第85話 相談

「ルイス……なんでここに」
 リートがそう言うと、ルイスが近寄ってきた。
「ミヒャエルに頼まれたんだ。仕事に必要だから調べてくれと。君こそどうして――」
 しかし、ルイスは言葉の途中で突然はっとしたように周囲を警戒した。
「どうしたの?」
「いや、なんでもない」
 そう言って、なにげなくルイスが頭上を見上げた瞬間だった。
「リート!」
 ルイスの鋭い声に、リートも彼と同じ方向を見上げようとしたが、その前にルイスにおおかぶさられていた。その直後、ドサドサとなにかが落ちてくる音がリートの耳に聞こえた気がした。
 ルイスがリートの顔をのぞむ。
「大丈夫か?」
「うん、ありがとう」
 前にもこんなことがあったなと思いながら、リートはルイスに差し出された手をつかんで立ち上がった。
 リートの足元には本が数冊落ちていた。どれも分厚い本ばかりだ。梯子が倒れた衝撃があったとしても、ひとりでに落ちてくるとは考えにくい。
 まさか自分が狙われたのだろうか?
 だが、なんのために?
 リートが目まぐるしく考えを巡らせようとする前に、近衛騎士が駆け寄ってきた。
 ルイスが険しい顔で騎士を睨む。
「君はなにをやっているんだ。彼のそばを離れるとは」
「悪いのは僕だよ、ルイス。僕が本を探してほしいって頼んだから」
 リートはそう言ってルイスを取りなした。
 しかし、そう言いながら、リートは自分ほど守りがいのない厄介な人間もいないのではないかと思った。普段は部屋にもってばかりで守る必要はかけもないが、いざ動くとなれば、リートを守る人間たちは、毎回いやおうしに命の危険と隣り合わせの状況に置かれるのだ。自分なら絶対に御免だとリートは思った。
 ルイスは真剣な表情でリートを見つめた。
「頭上から本が落ちてきたんだ。事故とは考えにくい。君が狙われた可能性がある」
「あと、梯子から突き落とされたかも……」
 リートがぼそりとつけ足すと、ルイスの表情がさらに険しくなった。
「本当か?」
「いや、本を読んでたからよく見てないけど……」
「とにかく、ここにはいないほうがいい」
 騎士たちが落ちてきた本を片づけている横で、リートはうんざりした気持ちになった。
 外に行くのも駄目、図書室で調べようとしても駄目なんて、いったいどうなっているんだろう。なにもせず、ずっと部屋に閉じ籠もっていろということなのだろうか。
 それとも、自分にそうさせたい何者かの思惑が介在しているのだろうか。それは、台本を盗まれたことともなにか関係があるのだろうか。
 そこまで考えてから、リートは次々に湧いてくる疑問を解決しようとすることを諦めた。
 なにも証拠が無いのに、憶測で考えても仕方がない。
 リートはルイスに話しかけた。
「ねえ、ルイス。僕の部屋まで来てくれると嬉しいんだけど。最近会ってなかったし、話をしようよ」
 しかし、言ったあとでリートは彼がここに来た理由を思い出した。
「ごめん、仕事中だったね」
 リートは急いでそう言ったが、ルイスは首を振った。
「大丈夫だ。急ぎの案件ではないし、あいつは自分でできるくせに、あえてわたしに頼んだんだ。少しくらい遅れてもかまわないだろう」
 そうつんとした顔で言い切ったルイスを見て、リートは笑いだしそうになるのをこらえた。
 やはり彼は面白い。いつも冷静で真面目なのに、ミヒャエルのこととなると、なぜかルイスは自分の感情を優先させてしまう。
 そんなリートたちに、背後から近づいてくる人影があった。
「ルイス様」
 リートは声のしたほうを見て驚いた。
 そこに立っていたのはレーネだった。ルイスも隣で当惑した表情を浮かべている。
「マグダレーネ。なぜあなたがここに」
 ルイスがそう呼ぶのを聞いて、それが彼女の本名なのだろうとリートは推測した。
