ルイスは泣かない人だ。
エミリアはそう思っていた。
一般的に、男性は人前では泣かない。
だがおそらく彼は、子どもの頃から今までだれかが見ている前で泣いたことがない。
エミリアには、なぜかそんな確信があった。
しかし、自分は一度だけ見たことがある。
正確に言えば、見てしまったのだ。
あれは、まだルイスと知り合って間もない頃のことだった。二人で剣術の稽古をしていたとき、ルイスが熱を出して倒れたのだ。運び込まれた医務室の寝台で、ルイスは眠りながら泣いていた。
あの時から、エミリアはルイスを守りたいと思うようになった。その気持ちは、自分は女として生きていかなければならないのだという事実を受け入れてからも変わらなかった。
どうしてあの頃は、それができると無邪気に信じられたのだろうとエミリアは思った。今は彼に近づくことが怖くて仕方なかった。剣術で攻撃を仕掛けるときのように、一歩踏み込む勇気を、エミリアはどうしても持てなかった。
トリスタンを入り口で待たせ、エミリアは王宮の敷地内にある礼拝堂に足を踏み入れた。早朝の礼拝堂には、ルイス以外の人間はだれもいなかった。
四芒星のペンダントを握り、瞼を閉じて祈るルイスの横顔を見つめながら、エミリアは目を細めた。
ルイスの居住まいや所作は、いつも凛としていて美しい。彼が祈る姿を見るだけで、エミリアはざわめいていた心が静謐で満ちていく気がした。
昔から、彼は変わらない。
だがそれは、彼にとって良いことだったのだろうか。
「ルイス」
エミリアが声をかけると、彼の青に金の虹彩が散った瞳がエミリアを見上げた。
「一緒に祈ってもいい?」
「……ああ」
ルイスはそう言うと、また前を向いた。
エミリアはルイスの腰掛けている長椅子とは反対側の長椅子に腰掛けた。
「もう復帰して平気なの?」
「休んでばかりもいられないだろう。君がリートに余計なことを言わないか監視しないといけないからな」
「なによ、それ」
冗談なのか真面目に言っているのかわからないルイスの言葉に、エミリアは思わず口元を上げていた。しかしすぐに笑みを消し、じっとルイスの横顔を見つめた。
言わなければ。これを言うために、自分はここに来たのだ。
「ルイス。ルーツィアのことは、わたしだって無関係とは言えない。ルーツィアの元気がなくなったのは、ミヒャエルとわたしが婚約してからだった。そのせいでルーツィアは追い詰められたのよ」
「君のせいじゃない。彼女を殺したのはベギールデだ」
即座に返された言葉に、エミリアは一瞬寂しい気持ちになった。
彼はいつも、自分にはなにも背負わせてくれないし、関わらせてくれない。だが、そういう関係になることを忌避し続けてきたのは、ほかでもないエミリア自身だった。そんな関係でいるほうが、エミリアにとっては楽だった。
この気持ちを伝えたところで、ルイスとの関係はなにも変わらない。しかし、恋愛感情とはまったく関係ないところで、エミリアはルイスに踏み込む勇気が持てなかった。だから自分はいつも、彼に近づけない。
エミリアは、ルイスのほうをまっすぐに見た。
「それを言うならあなたのせいでもないわよ、ルイス。あなたはなにも知らなかったんだから」
エミリアは本心からそう言ったが、ルイスは苦く笑っただけだった。
「知らなかった、か。それが一番こたえるな」
「言えなかったのよ。あなたにだけは知られたくなかったの」
「どうして」
「なにもかも壊れてしまうから。どうせ壊れてしまうなら、彼女は自分で壊すことを選んだ。あなたを守るために。……わたしの勝手な憶測だけど」
エミリアはそう思っていた。ルーツィアはルイスの心に傷をつけたくなかったのだ。
ほかの人間になら打ち明けたかもしれない。だが彼はあまりにも正しくてまっすぐで、傷つけることを人にためらわせる。
ルーツィアのような、他人の好意に甘えることを厭う人間ほど、良心の呵責に苦しむことになる。だから、ルーツィアはなにも言わなかったのだ。
