「……やめろ」
気に入らない。
たかが一介の貴族が、王女である自分に命令するなんて。
鋭くこちらを睨んでいる少年と対峙しながら、エミリアはそう思った。
エミリアは背中を踏みつけていた足を芝生の上に下ろした。
その瞬間、クラウスは負傷した身体を庇いながら、一目散に逃げていった。
いつものことながら、逃げ足だけは速い。きっとご自慢の叔父に告げ口しに行くのだろう。
男のくせにみっともない。
そう思いながら、エミリアは一つ鼻を鳴らした。
クラウスはいつもそうだ。悔しいなら反撃してみればいいのに、そうはせず、泣いてばかりいる。
普段はほかの行儀見習いたちに居丈高に振る舞っているくせに。
だが、今はそんなことはどうでもいい。
エミリアは、自分の楽しみを邪魔した少年をじっと観察した。
まず思ったのは、自分より背が低いということだった。
それから短いダークブラウンの髪に、薄い青色の瞳。
なんてことはない。金髪碧眼よりは少ないが、ありふれた組み合わせだ。
しかしこの少年の顔つきは、エミリアが今まで見てきた貴族の少年たちとはなにかが違っていた。
意志の強そうな凛々しい眉、固く引き結ばれた口元。そして、まっすぐに自分を見つめてくる瞳。
少年がまた口を開く。
「君はだれだ?」
まだ声変わり前の高い声だった。
エミリアは少年の問いにすぐには応えず、警戒しながら少年を見つめた。
どうやら、この少年はまだ自分の正体に気づいていないらしい。
それもそのはずだとエミリは思った。今の自分は、白いシャツの上に胴着を重ねて襟飾りをつけ、長袴の上から深靴を履いていた。髪は束ねて後ろでひとつに結んである。そして手には、訓練用の刃を潰した剣。
べつに男になりたいわけではないが、こちらのほうが動きやすいので、エミリアは普段からこの格好をしていた。
母や侍女たちにはドレスを着ろと何度も説得されたが、エミリアが頑として着ないので、今ではエミリアの格好を見てもだれもなにも言わなくなってしまった。
あなたからも言って聞かせてくださいと、母は事ある毎に父に注進していたが、父はうるさく言わずに放っておけば、そのうち飽きるだろうと楽観しているようで、厳しく注意されたことは一度もなかった。
この国の最高権力者である父がなにも言わないのだから、今ではエミリアの格好を咎める人間は王宮には存在しなくなっていた。
「あなたこそだれ? 先に名乗りなさいよ」
「……ルイスだ」
家名は名乗らず、少年はそれだけ答えた。
「わたしはミリィ」
エミリアはとっさにそう言った。本名を言えば、王女であることに気づかれてしまう。それはいやだった。
「わたしになにか用?」
エミリアがそう言うと、ルイスが表情を険しくした。
「さっき虐めていただろう。そういうことはやめろ」
エミリアは思わず失笑した。
そんなことを真正面から言う人間がいるなんて。
やめろと言われて素直に従う性格なら、なにもかもとっくにやめている。
鼻を鳴らすのも、長袴や深靴を履くのも、剣を持つのも。
「あなた、正義の味方かなにかのつもり?」
エミリアがからかうように言うと、ルイスが眉根に皺を寄せた。
「どうして正義の話になるんだ。正義は闇雲に振りかざすものではないと、教典にも書いてある。わたしは人を困らせるのはやめろと言っているだけだ」
「本気で言ってるんだ」
「当たり前だろう」
エミリアはわざと鼻を鳴らして笑った。
女だからといって、王女だからといって、お淑やかにはしない。
する理由などどこにもない。
「仕方ないじゃない。彼が弱いのが悪いのよ。その上、男のくせに鈍臭いし泣き虫だし。なのに自分の叔父が閣僚だからって、自分の手柄みたいに自慢してるのよ。格好悪いったらないわ。だからからかって遊んでるの。面白いし」
エミリアの言い分に、ルイスが眉を上げる。
「要するに、君が気に入らないということか」
「まあ、そうね」
「……わたしと勝負しろ」
突然ルイスがそう言った。
「わたしが君に勝ったら、もう虐めるのはやめろ」
エミリアは顔をしかめた。
「はあ? なんでわたしがそんなことをしなきゃいけないの」
「君が気に入らないからだ」
ルイスはさも当然という顔で言い放った。
「君は彼を気に入らないという理由で虐めた。つまり君とわたしは同じだ」
エミリアはまじまじとルイスを見た。
