扉を叩く音がして、男は茶器を用意する手を止め、玄関に向かった。
扉を開け、目の前に立っている人物に微笑みかける。
「そろそろ来る頃だと思っていたんだ」
男の視線の先に立っていたのは、ジーンだった。
「今回の仕事も無事完了、かな」
出された紅茶を飲みながら、ジーンが頷く。
「はい。ほかの管理者たちは、複雑なようですが」
「やれやれ……この件でわたしは恩赦になってもいいくらいの働きをしたと思うけれどね。じゃないとこの世界は彼女の力のせいで、ずっと同じ時間を繰り返すところだったんだよ?」
実はジーンたちは、あらかじめ巫女の宣託を聞いていたので、メグのせいで時間が繰り返してしまうことを知っていた。
それに備えてジーンは、この男にずっとメグを尾行させて打開策を練っていた。
彼はメグの影響を受けないほどの強大な力を持っているから。
「それは残念ながらまだ無理です。ほかの管理者たちは、あなたの力を恐れていますから。それに半分はあなたの責任でもある。本当なら瞬は――いや、あなたの子供は、こちらの世界でメグと出会う予定だったのですから」
男が肩を竦めてみせる。
「本当にね。因果なことだよ。こんな形で自分のしたことの報いを受けることになるなんて」
「あなたは管理者が記憶を修正する前に、瞬の母親の記憶を弄ってしまった。二重に記憶を書き換えれば、人格に影響が出る蓋然性が高くなる。だから管理者たちは手が出せなかった。そんなことをしたから、あなたは追放されたんです」
呆れた顔で言うジーンに、男がほがらかな笑みを向ける。
「君たちがやったら、わたしの過ちはすべてなかったことにされただろう? そうなるのが嫌だったんだよ。わたしは罪を背負っていたかったんだ」
「……それはあなたの自己満足にすぎないのでは?」
ジーンの非難とも取れる質問にも、男は相変わらず微笑んだままだった。
「そうかもしれないね。でもこれで管理者たちも、そろそろ認める気になるかと思ったんだけど」
「なにをです?」
「愛には――人が人を想う気持ちには、計り知れない力があるってこと」
ジーンがため息をつく。
「この世界に叛逆しようなどと考えるのは、あなたくらいです」
「わたしは馬鹿な人間だからね。でも、彼女がわたしと同じ目に遭わなくてよかったよ。君はずっとそのために動いていたんだろう?」
そう言って、男は意味ありげに笑ってみせた。
しかし、ジーンはその問いには答えず、じっと男を見つめた。
「……まだ記憶を消す気にはならないのですか?」
男がふっと口元を上げ、首を振る。
「ならないね。記憶を消したとしても、わたしの犯した罪は消えない。それなら、わたしはずっと二人を愛し続けたいんだ。そうしているかぎり、たとえアイオーンに認められなくても、憲法や条約で権利を保障されなくても、わたしはずっと自由でいられるから」
そこで男は言葉を切ると、そっと目を伏せた。
「二人を失ってから、わたしはやっとそのことに気づいた。でも彼はわたしより賢い。失う前にちゃんと気づいた」
「それはあなたのおかげでは?」
男がやんわり首を振る。
「いいや、彼の実力だよ」
「……シュンに、あなたの正体を打ち明ける気は」
ジーンがためらいがちに訊ねると、男は困ったように微笑んだ。
「それじゃ罰にならないだろう?」
ジーンはしばらく男を戸惑った顔で見つめていたが、やがて諦めたように息を吐いてから立ち上がった。
「では、わたしはこれで」
「ああ。問題が起きたらまた呼んでくれ。その時はどこにでも行くよ」
男の言葉にジーンは頷くと、玄関から姿を消した。
男は扉を閉め、しばらく無言でその場に佇んでいたが、ふっと笑って目を細めた。
「……君は大丈夫だよ、瞬」
メグの家に住む許可が下りたのは、数日後のことだった。
その日はメグの友人たちが集まって、庭でパーティーをしてくれた。
演奏家に画家に造園家。だれも彼もが自分の専門分野の話しかしなかったが、彼らの話を聞いているのは面白かったし、聞いているだけでいたく感動されてしまった。