結局それは、ルイスを傷つける最悪の選択でしかなかった。
ルイスはエミリアの言葉を黙って聞いていたが、不意にうつむいた。
白い手袋を嵌めた手を組み合わせ、祈るように瞼を閉じる。
「だとしても、それはわたしが望んだことじゃない。守られたくなんかなかった。わたしが守りたかったんだ」
「ルイス」
エミリアは言葉を続けようとしたが、その前にルイスは椅子から立ち上がっていた。去っていく後ろ姿を、エミリアはただ見送ることしかできなかった。
エミリアが王宮に戻ると、そこには人だかりができていた。
トリスタンが眉をひそめる。
「なんでしょうか?」
人だかりの中心で、二人の男女が言い争っていた。それはガブリエレとアルフォンスだった。
「いいかげんにしろ、ガブリエレ。ここをどこだと思ってるんだ」
いつも澄ました態度のアルフォンスが、今は苦り切った顔でガブリエレの前に立ちはだかっていた。
「いやよ。会うまで絶対に帰らない」
ガブリエレはそう言って、アルフォンスを睨みつけた。
「わたくしは王女に用があるのよ。関係のない人間は全員ひっこんでいてちょうだい。わたくしはシェーンドルフ家の令嬢なのよ!」
秀麗な顔に敵意を浮かべて凄むガブリエレは、主人を守るために周りを威嚇する高貴な猫のようだった。
「罰ならいくらでも受けるわ。それくらいの覚悟がなくて、こんなことをするものですか」
「勇ましいわね、ガブリエレ」
エミリアはそう声をかけ、二人の前に進み出た。彼らを取り巻いていた人垣がたちまち割れ、エミリアに礼をする。
エミリアの姿に気づいたアルフォンスも慌ててその場に跪いた。
「わたしになにか用?」
そう言い終えた瞬間、エミリアは頬を打たれていた。衝撃で一瞬遠のいた意識の片隅で、今のはかなり効いたと、エミリアはどこか他人事のように思った。
今まで対戦してきたどの男性たちより、ガブリエレは容赦がなかった。
「王女!」
トリスタンがエミリアに走り寄るのと同時に、アルフォンスは慌ててガブリエレの身体を抑えた。
「どうしてお兄様を救ってくれないの。あなた婚約者でしょう!」
普段の上品な物言いをかなぐり捨て、ガブリエレが叫んだ。
ミヒャエルと同じグレーの瞳がエミリアを睨みつける。
「できるものなら、わたくしが救ってあげたい。でもできないの。だから頼んでいるのに。王女のくせに。やろうと思えばなんだってできるくせに!」
ガブリエレはその場に崩れ落ちるように膝をつき、エミリアを見上げた。さっきまで怒りに満ちていた瞳は、今度は涙に濡れていた。
「お願い。お兄様を愛してあげて」
エミリアはガブリエレを見下ろしながら、つぶやくように言った。
「……できないわ」
自分でも冷淡だと思う声だった。
残酷なことを言っているのはわかっていた。
だが、そういうことを言えてしまうからこそ、自分は自分なのだとエミリアは思った。自分を貫くとは結局、そういうことなのだ。
「本当はあなたもわかっているでしょう。わたしが愛しても、ミヒャエルが救われることはない。ほかのだれでも同じことよ」
ガブリエレが流れる涙を拭いもせず、エミリアを見上げた。
「……あなたなんて大嫌いよ」
「そう。でもわたしは好きよ。あなたのそういう、ミヒャエルのために一生懸命なところ」
「あなたに言われたって、なにも嬉しくありません」
ガブリエレは立ち上がり、アルフォンスの拘束を振り払った。
「いいかげん放してよ、アルフォンス。一人で帰れるわ」
そう言い捨ててドレスの裾を捌き、しゃんと背筋を伸ばして去っていくガブリエレのあとを、アルフォンスが慌てて追いかける。
冷やすものを用意するように慌ただしく命じるレーネの声を聞きながら、エミリアはそれができるだけ時間のかかるものであることを願った。
この頬の痛みだけが、エミリアの胸の裡に巣くう罪悪感を軽くしてくれるようだった。
