第64話 最後の告白

 ミヒャエルが案内した先はバルコニーだった。ミヒャエルが人払いしたらしく、そこにはだれもいなかった。
「どうしたんだ? わざわざわたしに用なんて」
 開け放たれていた窓を閉めながら、ミヒャエルがそう言った。
「ちょっと気になることがあって」
 言いながらリートは、こうしてミヒャエルと二人きりで話すのが、彼が早朝に自分の部屋を訪れた日以来だということを思い出していた。しかし、あの時とは立場が逆だった。
「ルーツィアのことなんだ」
 リートがそう切り出すと、ミヒャエルは一瞬顔を強張らせ、横を向いた。
「……そのことについて君と話すことはない」
 思いがけないミヒャエルの反応に、リートは戸惑った。
「それ、どういう意味?」
「君はわたしを疑っていたんじゃないのか? わたしがルーツィアを殺すと」
「……だからずっと王宮に来なかったの?」
「もちろん違う。わたしには彼女を殺す動機がない」
 言い逃れできないと思ったのか、ミヒャエルはため息をついて話しだした。
「ルーツィアはわたしの恋人だったんだ。だが昔の話だ。二人ともまだ精神的に幼かったし、なにも知らない子どもだった。彼女はルイスを選んだ。もう終わったことだ。彼女はわたしがいると気まずいだろうから、王宮に行くのは避けていた。それだけのことだ」
 話が予期せぬ方向に進んでいることに、リートは混乱していた。
 まさか、ルーツィアがミヒャエルとつき合っていたなんて。
 確かに挨拶をしたときの二人の姿は絵になっていたし、ルーツィアはミヒャエルのことをよく知っていた。だがそれとこれとは関係ないはずだ。
 いや、もしそうではないのだとしたら?
 アルベリヒのところに行ってから、ずっとミヒャエルは様子がおかしかった。
 ミヒャエルはまだリートにすべてを語っていない。
 ミヒャエルが怪訝そうな顔でリートを見た。
「知らなかったのか? ならなぜルーツィアのことを」
 知りたい気持ちを抑え、リートはそうじゃないと自分をしっした。
 今言わなければならないのは、ひとつの事実だけだ。
「ルーツィアの部屋にベギールデの教典があった」
 リートがそう告げると、ミヒャエルが息をんだ。
「まさか」
「本当なんだ。ミヒャエル、ルーツィアに話を聞いて。もしルーツィアがベギールデに利用されてるなら、早くしないと手遅れになる。アルベリヒが言いたかったのは、あなたがルーツィアを逮捕しなきゃいけなくなるってことなのかも」
 ミヒャエルはしばらく葛藤している様子だったが目を伏せ、うなずいた。
「……わかった」
 リートとミヒャエルが会場に戻ると、エミリアが二人のほうを振り向いた。
 しかしルイスとルーツィアの姿がどこにもない。
「ミリィ様、ルイスとルーツィアは?」
 エミリアが当惑した顔になる。
「さあ、外に行ったみたいだけど……」
 突如、嫌な予感がリートの全感覚を襲った。
 不安で今にもつぶされそうになる思考を必死に制御して、リートはなんとか冷静に考えを巡らせようとした。
 なぜ彼女は今夜、リートたちに知らせようとしたのだろう。
 さりげなく伝えるなら、いくらでも機会はあった。
 考えすぎかもしれない。だがもう戻れないところまで来ているのだとしたら。
 早くしなければ間に合わない。
 リートは衝動のままに駆け出していた。

「リート!」
 エミリアが声をかけたが、リートはもう走りだしていた。
 トリスタンがエミリアを見る。
「追いかけますか?」
「ええ、頼むわ」
 トリスタンがあとを追って走りだす。
「もう、今日のリートはいったいどうしちゃったの?」
 言いながら、エミリアはミヒャエルのほうを振り返ったが、彼の顔色の悪さを見て一瞬言葉を失った。
「ミヒャエル、どうしたの?」
「なんでもない」
「なんでもないって顔じゃないわ。本当に大丈夫?」
 エミリアはミヒャエルの青ざめた顔をのぞんだが、ミヒャエルは顔を背けた。
「……すまない」
 ミヒャエルはそれだけ言うと、エミリアをその場に置いて走りだした。
「ミヒャエル!」
 エミリアは追いかけようとしたが、人にぶつかってよろけ、床に膝をついた。
 周りにいた人間たちが慌てて気遣うように駆け寄ってくるが、エミリアはうつむいたまま顔を上げようとしなかった。
「……どうしてなの?」
 エミリアの口からこぼちたのは、普段の彼女にまるで似つかわしくない、すすくような声だった。
 しかしその声はだれにも届くことなく、華やかな宴の喧騒にされた。