メグによると、いつもは各々が好き勝手に喋りたいことを喋っていて、人の話はたいして聞いていないらしい。それでも彼らが悪い人間ではないことは、話を聞いていればよくわかった。いかに自分の好きなことに、情熱を傾けているのかということも。
ジーンがやって来たのは、パーティーが終わり、シュンとメグが庭で後片づけをしているときだった。
「わたしの個人的な興味ではなく、業務上必要だから訊くのだが、子供は作るつもりなのか?」
話があるというから、なにかと思えばそんなことで、シュンは拍子抜けした。
「……作るよ。彼女が絶対欲しいって言ってるから、叶えてあげたいし」
父親なのに、半年しか子供の面倒を見られないのは心苦しいが、この世界では育児を手伝ってくれる人間はたくさんいるから、そこまで心配はしていない。
むしろ、自分の住んでいる国で育てるほうが大変だ。
大人たちは、子供をまるで大切にしていない。だからメグもジーンも、記憶を消してこの世界にやって来ることを選んだのだ。
「そっちとしては、複雑なんだろうけど」
「問題ない。方針を変更した。わたしはメグの子供を可愛がれればそれでいい」
「……あのな、いくら借りがあるからって、その子の父親は俺だからな。あんたじゃないからな」
「君が半年いないあいだ、代わりに保護者になる人間が必要だろう。それにわたしは父親役より叔父役がいい」
そんなことを平然と言うジーンに、シュンは頭を抱えた。
嫉妬心や独占欲が一切なければ、こういう発想が可能になるらしい。自分には到底無理だとシュンは思った。
「わたしがいることが心配か?」
「いや。むしろ感謝してる。メグのためとはいえ、俺を助けてくれて。俺があんたの立場だったら、とっくに一発殴ってから記憶を消して、向こうに送り返してるよ。俺の父親が書いた小説だって渡さない」
「君が知らないのは平等ではないと思っただけだ。君の人生を変えてしまったのは、我々管理者なのだから」
シュンは肩を竦めた。
「真面目だな。あんたが直接判断したわけじゃないんだから、責任なんて取らなくてもいいと思うけど……もともと悪いのは俺の父親だし」
「わたしたちは、君に父親の居所を教えることはできない。もし会いたいと思っているなら――」
シュンは首を振った。
「いいんだ、もう。俺の人生は俺のものだし。親は関係ない。過去がどうでも、これから先は、自分で新しく作っていけるって信じてるから」
シュンはそう言ってから、ジーンを見た。
「……わかってよかったよ」
「なにがだ?」
「俺は父さんがどう思ってるかは関係なく、未だに父さんが好きなんだってこと」
なぜ彼にそんなことを言っているのか、自分でもよくわからなかった。
でも仕方ない。それが今の自分の正直な気持ちなのだから。
「……そうか」
その時、先に家の中に入っていたメグが玄関から顔を覗かせた。
「お話、終わった?」
「メグ、これを君に」
ジーンが手の中に出現させたのは、銀色のブレスレットだった。
「力を抑える道具だ。知り合いに頼んで開発してもらっていたんだ。気休めだが、ないよりはいいだろう」
「ありがとう、ジーン」
「当然だ。わたしは君を愛しているからな、メグ」
「……俺のいる前でそういうこと言う?」
思わずシュンがそう突っこむと、ジーンが鼻を鳴らした。
「わたしの崇高な愛を、おまえの愛と一緒にするな」
「どうせ俺の愛は欲望まみれだよ」
シュンが拗ねた口調で言うと、メグが横から口を挟んだ。
「そんなことないわ。ここに来るまでわたしたちは一度もしたことがなかったし、するようになっても、シュンは一度もわたしが嫌がるようなことはしていないもの」
その場に沈黙が流れたあと、シュンはなんとか口を開いた。
「……メグ、ありがとう。でもそういうことまでジーンに言わなくていいから」
ジーンにしかめっ面をさせられたのも、彼女がそう言ってくれたのも嬉しかったが、恥ずかしいものは恥ずかしい。
「どうして?」