「……あなた、馬鹿なの?」
ルイスが少し考え込むようになったあと、首を傾げた。
「それはわからない。わたしは学校に行ったことがないから、試験の答案を採点されたことがないんだ。だが今まで勉強で困ったことはない」
エミリアは困惑した。
大抵の人間なら、真正面から悪口を言われれば怒るはずだ。
だがルイスはそう取らず、言葉のとおり純粋に、自分の頭の出来を訊ねられたのだと思ったらしい。いや、それともこれは彼なりの嫌味で、馬鹿にされているのは自分のほうなのだろうか。
……なんなんだろう、彼は。調子が狂う。
「そういう意味じゃなくて……ああもう。いいわよ。受けて立とうじゃない。見たところあなた、わたしよりチビだし軽そうだけど」
エミリアは挑発するようにそう言った。
これで少しは顔をしかめるはずだ。
しかし、エミリアの予想に反してルイスは冷静な表情を崩さなかった。
「……関係ない」
「ふうん」
エミリアはそう言いながら、クラウスが使っていた訓練用の剣をルイスの足元に投げた。
「トリスタン、審判をやって」
二人を離れたところから見ていた騎士のトリスタンが近寄ってきて、エミリアに頭を下げた。
「承知しました」
ルイスが剣を拾い上げ、二、三度振ったあと、こちらを向いて構える。
なかなか隙のない構えだとエミリアは思った。きちんと訓練は受けているらしい。きっと彼にも師がいるのだろう。
エミリアは無意識に口元を上げていた。
面白い。少しは楽しませてくれるといいのだが。
「やっぱり馬鹿じゃないの、あなた」
勝負は一分もかからず決着がついた。
当然だとエミリアは思った。
ルイスはエミリアの実力を侮っていた。先手を取られて動揺したところに連続攻撃を浴びせ、剣を弾き飛ばして終わり。
あまりに呆気なさすぎた。
エミリアはまだ地面に膝をついているルイスに近寄った。
「弱いくせに戦うなんて、なにを考えてるの? 無謀なのは勇気でもなんでもないって師匠に教わらなかった? 威勢がいいのは口だけなんて笑える」
それだけ一気に言ってから、エミリアはルイスの反応を待った。
これだけ言えば、さすがの彼も悔しがるはずだ。
そしてクラウスのように自分を憎々しげに見つめ、怯えるようになるのだ。
しかし、ここでもルイスはエミリアの予想を裏切った。
「……君の言うとおりだ」
「は?」
ルイスは立ち上がり、面食らっているエミリアを見た。
「君は強いな」
負けたにも関わらず、ルイスの表情はどこまでも晴れやかだった。
「決めたぞ。君に勝つまでわたしは勝負し続ける」
「なにを勝手に決めて」
「君はいつもここにいるのか?」
「人の話を聞きなさいよ。わたしはやるなんて一言も言ってない」
「なら頼む。わたしと勝負してほしい」
あっさりと放たれた言葉に、エミリアはしばし言葉を失った。
この少年は自分に断られる可能性を考えていないのだろうか。
なぜ不安そうにしないのだろう。
なぜこんなにも素直に、人になにかを頼めるのだろう。
ほかの人間にこんな態度を取られたら、エミリアは怒って話を打ち切っていただろう。だがなぜか、エミリアはルイスの態度を無礼だとも、不愉快だとも思わなかった。
「来週ならいいわよ。場所はここじゃなくて、あっちの湖のほうでやりましょ」
エミリアがそう言うと、ルイスの表情がぱっと明るくなった。
「本当か? 来週だな。約束だぞ、ミリィ」
約束。そんなものを、エミリアは自分と年齢の変わらない人間と交わしたことはなかった。
いつも自分は命令する側で、傅かれる側だった。
「……ええ、約束」
エミリアがそう言うと、ルイスが嬉しそうに笑った。
「ありがとう。君のおかげでまた強くなれそうだ」
ルイスの笑顔を目の当たりにした瞬間、なぜかエミリアはルイスから目を離せなくなっていた。
なぜちょっと目を細めて笑っただけなのに、こんなにも眩しく感じるのだろう。
今日の自分は変だ。
そしてずるいという気持ちがこみ上げてくる。いくら鍛えても、自分は絶対にこんなに格好良く笑えない。
格好いい? エミリアは自分の思考を疑った。
そんなことがあるはずがない。彼は自分に負けたのだ。
負けたくせに格好いいなんて、ありえない。
傍らにいたトリスタンが、ルイスに聞こえないように囁く。
「王女、そろそろ戻りましょう」
「わかったわ」
「……トリスタン」
