第74話 求めているもの

「……君はおひとしだな、リート」
 ミヒャエルはそう言いながら、制服の上着のポケットから懐中時計を取り出し、ふたを開けた。
「もうこんな時間か。時間がつのは早いな」
 リートは、ミヒャエルの時計をじっと観察した。この懐中時計の鎖には、あのオルゴールの鍵がつけられていた。
 ミヒャエルは、あの鍵を肌身離さず持ち歩いていたのだ。
 おそらく、ルーツィアと別れた日からあの日までずっと。
「どうしてあなたが鍵を持ってたの?」
「前に言っただろう。わたしは芝居がかったことが好きだと。なんでもない日にあれを贈って、彼女の誕生日に一緒に開けようと思っていたんだ。だが、そうなる前に彼女の父上が死んでしまった」
 時計の蓋を閉じてポケットに戻したあと、ミヒャエルはリートのほうを見て微笑んだ。
「ありがとう。君があれを持ってきてくれたから、わたしは心残りなく彼女を送ることができた」
「鍵はどうしたの?」
「オルゴールと一緒に棺に入れた。あれは彼女が持っているべきものだから」
 リートは、ミヒャエルの指に輝く契約のあかしを、複雑な気持ちで眺めた。
 ルーツィアは、本当にこうなることを望んでいたのだろうか。彼女が最後に望んだのは、ミヒャエルの心を独占することだったのだろうか。
 リートにはそうは思えなかった。
 ルーツィアは、いつだって自分のことより他人のことを考えていた。
 きっと最後の瞬間まで、ルーツィアは自分のことより、ミヒャエルのことを考えていたに違いない。
 だが、それを示す証拠はどこにもない。ならばこの考えは、どこまでいってもただの自分の願望でしかないのだと、リートは思った。
「ルーツィアは、ミヒャエルのことをよく知っていたんだよね」
 ミヒャエルがうなずく。
「ああ。彼女にはわたしの愛想は通用しなかったからな。だからわたしは彼女に興味を持った」
 ミヒャエルの瞳が一瞬切なげに揺れ、そっと伏せられる。
「だが、わたしは彼女に甘えすぎた。甘えてばかりで、本当に大事なことはなにも伝えられなかった。自分の気持ちを隠しても、いいことなんてなにもないのに。わたしは彼女を傷つけることしかできなかった」
 二人はしばらく黙って湖を見つめていた。
 湖面を見つめながら、リートはぽつりと言った。
「……僕は、自分が思ってたほど善い人間じゃなかった」
 思えば、自分の意思でなにかを決めだしてから、自分を知ってがっかりすることのほうが多かった。
 今までだって、べつに自分が好きなわけではなかったが、それとはまったく別の理由で、リートは自分自身に落胆していた。
「そんなことはない。最初に言っただろう、君は面白いと。お世辞ではなく、今もそう思っている。君はいつも率直で、自分に嘘をつかない。自分の望みに素直であろうとしている」
 ミヒャエルの言葉に、リートはうつむいてまた湖面を見た。
 陽が沈みはじめ、急に吹いてきた風が水面にさざなみを立たせた。波紋がどこまでも広がっていく。
 抱え込んだ膝の上で、重ね合わせた手に額をつけて、リートは静かに瞼を閉じた。
「でも、僕は知るってことがどういうことなのか、全然わかってなかった。知ってしまったら、もう昔の自分には戻れないのに」
 瞼を閉じたまま、暗闇のなかでそう言いながら、リートは無意識に両手に力を込めていた。
 自分はいつも、知ることに対してなんの覚悟も持っていなかった。
 知ることは善いことだと、ただ無邪気にそう思っていた。
 ルイスのことも、エミリアのことも、ミヒャエルのことも、ルーツィアのことも。
 ただ興味本位で、情報を集めていただけだった。
(僕は、そんなに善い人間じゃなかった)
 本当に知らなければいけないことを、なにも知らずにいた。知ろうとしていなかった。だから無邪気でいられただけだった。
 うつむいたままじっとしているリートの横で、ミヒャエルが静かな口調で切り出した。
「わたしはずっと、君がルイスを遠ざけて、わたしだけを信頼するように仕向けてきた。だが、君はルイスを遠ざけなかった。最初の一回を除けば、君はいつもわたしではなく、ルイスを選んでいる」
 リートは瞼を開けた。
 そうなのだろうか? そんな自覚はまったくなかった。
 だがミヒャエルと交代するという話をしたとき、リートは迷うことなくルイスを選んだ。ミヒャエルのほうがいいから変わってほしいと思ったことは一度もなかった。
(どうしてあの時も、僕はルイスを選んだんだろう)
 あの時ミヒャエルには、ルイスが自分のことを無条件に信じてくれたからだと答えた。けれど、今はそれだけではないような気がした。
 信じてくれればだれでもいいわけではない。自分はルイスだから信じたのだ。
 彼の人柄? 確かにそれはひとつの要因だが、自分はもっと違う理由で彼を必要としている。
(僕は、なにを求めてるんだろう)
 情報を集めて、人のことをわかったつもりでいた。しかし他人のこと以上に、自分はまだ自分のことをよく知らないし、わかっていない。
 でも、本当にそうだろうか?
