第26話 交錯する思惑

(……やっぱり来なければよかった)
 リートは会場に到着してから後悔した。
 大広間は人でごった返していて、人々の談笑する声が絶え間なくリートの耳に響いてくる。それに、こちらの様子をちらちら窺われている気配がして、リートは居心地が悪かった。
 やっぱり、この格好は変なのかもしれない。
 今のリートは、シャツの上に胴着を合わせ、上着を羽織っていた。服の着方はリートのいた世界の三つ揃えの背広と同じだが、形がまるで違っていた。上着は前側の丈が短く詰まっていて、後ろの丈は鳥の尾のように長いもので、リートのいた世界でいうえんふくのような形をしていた。色も黒だけではなく、さまざまな色や柄があって、ぼたんの数も多い。
 下は長袴ズボンにいつもの膝まである深靴ブーツではなく、革靴だった。
 しかし、リートが一番閉口したのは、首に巻いた襟飾りだった(結び方はよくわからなかったので、ルイスにやってもらった)。
 おしゃれのために、なぜわざわざ喉を絞めつける必要があるのかリートには理解できなかった。
 向こうの世界で背広を着て、社交的な場に出るのは、きっとこんな感じなのだろう。
 しかし、どう考えても自分は場違いだ。そう思ってリートは落ち込んだ。
 ルイスを促し、人のあいだをすり抜け、広間の壁に置いてある椅子に腰掛けると、リートはほっと息を吐いた。
「もうお疲れかな?」
 見知った声が頭上から声が降ってきて、リートは弾かれたように顔を上げた。
「ミヒャエル」
 リートが名前を呼ぶと、ミヒャエルがいつもの穏やかな微笑を浮かべた。
 黒い上着に白の長袴ズボンという礼装姿で、髪を整えたミヒャエルは、リートの目には普段の三割増しで格好よく映って見えた。
 ミヒャエルが呆れた顔でルイスを見る。
「少しは愛想良くしたらどうだ、ルイス。おまえがそんな仏頂面で立っているから、だれもリートに近寄れないだろう」
 隣にいるルイスといえば、ライナスの葬儀のときと同じ上下白の礼服を着ていたが、それ以外は普段とほとんど変わらない。今度は女性たちのミヒャエルへの視線がこちらに集中しはじめていたが、ルイスはその視線も囁きもまったく感じていないようで、リートは彼の鈍感さがうらやましかった。
「いいよ、ミヒャエル。僕にとってはそのほうが都合がいいし」
 リートがそう言うと、ミヒャエルが器用に片眉を上げた。
「おや、そう消極的なことではいけないな」
「え、ちょっとミヒャエル」
 そう言うや否や、ルイスが止める間もなく、ミヒャエルはリートの肩を掴んで中央に引っ張っていった。
「ここなら会場の様子がよくわかるだろう?」
(それを言うなら、見世物になるには絶好の位置だの間違いだよ)
 リートはそう言い返したかったが、反論する気力はすでに残っていなかった。
 ミヒャエルが顔を近づけ、リートの耳元で囁く。
「どうせ挨拶するなら、よく思われていたほうがいい。わざわざ無礼に振る舞って不興を買う必要もないだろう?」
 べつにわざと無礼に振る舞っているわけではないのだが、とリートは思ったが言えなかった。自分では普通に振る舞っているつもりなのに、気がつくとなぜか自分はいつも一人なのだ。
 ミヒャエルがリートを安心させるような笑みを浮かべてみせる。
「そんなに心配しなくていい。ほとんどの人間には本物の笑顔と作り笑いの区別などつかない。笑っていることが重要なんだ」
「う、うん……」
 リートがうなずいたちょうどその時、一人の男性が近づいてきた。男性の髪型や着こなしはなにもかもが洗練されていて、リートは恥ずかしくて逃げ出したくなった。自分と同じような格好をしていても、服というのは着る人間によってこれほどまでに違うらしい。
「こんばんは、シェーンドルフ卿」
「ご無沙汰しています、ローゼンベルク卿」
 男性が上品に微笑みながら挨拶すると、ミヒャエルも同じように笑みを返した。
 リートはじりじりと二人から遠ざかろうとしたが、ミヒャエルに上着の裾をつかまれて引き戻されてしまい、上着の後ろの丈が長いことを心の中で呪った。
「最近はわたしの屋敷にもめっきり顔を見せてくださっていないようで、寂しいことです」
 遠回しないやだ。リートはそう思ったが、ミヒャエルは動揺を見せず微笑んだ。
「申し訳ありません。このところ仕事が立て込んでいまして」
