒオルはリートのほうを見た。
「君が着けているピアスもエヴェリーンが作ったものだ」
「これが?」
リートは驚いてピアスに触れた。
「エヴェリーンが作った道具で現存しているのはそれだけだから、大事にね」
メルヒオルがさらりと告げた事実に、リートは固まった。そんな大切なものを、自分はなにも知らずに身につけていたらしい。自分のいた世界の金額に換算すると幾らくらいになるのか、リートは考えないことにした。
「今日はどうしてここに来たんだい?」
「ライナスと、ほかの亡くなった人に花束を供えに」
そう言ってリートは両手に抱えた花束に目を落とした。侍女に頼んで用意してもらったのだ。
「それから、ユーリエと話をしたくて」
祈り場に入ると、リートはすぐにユーリエの姿を見つけた。
ユーリエは襲撃があったあの日と同じように、祭壇の前に坐り、祈りを捧げていた。
「ユーリエ。リートが来たよ」
メルヒオルが声をかけると、ユーリエが立ち上がった。
ユーリエが無言でリートに歩み寄ると(やはり今回も挨拶の類いはなかった)、ユーリエはいきなりリートの負傷した頬に手を翳した。すると、そこがまるで手で触れられたように一瞬温かくなり、すっと消えた。リートは患部に当てていた布を外し、恐る恐る頬に触れてみると、傷は完全に塞がっていた。
「ありがとう。君は傷も治せるんだね」
どうりで、あの時メルヒオルが耳に穴を開けても痛くなかったはずだ。
「べつに感謝されるようなことではありませんが……」
祈り場の中で二人は対峙していた(祈り場の中では、結界の効果で外に声が漏れることもない、とメルヒオルが教えてくれた)。
「あの時、どうして逃げなかったの」
リートの問いに、ユーリエはいつもの無表情のまま答えた。
「なぜ逃げなければならないのですか?」
「だって、そうしないと君は死んでいた」
「それはリヒトが決めることですから。もしわたしが死ぬときは、それがわたしの運命なのでしょうから、抵抗せず受け入れます」
ユーリエの淡々とした物言いに、リートはなぜか無性に腹が立った。
「君は、だれかが自分のせいで傷ついても平気なの? 僕らを守ろうとしてライナスは」
そう言った途端、ライナスが死んだときのことを思い出して、リートはまた胸が痛んだ。
それでもユーリエは表情を変えなかった。
「悲しんでも仕方のないことですから。わたしにできることは、死者を悼み弔うことだけです」
リートは複雑な気持ちだった。確かにルイスの祈りには救われた気がした。
しかし、ライナスを失った悲しみがそれですべて癒えるわけではない。
彼はもう戻ってこない。
「……祈りなんて、役に立たない」
リートが思わずそう漏らすと、ユーリエがじっとリートのほうを見つめた。
「なに?」
不愉快な気持ちにさせたのだろうかと、リートは不安になった。
だが、ユーリエの表情は相変わらず動かなかった。
「いいえ、なんでもありません」
これ以上話しても、リートは平行線だと思った。そもそも自分は、なぜユーリエと話したいと思ったのだろう。ユーリエになにを期待していたのだろう。
「もう行くよ。仕事の途中だったのに、邪魔してごめん」
リートはそう言って会話を打ち切り、祈り場をあとにした。
ユーリエは去っていくリートの後ろ姿をぼんやりと見つめていた。薄紫色の瞳が伏せられ、翳る。
「……どうして?」
そうつぶやいたユーリエの声は結界に阻まれ、リートには届かなかった。
結界をくぐって外に出ると、ルイスが近づいてきた。
「話はできたか?」
リートは黙って首を振った。
「ただの八つ当たりだよ。ライナスを失って、悲しくて、その気持ちをユーリエにぶつけただけだ」
リートは手を握りしめた。
「僕は、嫌なやつだ」
ルイスがリートの手を掴む。リートの握りしめた手に、彼は上から自分の手をそっと重ねた。
「リート。君がそんなことをする人間には見えない。本当はなにがあったんだ?」
リートはルイスに話して聞かせた。ユーリエとなにを話したのか、あの日、本当はなにがあったのかを。
「そうか。君はユーリエを助けようとしたんだな」
リートはうなずいた。
「僕が結界から出たのが悪かったんだ。ライナスは動くなって言ったのに」
「悪いのはライナスを殺した人間だ。君が自分を責める必要はどこにもない。だれも悪くない」