 自分では気がついていないだけで、リートはその答えをすでに知っている気がした。

 その日の晩、ミヒャエルは近衛騎士の宿舎にあるルイスの部屋の扉をノックした。
 扉が開き、ミヒャエルの顔を見た瞬間、中にいたルイスは驚いた顔になった。
 まさかミヒャエルが訪ねてくるとは思っていなかったのだろう。
 ミヒャエルは顔にこそ出さなかったが、心の中ではうんざりしていた。
 自分だって、できればこんなことはしたくなかった。
「リートから聞いたぞ。おまえはめでたくクビになったというわけだ。わたしの家で傷心の宴でも開いてやろうか?」
 ミヒャエルは笑顔を浮かべて言ったが、ルイスはまったく取り合わなかった。
いやを言いにきたなら帰れ」
 ルイスが扉を閉めようとしたので、ミヒャエルは扉に足を挟み、無理やり部屋の中に入った。仕事柄、だれかの部屋に押し入るのは慣れていた。背後からルイスが文句を言う声が聞こえたが、それを無視してミヒャエルは部屋の中を見渡した。
 ルイスの部屋はすでに大部分が片づけられ、日用品が箱にきっちり詰められていた。
 荷物が多いことをミヒャエルは意外に思った。この男は衣類を抜きにすれば、リヒトの教典と剣以外はなにも必要なさそうなのに。
 ルイスが腕を組んでミヒャエルを睨む。
「……なんのつもりだ」
「伝えたいことがあったから来ただけだ」
 ミヒャエルはそう言うと、皮肉っぽく笑ってみせた。
「年下の主人に心配されて役目を解かれるなんて、騎士として恥ずかしいと思わないのか」
「なんだと?」
 ルイスがげんそうな面持ちでミヒャエルを見た。
「リートはおまえの負担になりたくないから、あえておまえを解任したんだ。そんなこともわからないのか?」
 ミヒャエルは言いながら、ルイスの鈍感さに内心呆れていた。そして、彼にこんなことを解説してやっている自分のお人好しさ加減にも。
 いったい自分はなにをやっているのだろう。
 おそらくすべてはリートのためだと、ミヒャエルは自分の中で結論づけた。
 ミヒャエルは、リートに詰られる覚悟はしていたが、まさか逆に謝罪されるとは思っていなかった。本当のミヒャエルがどんな人間かを知っても、リートは裏切られたとか、傷ついたとか、そんな恨み言を一切口にしなかった。
 リートはいつも、自分の都合のいいように事実を曲げないし、正当化しない。それどころか、容赦なく自分を批判する。しかし、いつもそのせいでリートは自分に自信を持つことができないようだった。
 彼はいつも自分を卑下していた。
 だが今のリートは、ミヒャエルの甘言に寄りかかることはなく、自分自身のあり方を自分で決めはじめていた。きっとリートに必要だったのは、なにかのきっかけだったのだろうとミヒャエルは思っていた。だがそれは、いくら自分が言葉を尽くしても与えられるものではなかった。
 そのきっかけを作ったのは、間違いなく目の前にいるこの男だとミヒャエルは確信していたが、そのことにルイスは恐ろしいほどまでに無頓着だった。おそらく、自分がなにをしたのかすら気づいていない。
 腹立たしい気持ちで、ミヒャエルはルイスを見つめた。
 この男はいつも、無自覚に人の心を動かしてしまう。いや、動かそうという意図がないからこそ、人はその姿に自然と影響されてしまうのだ。
「おまえが悩むとそれだけリートが苦しむんだ。だからさっさと立ち直れ。できないなら平気なふりくらいしろ」
 ミヒャエルがそう言うと、ルイスは葛藤しているような表情になった。
 それも当然か、とミヒャエルは思った。
 ルイスは嘘をつくのが下手な人間だ。そもそもこの男は、今まで嘘をつく必要のない人生を送ってきたのだろう。
 他人にも、そして自分自身にも。
 だが、自分は嘘ばかりついて生きてきた。そうしなければ生きてこられなかった。
 本当に、自分たちはなにもかもが正反対だ。
 ミヒャエルは憐れむような目つきでルイスを見た。
「どちらもできないだろうな、おまえには。というわけで、おまえはわたしの部下になった」
 一転してミヒャエルが笑顔でそう宣告すると、ルイスは目を見開いた。
「待て、どういうわけだ、それは! わたしはソリンの騎士だぞ」
「わたし専属の部下だ」
「そんな馬鹿なことが――」
「伝えたいことがあると言っただろう。アルフレート様がうちの団長に頼んだんだ。今の状態で戻されても困るから、ハーナルで好きに使ってくれと。抗議しにいっても同じことを言われるぞ」
 ルイスが理解できないという表情になる。
「……なぜ断らなかった」
 ミヒャエルはいつもの穏やかな笑みを浮かべた。
「おまえにはわからないさ」
 大半の人間は、自分の行為は異常だと思うだろう。まともな人間なら、気まずさに耐えきれず距離を置く。だがあいにく、自分は普通とはおよそかけ離れた人間だった。
 ルイスを部下にできれば、自分にもハーナルにもソリンにも恩恵がある。しかも、嫌いで仕方ないこの男に合法的に命令できる。そんな理由で自分は簡単に割り切ってしまえる。
 こんなことでもしていなければ、ミヒャエルは本当に気が狂ってしまいそうだった。
「初めに言っておくが、わたしは人使いが荒い。いい機会だから、徹底的にうちの流儀をたたんでやる。よかったな、悩む暇もないぞ」
 ルイスが苦り切った表情でミヒャエルを睨んだ。
「辞令には従う。わたしはどこへ移ればいいんだ?」
「……案内するよ」
 若い女性が一人残らず卒倒しそうな甘い笑みを浮かべて、ミヒャエルはそう言い放った。