「ハーナルの庁舎に一度伺ったのですが、こちらだとミヒャエル様がおっしゃっていたので」
「すまない。探し回らせてしまったな」
 ルイスはそう言ったが、レーネは微笑んで首を振った。
「いいえ、気になさらないでください」
 これはおそらく気遣いではなく、レーネの本心だろうなとリートは思った。
 なにせ彼女はミヒャエルの愛好者なのだ。
 レーネが恭しい所作で、持っていた紙片をルイスに差し出した。
「姫様からです」
 差出人がわかった瞬間、ルイスが表情を硬くした。
「……緊急の用か?」
「いいえ、読んでも読まなくてもかまわないと」
「そうか。ありがとう」
「では、わたくしはこれで」
 ルイスが手紙を受け取ると、レーネはリートたちにお辞儀して去っていった。
 しかしルイスは手紙を開かず、制服のポケットにすぐに収めてしまった。
「読まなくていいの? 僕、先に行ってるけど」
 リートはそう言ったが、ルイスは目を伏せた。
「……いいんだ。行こう、君の部屋へ」

「お客様としてここに来るのは初めてだね」
「そうだな」
 そう言いながらリートは自室の扉を開けたが、その瞬間、今自分の部屋がどうなっているかを綺麗さっぱり忘れていたことに気がついた。
「ごめん、ちょっと待ってて。すぐ片づけるから」
 リートは慌てて卓上に走り寄り、無造作に積み上げてある本の山をソファに移動させようとしたが、慌てたせいで本が雪崩を起こしかけた。
「わ」
 リートは全身を使ってなんとか全体の崩壊を防いだが、何冊かが卓上から滑り落ちた。とっさに腕を伸ばしたが、遠すぎて届かない。
 動いたのはルイスだった。
 ルイスは卓の向こう側にすばやく回り込むと、じゅうたんの上を滑り込みながら、落ちてくる本をすべて受け止めた。
「わたしも手伝おう」
 そう言いながら、ルイスはまるでなにごともなかったかのように本を抱えて立ち上がった。
「リート?」
 ルイスに名を呼ばれ、リートははっと我に返った。
 ルイスの反射神経の良さを、リートはぽかんと見つめていた。
「……ありがとう」
 恥ずかしい気持ちをこらえ、リートはそう言うしかなかった。

 すべての本をソファに移動させ(ルイスの本の積み上げ方は完璧だった)、二人はやっと椅子に坐った。
「それにしてもすごい量だな」
「エヴェリーンのことを調べてたんだ」
 リートはルイスにそう答えたが、すぐにうつむいた。
「でも、全然うまくいかなくて。一つ疑問を解消しても、また別の疑問に行き当たるんだ」
 ひとつ壁を乗り越えても、また次の壁がすぐにリートの前に立ちはだかる。これではキリがなかった。
「それに僕の仮説を裏づける証拠が全然なくて……やっぱり、間違っているのは僕のほうなのかも」
「それならまた一から考え直せばいい。探究というのはそういうものだ。手探りで一歩ずつ進んでいくしかない」
 ルイスはそう言って、リートのほうをまっすぐに見つめた。
「大丈夫だ。そうやって歩いていけば、いつか見晴らしの良い開けた場所に出られる。そこには、君だけが見られる景色が広がっている」
「だといいけど」
 今のリートには、たどり着いた先が崖で、そこから転落しそうな予感しかしなかった。
「ルイスは、今どんな場所にいるの?」
 なんとなく、リートの口からそんな質問がこぼれた。
「わからないんだ。自分の気持ちがわからない。なにを選んでも意味がない気がする。結局、すべてはいつか失われてしまう」
 リートは言葉を失った。ルイスがそんなことを言うなんて。
 考える前に、リートはとっさに口を開いていた。
「そういうのはらしくないよ」
「どういうのがわたしらしいんだ?」
 問われてリートは一瞬考え込んだ。
「うーん、頑固で思い込みが激しくて、人の話を聞かない?」