ルイスを見ながら、リートはふとつぶやいていた。
「ユーリエは、どうしてあんなに他人に無関心なんだろう」
リートにはなぜかそれが悲しかった。お礼を言われても感謝されることではないと言うし、リートになにを言われても、いっさい表情を変えることがない。
「それはユーリエの問題だ。君が一人で解決できる問題じゃない」
「うん……そうだよね」
べつに助けてくれと言われたわけではない。わかっている。でも、本当に助けが必要な人間ほど助けを求めないものだと、リートは知っていた。
「でも、このままなのはなんだかいやだよ」
「リートがそう思うなら、なにかできることはあるかもしれない」
「そうかな」
ルイスがうなずいた。
「きっと。そのためにはまず、君自身が元気でいなければ」
「……うん。そうだよね」
ルイスの言うとおりだ、とリートは思った。自分が不安定なままではどうにもならない。
今度ユーリエに会ったら謝ろうと、リートは心に決めた。
「ルイス」
背後から声をかけられ、リートは振り向いた。
そこにいたのは、ルイスと同じ歳の頃の金髪の青年だった。ルイスと同じく、ソリン騎士団の制服を着ている。
「クラウス」
ルイスが名を呼ぶと、青年は笑みを深くした。整った顔立ちをしているが、どことなく斜に構えた目つきで、口元には皮肉っぽい笑みが浮かんでいる。
「なぜおまえがここに」
「聞いていないのか? メルヒオルからソリンに要請があったんだよ。聖殿の警備には近衛騎士とソリンの騎士の合同で当たれと」
クラウスは小馬鹿にしたような口調でそう言うと、隣にいたリートに視線を移した。
「せっかくの機会だ、わたしにも挨拶させてくれ」
クラウスはそう言うと、リートの前でお辞儀した。
「ソリン騎士団のクラウス・フォン・キルヒハインと申します。お見知りおきを」
見かけとは裏腹に彼の動作は優美で滑らかだった。リートも挨拶を返すと、クラウスはまた笑みを浮かべてルイスのほうを見た。
「ライナスのことは残念だったな、ルイス」
そのどこか人を見下したような言い方に、リートは身体が強張るのを感じた。
「だがわたしに言わせれば不思議でもなんでもない。昔からわたしは、おまえのような人間を崇拝するなんてどうかしてると思っていた。そうすれば案の定だ。あいつは男のくせに、鍛錬して手柄を立てようともせず、甲斐甲斐しくおまえの世話を焼いてべったり横に張りついて――もしかして、そういう関係だったのか?」
せせら笑うクラウスを、ルイスは険しい目つきで睨んだ。
「ライナスを侮辱するな」
ただならぬ雰囲気にリートは慌ててルイスの腕を掴んだ。
「やめてよ、ルイス」
「止めるな、リート。わたしは話をしているだけだ」
駄目だって、とリートはルイスの腕を掴んで引っ張った。二人の様子を見ていたクラウスがさも可笑しそうにくっくと笑う。
「守る相手に庇われていては世話ないな、ルイス。だがこれでわかっただろう。周到な敵の前には、勇敢さなど役に立たないと。しばらくは大人しくしていることだな」
そう言うとクラウスは笑みを消し、ルイスに顔を近づけた。
彼の目には、はっきりと軽蔑の色があった。
「おまえなど、メルヒオルの贔屓で選ばれたにすぎない。これ以上失態を繰り返す前にさっさと辞めろ。これ以上ソリンの名を汚されては困る」
ルイスは反論しようと口を開いたが、その前に鋭い声が飛んできた。
「なにを騒いでいる!」
「……傲慢な騎士に呪いあれ」
クラウスはそう言い捨て、嘲笑うような目つきでルイスを一瞥してから去っていった。
急いでこちらに向かってきたのは、壮年の男だった。彼もルイスやクラウスと同じ騎士服を着ていたが、袖と襟に付いている線の数が二人よりも多かった。
きっと二人の上官なのだろうと、リートは思った。
男はルイスの顔を見るなり、うんざりした表情になった。
「またおまえか、ルイス。おまえの優秀さは知っているが、普段の態度はなんとかならないのか」
「申し訳ありません、ロベルト様」
男の苦言にルイスが静かに頭を下げた。
「気に入らないからといちいち反論していては身がもたないぞ。少しは躱し方を覚えろ」
「死んだ同僚を貶められて黙っていることなどできません」
「だとしてもだ」
ルイスの反論をロベルトはあっさりと退けた。その言い方には、まるで死者への敬意が感じられなかった。