「学生の頃から社交界で注目の的だったあなたが、今ではハーナルで仕事漬けの毎日とはね。人生とはわからないものだ。わからないといえば、王女と婚約なさるとも思わなかったが」
「さすがお耳が早いですね。ですがまだ内々の話ですので、触れ回るのはご遠慮願いたいのですが」
 ミヒャエルは笑顔を浮かべたままさりげなくけんせいしたが、ローゼンベルク卿は特に気にした様子もなく、リートのほうをちらりと見てから言葉を続けた。
「当初の予定通り、あなたが天啓者の世話をすることになったのですかな。ひともんちゃくあったようなので心配していたのだが」
「いえ、わたしはただの話し相手の一人にすぎません。ヴァイスハウプト卿の決定は覆せませんよ」
 ミヒャエルの応対を見ながらリートは感心していた。こんな面倒な相手でも怒らずに対応できるだなんて。向こうの世界では、作り笑いをしたり、愛想笑いをしたりするのは自分を偽るようでいやだったが、苦手な相手にはこんな対応でいいのかもしれない。きっと、全方位にいい顔をしようとするから疲れてしまっていたのだ。
 ローゼンベルク卿が去っていったあとで、リートはミヒャエルに話しかけた。
「ミヒャエルはすごいね。僕にはとてもできそうにないよ」
「十代の頃からやっているからな。慣れもするさ。だが、今のは手本にはさわしくなかったな」
 そう言って眉をひそめたミヒャエルに、リートは首を傾げた。
「どうして?」
 しかし、ミヒャエルの答えを聞くことはかなわなかった。ルイスがリートの前に立ちはだかり、ミヒャエルに険しい視線を向ける。
「ミヒャエル、リートを勝手に連れていくな。リートは人が大勢いる所が苦手なんだぞ」
 ミヒャエルが肩を竦める。
「これも社会勉強だ。どうせ成人すれば、いやでもそういう機会が向こうからやって来る。なら今のうちに慣らしておかなければ」
 リートは、また言い合いをはじめた二人を無視して周囲を観察していたが、不意に痩せて背の高い男の姿を見つけて声をあげた。
「あ、あの人だよ。メルヒオルの部屋で出会った人」
 男はいつもの宮廷服ではなく、上下黒の詰め襟の礼服に、右肩から左腰に赤いたいじゅを着けていた。
「ハインリヒ・フォン・シュヴァルツバッハ卿だ。宰相になられてからもうすぐ三年になる」
 ルイスが説明すると、すかさずミヒャエルが口を挟んだ。
「隣にいるのはエーヴァルト・フォン・ブロスフェルト卿。閣僚の一人で、ハーナルの監督官を務めている。と言っても、声が大きいくらいしか取り柄がないが。ちなみにその横にいるのは大臣秘書のディートリヒ。大学でわたしの同期だった男だ」
 ミヒャエルの視線の先には、ハインリヒとは対照的に小柄で太った男と、茶髪に痩身の青年が立っていた。
「あの人は?」
 リートが視線で示したのは、大勢の貴族に囲まれた七十代くらいの老年の男だった。 髪もひげも見事に白い。左肩から青い大綬を着け、胸にはおびただしい数の勲章が付いている。
「ニコラウス・フォン・ローテンキルヒェン卿だ。彼は神聖派の盟主だ」
 ルイスがそう言うと、続けてミヒャエルが口を開く。
「彼が無能なせいで神聖派の勢力は後退し、王権派の台頭を招いた」
「ニコラウス様は学者として優れた方だ。論文を幾つも発表しているし、あの方なしでは宗教学は発展しなかった。それに、ニコラウス様は貧困対策に力を入れていて、平民からも支持されている立派な貴族だ」
 そこまで言ってから、ルイスはミヒャエルを睨んだ。
「さっきからなんなんだ、おまえは」
「おまえの通り一遍等の説明では、リートがどう接していいかわからないだろう。情報は有益でなくてはな」
「おまえの説明は一方的すぎる。客観性に欠けていては、それこそリートが困るだろう」
「二人とも同じくらい参考になったよ」
 ルイスとミヒャエルの下からリートが声を張り上げると、やっと二人は言い合うのをやめた。二人とも背が高いので、リートはずっと上を向いて話さなければならず、そのことにうんざりしていた。
 二人の会話を聞いてわかったのは、ルイスは議員の経歴や政策についての知識はあるが、ミヒャエルと違って政略的なことにはほとんど関心がないということだ。
「ほんと、ミヒャエルはルイスのことを怒らせるのが好きだよね」
 リートが呆れながら言うと、ミヒャエルが楽しそうに笑った。
「だって面白いだろう?」
「わたしで遊ぶな。そういう人間はミリィだけでじゅうぶんだ」