二人の横で、メグは本気で不思議がっていた。
* * *
引っ越しを終えたあと、シュンはアパートの駐車場にある花壇にしゃがみこんでいた。まだアジサイが咲いているかと思って見にきたのだが、残念ながら花は剪定が終わっていて、今は葉っぱだけになっていた。
向こうにいられるのは三月から八月までという契約だったので、シュンは九月からはまた元の世界に戻ってきていたのだが、1LDKの間取りはひとりで住むには広すぎて、結局前に住んでいたアパートに戻ってきてしまった。
(大丈夫、半年なんてあっという間だ)
そう自分に言い聞かせながら、シュンは自分の指に嵌められた金の指輪を見つめた。
それは、メグが贈ってくれたものだった。外側は飾りのついていない簡素なデザインだが、内側にはアジサイの花の彫刻があしらわれている。
辛抱強い愛情。青いアジサイにはそういう意味があるのだと、メグは言っていた。
(頼んだら、分けてもらえるかな)
自分は春と夏にはこちらにいられないから、もうアジサイの最盛期を見ることができない。枝を分けてもらって、メグの家の庭に植えられたらいいのに。
そんなことを考えていたとき、ふいにぽつりぽつりと雨が落ちてきて、シュンはそろそろ部屋に戻ろうと腰を上げた。
「瞬」
突然背後から聞こえてきた声に、シュンは驚いて振り返った。
そこには、傘を差したメグが笑顔で立っていた。
初めて会ったときと同じような、白い半袖のワンピース姿で。
「わたしがいつでもこっちに来られること、忘れてたでしょ」
「……忘れてた」
シュンが正直に言うと、メグが笑った。
「でも、どうしてこっちに?」
「わたしね、妊娠したの」
そう言ってメグが下腹部をそっと撫でたので、シュンは目を見開いた。
「ほんとに?」
「ええ。あなたが帰ってひと月後くらいにわかったの。それでね、わたし、ジーンたちと交渉して契約を改訂したの」
メグがシュンに近づき、身体を寄せる。
「あなたが半年こっちに来て、わたしが半年こっちに来る。これでずっと一緒よ、瞬」
耳元で囁かれた言葉が信じられなくて、シュンはメグの背に手を回しながら、掠れた声で言った。
「いいのか? 本当に?」
「父親なのに、あなたが半年しか面倒を見られないのは平等じゃないでしょう? それが向こうでも問題になってたの」
それでジーンは業務上必要だと言っていたらしい。
ずっと一緒にいる。そう決めたのなら最後までまっとうしろ。そういうことだろうか。
(やってやるさ)
たとえこれから先も、さまざまな困難が待ち受けていても。
「大丈夫、身分保障に必要なものは、全部用意してもらったから。お医者さんも派遣してくれるって。それで子供が生まれたら、ジーンは向こうにずっと住むように説得するんだって言ってたわ」
シュンは苦笑いした。ジーンは本当に叔父役になるつもりらしい。
「……望むところだよ」
いい父親になれるように努力しなければ。
生まれてくる自分の子供に、向こうの世界に行きたいと思われないように。
メグが懐かしそうにアパートを見上げる。
「またここに戻ってきたのね」
「ひとりじゃあそこは広すぎるから。でも君たちがいるなら、いつか家を買いたいな。中古で小さくてもいいから」
「わたしがここを改造して広くしてもいいわよ」
「それはいいね」
初めて会った日に、彼女が勝手に家具の配置を変えてしまったことを思い出して、シュンはにやっと笑った。
「でも、今日はあなたの寝台で寝させてね。……ずっと、そうしたいと思ってたの」
シュンはそっとメグを抱きしめた。
「……君を好きになってよかったよ」
「わたしも」
シュンはメグのぬくもりを感じながら、この幸せができるだけ長く続くことを願った。
でも、たとえいつかすべてが失われてしまうのだとしても、怖くない。
今をこうして彼女と生きることができるなら。
信じている。すべてが繰り返しにすぎないとしても、変わるものはあるのだと。
すべてが廻り、巡っていくのだとしても、この瞬間に真実があるのだと。
END∞