 その頃、ルイスとルーツィアは庭園を歩いていた。
 不意にルーツィアが立ち止まり、空を見上げた。
「今夜は、月がよく見えますね」
 ルイスは周囲を警戒しながら、月の光に照らされたルーツィアの横顔を見た。
 その様子はひどくはかなげで、目を離した瞬間そのまま消えてしまいそうだった。
(ルーツィアから目を離さないで)
 そう囁いたリートの声がよみがえる。
 なぜそんなことを突然言い出したのか、ルイスはリートの心情を測りかねていた。彼はほとんど感情が表に出ない。しかも普段は大人しいのに、今夜のように突然行動的になるときがある。
 リートのことは、未だによくわからない。
「ルーツィア、話というのは……」
「あの時も、こんな夜でしたね」
 まるでルイスの言葉が聞こえなかったかのように、ルーツィアは話しはじめた。
「あの時?」
「エミリア様に呼ばれて、ルイス様と初めて夜会に出たときのことです」
 その時のことを思い出して、ルイスは微笑んでいた。
「ああ、あの時は驚いたな。ミリィに呼び出されて部屋に行ったら、そこにいたのが君で、いきなり夜会に出ろと言われて……」
 ルーツィアが静かに微笑み返す。
「あの時のことは、もともとはライナス様がわたくしたちを心配して企んだことだったんですよ」
 ルイスは目をしばたたかせた。
「そうだったのか? てっきりミリィの悪巧みだと思っていた」
 答えながら、ルイスはルーツィアの意図がわからず首を傾げた。
「だが、なぜ今その話を?」
「……ルイス様。あなたに出会った頃のわたくしは、この世界のなにもかもを信じることができなくて、怖くてたまらなかった。でもあなたは、わたくしに信じてほしいとは一度もおっしゃらなかった。そのことがわたくしはうれしかった。あなたはいつもわたくしを信じてくれた。でも、わたくしはそんなあなたに甘えすぎた」
 そこでルーツィアは言葉を切り、ルイスを見つめた。
「ルイス様。婚約は解消していただけませんか」
 ルイスは目を見開いた。
「なぜだ、ルーツィア。どうして急に」
 考えるより先に、ルイスは衝動的に口を開いていた。
「わたしが愛しているのは君だけだ。わたしは君を愛してる」
 ルーツィアが悲しげにうつむく。
「知っています。あなたはわたくしを愛してくれた。わたくしに安らぎをくれた。でも、駄目なんです。何度も忘れようとしました。でもできなかった」
 ルーツィアが苦しげな顔で首を振り、言葉を続ける。
「だれかを思うという気持ちは、時には自分でさえ制御できなくなるほど強いものです。だから苦しくて苦しくてたまらなくなる。心がどうしようもなく相手を求めてしまう。理由もなく会いたくなってしまう。相手の一挙手一投足に舞い上がったり、傷ついたり、悩んだりする。自分以外の異性と仲良くしていると嫉妬するし、不機嫌になる。でも一緒にいるだけで心が安らぐ。ほかにはなにもいらないと思う。その人のためならなんでもできる気がする。自分でも愚かだと思います。でも、そんな気持ちを、わたくしは捨てられない。それがわたくしにとって、たったひとつの愛です」
 ルーツィアがなにを言っているのかわからず、ルイスは無意識に首を振っていた。かすれた声が口から漏れる。
「それは、わたしが知ってる愛じゃない。愛はもっと崇高で、けがれのない感情のはずだ」
 ルーツィアはなにも答えなかった。
 その代わりとでもいうように、ルーツィアはドレスの下に隠し持っていた短剣を取り出すと、その切っ先をまっすぐルイスに向けた。
「……お別れです。ルイス様」

 リートとミヒャエルはユーリエの部屋の前にいた。そばにはトリスタンもいる。
「ユーリエ!」
 リートは扉を何度もノックしながら名前を呼んだ。無作法なのはわかっていたが、今はかまっていられなかった。
 すぐに扉が開き、ユーリエが姿を見せた。
 突然現れた二人に驚きながらも、ユーリエは二人を部屋の中へ通した。
「今、ルイスたちがどこにいるかわかる?」
 リートは息を切らしながら言った。
「教えて。緊急なんだ」
 リートの様子が尋常ではないことを感じ取ったのか、ユーリエはなにも聞かずすぐに瞼を閉じた。
「……迷路庭園のすぐそばにいらっしゃいます。でも、様子が変です。周りに武器を持った人が何人も」
 ベギールデだ。リートはそう直感した。
「ユーリエ、君も一緒に来て!」
 ユーリエが一瞬戸惑ったように瞳を揺らしたが、小さくうなずいた。
「リート! 待て!」
 ミヒャエルの制止も聞かず、リートはユーリエの手を取ると、そのまま駆け出していた。トリスタンが二人のあとを追いかけようとしたが、ミヒャエルはその腕を掴んだ。トリスタンが不審な顔になる。
「ミヒャエル?」
「リートはわたしが追いかける。あなたはエミリアについていてくれ」
「しかし――」
「……頼む」
 ミヒャエルはそれだけ言ってから、庭園の方角に走りだした。