メルヒオルは屋敷の客間で、客人と机を挟んで向き合っていた。
「君がわたしの屋敷に来るなんてね。わたしは原稿の執筆をやめて、遺言状でも書いたほうがいいのかな」
客人の男がじろりとメルヒオルを睨む。
「……どういう意味だ」
「わざわざ君がわたしの屋敷に来るなんて滅多にないことだから、なにか不吉なことでも起きないか心配してるんだよ、リューディ」
メルヒオルが朗らかな口調でそう言うと、リューディガーが顔をしかめた。
「わたしの前で非科学的なことを口にするな」
「科学的思考はとても有用だけれど、わたしは聖職者だ。科学がすべてだとは思っていないからね」
リューディガーがふんと鼻を鳴らす。
「わたしだって、できるならおまえのところになど来たくなかった」
リューディガーの話をすべて聞き終えてから、メルヒオルはうなずいた。
「なるほど。それで迷っているのか」
「あの男は陛下に会わせてくれればすべて喋ると言ってる。ハインリヒは激怒するだろうが、わたしは会わせてもいいと考えている」
「どうしてそう思ったんだい?」
リューディガーが沈黙したあとで口を開く。
「勘、などというものをわたしは信用していないが、あの男の取る行動はあまりに非合理的だ。あれは馬鹿か狂人の類だ」
唸るようにそう言って、また黙り込んでしまったリューディガーに、メルヒオルが微笑んだ。
「犯罪者ほど即物的かつ合理的に動く存在はない。それが君の持論だったね」
リューディガーがうなずく。
「犯罪者は素直だ。だから罪を犯す。本当に怖いのは、自分をまともだと信じて疑っていない人間のほうだ。奴らはどこまでも自分を偽り、無自覚なうちに人を殺せるのだから」
「彼もそうだと?」
リューディガーが首を振り、目を伏せる。
「いや、違う。だから迷っている。わたしが思うに、奴の言うことはすべて信用できるか、すべて信用できないかだ。わたしは二分の一の確率に賭けたい」
メルヒオルが静かにうなずいた。
「わかった。わたしも彼に会ってみよう。彼の調書は?」
「写しならここにある」
リューディガーが鞄から書類を取り出し、机の上に置いた。
メルヒオルが書類に目を走らせている横で、リューディガーがまた口を開いた。
「それから気になっていることがある。あの科学者を襲った奴らのことだ。奴らはあの科学者を拉致しようとしていたんじゃない。殺そうとしていた」
メルヒオルが書類から顔を上げ、鋭い声を出す。
「ではベギールデが刺客を?」
「わたしもそう思ったが、連中はただ金で雇われているわけではないようだ。罪は認めているが、だれの指図でやったのか一切答えようとしない」
メルヒオルは考え込むように顎に手をやった。
「そういえば、リートを襲った原理主義者も偽物だったね」
「そうだ。どうもこの事件、我々がベギールデに振り回されている隙に、裏で動いている輩がいるらしい」
侍女が出してくれた紅茶を勧めながら、リートは椅子に坐った。
リートの部屋には、ミヒャエルが来ていた。
いつものハーナルの制服ではなく私服姿で、しかも夕方になってから彼が訊ねてきたことにリートは内心動揺していた。
エルフリードのことに気づかれたのではないか――そう思った。
「彼の様子はどう?」
リートはユストゥスという名前をうっかり口に出さないように、細心の注意を払って言った。ミヒャエルが紅茶を一口飲んでから静かに首を振る。
「なにも話そうとしない。自分を王に謁見させろの一点張りだ」
「まだそんなことを言ってるの?」
リートがそう言うと、ミヒャエルが肩を竦めた。
「さあ、よほど訴えたいことがあるのか、陛下に頼めば情状酌量の余地があると思っているのか……だが陛下はそんなことでいちいち恩赦をするような方ではないし、その前に団長が謁見を許さないだろうからな」
そこまで言ってから、ミヒャエルが不意に言った。
「今日は明日の打ち合わせだったんだ」
「……そうだったね」