「王宮では特にそういう矜持は役に立たない。ソリンの名誉のためにも、余計な揉め事は起こすなよ」
ルイスは反論したげな顔をしていたが、渋々承知しました、と頭を下げた。
しかし、問題はそれでは終わらなかった。
それはリートがルイスを伴って部屋に戻った直後のことだった。ドアがノックされたかと思うと、リートが返事をする前に勢いよくドアが開いた。
入ってきたのは、どこか尊大な雰囲気を漂わせた男だった。着ているものからして貴族の従者だ。男の礼を欠いた態度にルイスが眉をひそめて立ち上がる。
「なんだ?」
従者はルイスの前に進み出ると、慇懃な物腰で紙片を差し出した。
「これをルイス様にお渡しするようにと」
ルイスは従者に礼を言って紙片を受け取ったが、書かれている内容に目を走らせたかと思うと、すぐに懐にしまい込んだ。
「クラウスからだ」
リートの視線に気づいたルイスが説明した。
「自分の言ったことが気に入らないなら、剣で決着をつけようと」
「いつ?」
「今夜の十二時に、近衛騎士の訓練場で」
リートは少々呆れた。
クラウスは、どこまでもルイスを貶めなければ気がすまないらしい。決闘で決着をつけるなんて、リートにしてみれば時代錯誤も甚だしかった。
「行かないよね?」
「いや、行かなければ」
リートは驚いてルイスを見た。
「駄目だよ、彼はあなたを嵌めたいだけだ」
「だとしてもわたしは行く。逃げるのは卑怯者のすることだ」
リートは今しがたのクラウスの言動を思い出した。確かに彼なら、ルイスが勝負から逃げた卑怯者だと言い触らしかねない。
「でも、そんなの一時のことじゃないか。それでなにを言われたって、向こうが悪いことには変わりないんだし」
そんなことのために危ない橋を渡るなんて、どう考えても馬鹿げている。
しかし、ルイスはうなずかなかった。
「他人がどう思うかは関係ない。クラウスはライナスを貶めた。黙っているわけにはいかない」
そんなの理由になってない。
そう言おうとしたものの、リートは口を噤んだ。
「夜中に出歩いていいの?」
「仕事と緊急時以外の夜間の外出は事前の届けが必要だ。だが仕方がない。これは緊急の用事だ」
そんな無茶苦茶な。リートはルイスの言い分に呆れた。
今まで知らなかったルイスの一面に、リートは愕然とした気持ちだった。真面目で誠実な彼にも欠点は存在したらしい。
考えてみれば、まだ王宮の外に出てはいけないのに、ルイスは真夜中にリートを外に連れ出したし、リートが頼めば敬語を使うのもやめた。
彼はたとえ規則を破ることになっても、それが最善の判断だと思えば、自分の意思を優先させる人間なのだ。
他人の名誉のためにわざわざ挑発に乗るなんて、リートにしてみれば馬鹿げているし、愚かで格好悪い。それにもしこのことが発覚すれば、ただでは済まないに違いない。だがリートが反対しているのは、他人にどう思われるかというのがおもな理由だった。ルイスはそれで自分が不利な立場に追い込まれるとしても、そのことをなんとも思っていない。
なぜ彼は、そこまで他人のために必死になれるのだろう。
「だからって、相手の挑発に乗る必要なんかないよ」
「向こうの思惑はどうでも、わたしはそうする。気に入らないものは気に入らない。それだけだ」
リートは内心舌打ちしたい気分だった。
その上、彼はかなりの頑固者だ。一度こうと決めたら、よほどのことがないかぎり動かないに違いない。
「いやだよ。あなたが行くって言うなら、絶対僕もついていくからね」
リートがいつになく強い調子でそう言った。
こう言えば、さすがにルイスも思いとどまるはずだ。
しかし、リートの思惑とは裏腹に、ルイスはなぜか深く感じ入った顔つきでリートをじっと見た。その瞳の真摯さは、リートが思わず息をするのを忘れるほどだった。沈黙のあと、青に金が散った瞳がふっと閉じられ、また開く。
「リート。君の気持ちは嬉しい。だがこれはわたしとクラウスの問題だ。君を巻き込むわけにはいかない」
「そうじゃないって、ルイス――」
リートは慌てて誤解を解こうと口を開いたが、ルイスはもう聞いていなかった。
決意を固めてしまったらしいルイスを見ながら、リートは彼の短所の一覧表に、人の話を聞かないことと、思い込みが激しいというのも追加しておかなければと、がっくりしながら思った。