 言ってしまってから、リートは自分の言葉を反芻して頭を抱えた。
 なぜそこで自分はもっと気の利いたことを言えないのだろう。
 べつに他人の感情を軽視しているわけではない。ただ、電車の荷棚に忘れた荷物のように、うっかり置き去りにしてしまうだけなのだ。そしてかなり時間が経ってからそのことに気づく。
 だがそう説明したところで、おそらくほとんどの人間には理解できないのだろう。
 しかし、ルイスはそんなリートに怒ることはなかった。
「改めて聞くと、わたしはひどいな」
 そう言って苦笑いするルイスに、リートは慌てて首を振った。
「そんなことないよ。だって僕は、君のそういうところに助けられたんだから。たぶん、ライナスもルーツィアも」
「だが二人とも死んでしまった」
「それは君のせいじゃない」
 リートは即座に言ってからまたうつむいた。飲みかけの紅茶に映った自分が、不安そうにこちらを見つめていた。
「心配なんだ。君がどこかに行ってしまいそうで、怖いんだ」
「わたしはどこにも行かない」
「それは僕の台詞せりふだよ。僕はどこにも行かないから。ルイスを悲しませるようなことはしないから。僕は、いつもルイスの味方だから」
 リートがそう言うと、ルイスがふっと笑った。
「ありがとう」
 リートは複雑な気持ちでルイスの横顔を見つめた。
 彼はそういう笑い方をしない人間だった。
 どことなく悲しそうで、見ているこちらが心配になるようなそんな笑い方は。
 今思えば、ルーツィアはいつもリートに対してそんな笑い方をしていた。笑っていても月のようにどこか遠くて、手を伸ばしてもやんわりと拒絶されるような、そんなもどかしさがあった。
 きっとあれが孤独なのだとリートは思った。
 ルイスがそばにいても、ルーツィアはずっと孤独なままだった。
 こういうとき、なにを言えばいいのだろうとリートは思った。
 だれかを励ますのは苦手だった。
 自分はいつも思ったことしか言えない。
「ねえ、ルイス。僕はたぶん君に憧れていたんだ」
 リートは思いきってそう言った。
「ルイスはいつも正しくて、迷わなくて――そういうふうになれたら、傷つかずにすむのかなって思ってた。でもルーツィアの事があってから、そうじゃないんだって気づかされた。ルイスでも助けられない人はいるんだって……」
 そこでリートは言葉を切って、ルイスを見つめた。
「でも僕は、君のそういうところに助けられたんだ。君がいつもまっすぐで、僕の顔色をうかがって態度を変えなかったから。自分の気持ちから逃げてばかりの僕に、それじゃなにも変わらないんだって、気づかせてくれた。ほかの人じゃ駄目だった。ルイスだからよかったんだ」
「そうか」
「うん。だから独りにならないで。僕の騎士じゃなくなっても、ルイスは僕の大切な人だから」
 リートはそう言いながらも、なんだか違うと思っていた。
 それは確かに事実なのだが、自分が彼を選んだ理由ではない。
 君はいつもルイスを選んでいる。ミヒャエルにそう言われてから、リートはルイスのなにがよかったのか、いろいろな理由を考えた。
 だが、どれだけ考えても、納得のいく答えは出なかった。
 未だにリートは、ルイスのことをよくわかっていなかった。彼はまっすぐなのにいつもどこか矛盾していて、行動に一貫性があるようでない。最後は結局好き嫌いで決めてしまう。
 そんなところにリートは興味を持った。
 だがおそらく、自分が知りたいのはルイスがこういう人だからよかった、というような理屈ではなかった。
 なぜ自分が彼を必要としているのかという内的な要因、つまり動機だった。
(これはきっと、僕自身の問題なんだ)
 それがわかったところで、リートは話題を変えた。