それで彼は私服だったのだとリートは納得した。このところなにもかもが上の空で、リートは明日がエミリアとミヒャエルの婚約式だということすら忘れていた。しかし、自分は式に出られない。
「ミヒャエルはそれでいいの? ミリィ様も……好きな人がいるのに、婚約するなんて、僕にはわからない」
言ってしまってから、リートは顔をうつむけた。
「……ごめん。勝手なことを言ったね」
しかし、ミヒャエルは気を悪くした様子も見せず微笑んだ。
「そういうリートは、ユーリエとどうなんだ?」
「べ、べつに僕はそういうんじゃないよ。ユーリエは友達なんだから」
リートは慌ててそう言ったが、内心、自分たちは友達らしいことが全然できていないとも思った。見舞いには行ったが、劇を一緒に見ることさえできなかった。
(そもそも、友達ってなんなんだろう)
メルヒオルにユーリエのことをどうしたいのだと問われたときは、友達になりたいのだと勢いだけで言ってしまったが、未だにリートは、友達になるということがどういうことなのかよくわかっていなかった。
そんな自分のような人間が彼女と友達になるなんて、間違っていたのだろうか。
ユーリエは自分のことをどう思っているのだろう。
「手は繋いでいたようだが?」
リートはミヒャエルを軽く睨んだ。
「からかわないでよ」
「……すまない」
リートが本気で怒ったのを感じ取ったのか、ミヒャエルはリートの視線を阻むように片手を上げた。
グレーの瞳がすっと翳る。
「わたしは、ずっと自分に嘘をついて生きてきた。こういう生き方しかできないんだ」
「でも、ルーツィアは、鍵を開けてって。ミヒャエルに自由になってほしかったんじゃないの?」
リートはミヒャエルを見つめながらそう言った。
証拠はなにもない。だがリートはなぜかそんな気がした。
ルーツィアは、ただオルゴールの鍵を開けてほしかったわけではないはずだ。
いつも自分の本心を隠していた彼女が最期に言ったのは、ただの頼み事ではなく、自分の望みだったのではないだろうか。
きっと、ルーツィアはミヒャエルを解放したかったのだ。過去の呪縛から、幾つも重ねた嘘から。そして、ミヒャエルの心を蝕む罪悪感から。
ルーツィアは鍵を開けてほしかったのではなく、自分が鍵になりたかったのだ。
ミヒャエルの心の扉を開く鍵に。
(持っているだけでいいんです。そうすればいつか)
いつか、この鍵が開く日が来る。その思いをルーツィアは諦めきれなかった。
そのことにミヒャエルが気づいていないはずがない。ミヒャエルは、人の気持ちを推測することはできても、そこに宿る心情を感じ取ることが難しい自分とは違う。察することに長けた彼にはとっくにわかっているはずだ。
しかし、リートの視線から逃れるようにミヒャエルはふっと瞳を閉じた。
「……わたしにそんな勇気はない」
「警備計画に変更は?」
アルベリヒの質問にアンスヘルムが答える。
「ありません。予定通りです」
「では始めるとしようか」
アルベリヒに続き、集まった人影がその場に跪いて唱和する。
「我らが闇となれるとき、新たなる光は生まれ出でん」
リューディガーが訊ねてきた翌日の朝、ハーナル騎士団の庁舎で、メルヒオルは対面した相手に微笑んでいた。
「初めまして。わたしはメルヒオル・フォン・ヴァイスハウプト。この国の最高顧問だ。今は休業中だがね」
メルヒオルの向かい側に坐っているのは、金茶の髪に琥珀色の瞳を持つ青年だった。メルヒオルが挨拶するあいだ、青年はにこりともせずにメルヒオルを見つめていた。
「……俺は王に会わせろと言ったはずだが」
「その前に、わたしが話を聞こうと思ってね。君の調書を読ませてもらったが、一つ興味深いことが書いてあった。君の右腕には四芒星の刺青があるそうだね」
そう言ってメルヒオルは、青年の右腕にちらりと目をやった。
「その刺青は昔、ソリンの騎士が団員である証しとして入れていたものだ。しかし今はとっくに廃止されていて、最後に入れた人間は生きていれば今年で百二十二歳だ。だれかに聞いて真似をして入れたのかな?」