「遊ばれている自覚はあったんだな。おっと、噂をすればだ」
 ミヒャエルの視線の先を辿たどると、ちょうど王族たちが入室してくるところだった。
 マティアスを先頭に、ペトロネラとエミリアが席に着く。
 エミリアの姿を見たリートは、えっけんの間で会ったときと同じくらい驚いた。
 当然のことながらドレスの裾は短くないし、深靴ブーツも履いていない。夜会用の青緑色のドレスに身を包み、髪を結い上げたエミリアはいつもと別人に見えた。
 リートたちの姿を見つけたエミリアがこちらに近寄ってきた。
 ミヒャエルが優雅な仕草で礼をすると、エミリアも膝を折ってそれに応えた。
「今夜は、あなた以外の人間はわたしの目に入らないようだ」
 ミヒャエルがそう感想を漏らすと、エミリアがふふっと笑った。
「それはよかった。気合いを入れた甲斐かいがあったわ。数々の女性とつき合ってこられたシェーンドルフ卿のお眼鏡にかなうといいのだけど」
 嫌味を隠す気のないエミリアに、ミヒャエルが苦笑する。
「むかしむかしのことさ」
「あなたの妹に少年姫って言われているのも知ってるわよ。あら、御機嫌よう、ガブリエレ」
 ちょうどこちらに近づいてきたガブリエレにエミリアが声をかけた。
 ガブリエレはさん色のドレスの裾を両手で摘まみ、優雅な仕草で膝を折った。
 型どおりの挨拶が終わると、ガブリエレはエミリアに歩み寄り、彼女の格好を値踏みするようにずいっと上から下まで眺めた。
「今日はまともな格好をしていらっしゃるようで、安心いたしました」
 いきなりの先制口撃にリートはぎょっとしたが、エミリアはにこやかな笑みを絶やさなかった。
「あなたのお兄様に恥をかかせてはいけないと思ってね」
「当然です。兄はいつも完璧ですから」
 ガブリエレはさらりと言うと、エミリアを小馬鹿にしたような目つきで見た。
「普段からそうなさってはいかがですか。自分はほかの女とは違うなんて思ってらっしゃるようですけど、未だに深靴ブーツを履くなんて幼稚な行動でしか自分を表現できないようですし」
「べつにそんな大それたことは思ってないわ。機能性重視なだけよ」
 エミリアはガブリエレの嫌味をあっさり受け流し、にこりと笑った。
「それに、好きな格好をすることが幼稚なら、わたしは幼稚で結構よ」
 ガブリエレがあわれむような目つきになる。
「あなたにはなにを言っても仕方ないようですね」
「あら、今頃気づいたの? そういう仕方のない人なの、わたし」
 リートは二人の応酬をひやひやしながら見守っていたが、ルイスもミヒャエルも慣れているのか、止める気配すら見せなかった。彼女たちのあいだではいつものことらしい。
「ではわたくしはこれで。御機嫌よう」
 ガブリエレが礼をしてリートたちから離れると、さっきからこちらの様子を窺っていた若い男性貴族たちがあっという間にガブリエレを取り囲んだ。
「いつものことながら申し訳ない」
 苦笑しながら謝罪するミヒャエルに、エミリアがおうように笑う。
「あら、いいのよ。だってあの子の王子様を取ってしまったのが少年姫じゃね。嫌味の一つも言いたくなるわ」
 一つどころか連発していた気がしたが、とリートは内心で突っ込んだ。あそこまで言われても怒らないなんて、エミリアは父親のマティアス同様寛容だ。
「では、そろそろ参りましょうか、殿下」
 ミヒャエルが洗練された動きでエミリアに手を差し出す。彼の仕草はどこにもがなく、どこにも文句のつけようがなかった。
 エミリアの空色の瞳が勝ち気に光り、差し出された手にそっと自分の手を重ねる。 その様子はお姫様というよりは、まるで決闘の申し出を受ける戦士のようだった。
「……お手柔らかに頼むわ、王子様」
 二人が踊る様子をリートはじっと観察していた。二人はホールで踊っているどのペアよりも動きが段違いに洗練されていたので、見失う心配はまるでなかった。
 エミリアがつまずいて体勢を崩しそうになったが、ミヒャエルは流れるような動作で彼女の身体を支え、まるで何事もなかったかのようにまた踊りだした。
 その様子はあまりに自然で、注意して見ていなかった人間はなにが起こったか気づかなかったに違いないとリートは思った。
 曲が終わると、二人は聴衆の拍手を浴びながら四方にお辞儀した。
 リートも拍手していると、ルイスが耳打ちした。
「リート、そろそろ行こう。ルーツィアが着いた」
 リートはうなずき、椅子から立ち上がった。