「そういえば、ミリィ様も同じこと言ってたよ。どうすればいいのかわからないって」
 リートがそう言うと、ルイスの雰囲気が先刻とは打って変わって張り詰めたものになった。
「……そうか」
 レーネがエミリアからの手紙を差し出したときも、ルイスは動揺していた。
 二人のあいだになにかがあったのは明白だった。
「ルイスは」
 リートは一瞬ためらったが、今度は言ってみることにした。
「ルイスはミリィ様のこと、どう思ってるの?」
 リートの問いに、ルイスの瞳がわずかに揺れた。
「気づいていたのか?」
「降臨祭のときにね」
「だからあんなに怒っていたんだな」
「まあね。でも、ルイスが悪いわけじゃないし」
 バツの悪い思いでリートはそう言った。あの時のことを思い出すと今でも恥ずかしい。自分の態度はなにから何まで最悪だった。
「……本当にそうだろうか」
「だって、悪意があったわけじゃないのに」
 リートは反射的にそう返しながら、自分の言動を不可解に思った。
 なぜ自分が彼の代わりに弁解しているのだろう。
「だが、悪意がなければ相手を傷つけてもいいということにはならない。君にもそう言われた」
「……そうだね」
 思い返せば、リートは悪意に満ちた言葉より、悪意のない言葉に傷ついたことのほうが多かった。悪意があるならなにを言われようと割り切れる。だが相手にそのつもりがなかったときは、相手を責められない。責めてもすべて徒労に終わる。
 リートは卓にほおつえをついた。
「相手に自分の気持ちをわかってもらうのって難しいよね。僕はいつも全然うまくいかない」
「わたしもだ。……うまくいかない」
 リートは、そう言ってうつむいてしまったルイスの横顔をじっと見つめた。
 近くにいても、ルイスはいつも遠い存在だったが、この時初めてリートは、彼の存在を身近なものに感じていた。
 ひょっとして、こういう気持ちのことを親近感というのだろうか。
 リートはそう思った。

 リートの部屋を出たルイスは、制服の内ポケットから手紙を取り出した。
 開けたくない。
 それが正直な気持ちだった。
 なぜ自分はこんなにもためらっているのだろう。
 今までこんなに迷ったことはなかった。
 それ以上に、なにが書いてあるのかを知るのが怖かった。
 思えば、彼女からことづけを受け取るのはこれが二度めだった。
 一度めは、ルーツィアと初めて夜会に出た日のことだった。
 あの時文面には、ルーツィアのことは預かったから、取り返したければ自分の部屋に来いと書いてあった。
 それを読んで、ルイスは慌ててエミリアの部屋に駆けつけたのだ。
 しかし、そこには着飾った姿のルーツィアがいて、ルイスは悟った。すべてはエミリアが仕組んだことで、自分たちは彼女に踊らされているだけだったのだと。
 そしてあの時、エミリアのことづけを自分に差し出したのはライナスだった。
 あれはライナスが仕組んだことだったのだとルーツィアは言っていたが、それだけではなく、エミリアもライナスのたくらみに協力していたのだ。
(おまえが自分のことに集中できるのは、周りにいる人間がおまえを支えていたからだ。おまえ独りの力じゃない)
 ミヒャエルの言葉は、ルイスの心の奥深くに突き刺さったままだった。
 それならそうと、なぜ言ってくれなかったのだとルイスは思った。言ってくれなければ気づけない。
 だがそれはルーツィアも同じだった。彼女は最後の最後まで、肝心なことは自分になにも話さなかった。
 そうだ。いつも自分はなにも知らなかった。
 ならば、知らなければならない。
 そして、そこになにが書かれていようと、受け止めなければならない。
 きっともう、これ以上ひどく打ちのめされることもない。
 ルイスは覚悟を決め、ゆっくりと手紙を開いた。