王宮に戻る道すがら、エミリアは口を開いた。
「なんでしょう」
「彼のこと知ってる? ルイスって言ってたけど」
トリスタンが即座にうなずく。
「もちろん存じています。名門ブラウエンシュタイン家の遺児で、今はメルヒオル様が引き取って養育しているのだとか。今度新しく行儀見習いになったそうですよ」
「ふうん」
エミリアは気のない返事をして、先ほどのルイスの態度を思い出した。
訳がわからない。
あんな自分本位に話をする同世代の人間を、エミリアは見たことがなかった。
「男の子ってみんな馬鹿なの? 女の子を演るのもいやだけど、男の子になるのも微妙ね」
エミリアがそうぼやくように言うと、トリスタンが咎めるような視線を向けた。
「王女、それは性別の問題ではありませんよ。個人の人格の問題です」
エミリアはそっぽを向いた。
「クラウスはいやなやつでしょ」
「否定はしませんが、いやなやつだから虐めてもいいことにはなりませんよ」
そう言うと、トリスタンは立ち止まり、真剣な表情でエミリアを見つめた。
「わたしはあなたにそんなことをさせるために、剣術を教えたわけではありません。あなたがあなたらしく生きるために必要だと思ったからお教えしたのです」
「……わかってるわよ。お説教はやめて」
エミリアは不機嫌な声で言うと、そこで話を終わらせた。
トリスタンはこうやっていつも自分の態度を批判してくるが、エミリアは気にしたことがなかった。
結局、彼に自分を止める権利はないのだから。
(やめろ)
ルイスの声がふとよみがえる。
彼は真っ向から自分にそう言い放った。
(約束だぞ)
そう言って嬉しそうに笑った彼――そこでエミリアは顔をしかめた。
それは思い出さなくていい。
「でも、もしかしたらやめるかも。別の暇のつぶし方を見つけたから」
そう言いながら、エミリアはこれからのことを考えた。
彼はきっと家に帰ってから、すぐさま練習するに違いない。
来週までに、トリスタンともっと練習して鍛えておかなければ。
技術的には未熟でも彼は男だ。今は身長が低くても、そのうちあっという間に追い越されてしまうかもしれない。
負けるわけにはいかない。
少なくとも、今はまだ。
歩きながら、エミリアはそう自分に言い聞かせた。
「ルイス」
名前を呼ばれ、ルイスが振り返ると、こちらに歩み寄ってくる後見人の姿があった。
「メルヒオル」
ルイスが駆け寄ると、白い法衣を着たメルヒオルが、心配そうな表情でルイスの前に屈み込んだ。
「どこに行っていたんだ。急にいなくなるから心配したんだよ」
「すまない。あなたを待っていたんだが、外でなにか騒ぎになっているようだったから」
そう、ルイスは行儀見習いとして出仕するために、王宮にやって来たのだった。
リヒトガルテンでは、名家出身の貴族は十二歳くらいになると、王宮や指定の官庁で、侍従や官吏たちに混じって数年働くのだ。
今日はその初日だったのだが、王に謁見する前にメルヒオルが秘書に呼ばれてしまい、ルイスは廊下で一人で待っていた。すると、少年たちの姿が窓から見えたのだ。
「でも、すごい人を見つけたんだ」
ルイスは勢い込んでそう言った。
「女性なのにとても強いんだ。自分はミリィだと言っていたが」
ルイスがそう言うと、メルヒオルの傍らにいた秘書がぎょっとした顔になったが、メルヒオルは柔和に微笑んだ。
「そうか」
「また戦う約束をしたんだ」
「それはよかったね」
「ああ!」
まだ興奮冷めやらないルイスの横で、秘書がメルヒオルに囁く。
「よろしいのですか、メルヒオル様。ルイス様が会った方というのは」
メルヒオルがくすくす笑う。
「面白いから放っておこう。陛下にはわたしから話をしておくよ」
「しかし」
「大丈夫、いずれ気づくさ」
そんな会話をしている大人たちには目もくれず、ルイスは頭の中で今後の計画を立てていた。
とりあえず、もっと練習しなくては話にならない。それからアルフレートに稽古時間を伸ばしてもらうように頼まなければ。
「ルイス、そろそろ行こう。陛下をこれ以上お待たせするわけにはいかないからね」
「ああ」
メルヒオルに促され、ルイスはうなずいた。
次は絶対に油断しない。
今は敵わなくても、いつか必ず勝ってみせる。
ルイスはそう決意を固めると、宮殿に向かって歩きだした。
(おわり)