問われた青年は逡巡しているようだったが、おもむろに袖の釦を外してシャツをまくり上げ、二の腕の内側をメルヒオルに見せた。そこには黒でリヒトを表す四芒星が彫られていた。
「これは本物だ。百年前、確かに俺はソリンの騎士だった」
青年の返答に、さすがのメルヒオルも困惑の色を隠さなかった。
「君はいったい何者なんだ? さすがに正体不明の人間を陛下に会わせるわけにはいかないのだが」
青年がメルヒオルから視線を逸らし、小さくため息をつく。
「最高顧問ですらなにも知らされていないようだな」
メルヒオルがわずかに片眉を上げる。
「……わたしがなにを知らないと?」
「この国の過去だ。昔、リヒト原理主義者からヴォルヴァを救った騎士がいた。彼はそのヴォルヴァを愛したが、ある人間の手によって引き裂かれた。その人間が貴族たちを虐殺した」
琥珀色の瞳がまっすぐにメルヒオルを見つめる。
「史実のエヴェリーンは偽物だ。奴らは自分の罪をすべてエヴェリーンになすりつけた。劇の中でも現実でも、俺はなにもできなかった」
「君があのユストゥスだというのか?」
「あの日から、俺の身体は年を取ることをやめてしまった。そのことに何十年も経ってから気づいた。そしてわかったんだ。エヴェリーンにもう一度会うまで、俺は死ねないんだと」
「いったいだれが、君とエヴェリーンを引き裂いた?」
メルヒオルが囁くような声で訊ねると、ユストゥスは瞼を閉じてから答えた。
「……エルフリードだ」
「エルフリード? 王太子夫妻ではなく?」
ユストゥスが首を振る。
「もともとゴットフリートとフリーデリケは、話を盛り上げるために創作された登場人物だ。王太子夫妻ははなにも知らなかった。エヴェリーンがいなければ、王族たちは全員死んでいただろう」
「君の話は俄には信じがたいね。わたしは王宮に勤めだしてかなりの年月が経つが、そんな記録を見たことがない」
「そうだ。俺も信じられなかった。まさか、奴らがすべてをなかったことにして隠蔽を図るなどとは思わなかったし、そのおかげで俺はずっと身を隠し続けなければならなかった。だが、そのせいでエヴェリーンは濡れ衣を着せられるはめになった」
「君はだれかにこの事を話そうとは思わなかったのかね」
メルヒオルの問いに、ユストゥスが呆れたように息を吐いた。
「こんな荒唐無稽な話をだれが信じる? 相手はこの国の最高権力者だ。告発したところで俺は狂人だと思われて牢屋に入れられるか、さもなくば精神病棟に隔離されただろう。それに、俺が今まで出会った人間の中で、俺の話をまともに聞こうとした人間はエヴェリーンだけだった。だからこの事をだれかに話すという発想自体がなかった」
そこで言葉を切り、ユストゥスが頭を振る。
「俺のことはいい。それより、あの少年はどうしている?」
それがだれを指すのかわからず、メルヒオルが首を傾げると、ユストゥスがさらに言った。
「黒目黒髪の少年だ。彼は違う世界から来たんだろう?」
「彼は天啓者なんだ。だから王宮で保護している」
ユストゥスは激しくかぶりを振った。
「違う。彼は天啓者なんかじゃない。奴こそがエルフリードだ」
「待ってくれ。なぜ天啓者がエルフリードなんだ。二人はそれぞれ別の人間ではないのかね」
メルヒオルが急いで言うと、ユストゥスがありえないとばかりに大きく目を見開いた。
「別の人間だと? 確かに奴は自分の身体を捨てたが、ほかの人間と身体を共有しているというのか? 演技ではなく?」
「……身体を捨てた? エルフリードとはいったい何者なんだ?」
メルヒオルが呆然とした顔で言うと、ユストゥスは舌打ちした。一番肝心なことを伝えていなかった自分の迂闊さに苛立ったらしい。
「その説明はあとだ。とにかく、早く奴をヴォルヴァに拘束させろ。早くしなければ間に合わない。あいつは俺を誘き出すために罠を張った。終わりの日は近い」
