第104話 わからなくても

 次の日の朝、リートはじっと壁時計を見つめていた。
 彼は時間ぴったりに来るはずだ。
 秒針がリヒタール数字の十二を指したのと同時に、ノックの音がした。
 リートは立ち上がって自ら扉を開けた。
 そこに立っている人物に、リートはほっとして笑いかけた。
「来てくれてありがとう。でも、本当に大丈夫?」
 ルイスがうなずいた。青に金のこうさいが散った瞳に迷いはなかった。
「大丈夫だ。君の頼みだからな」
 自分の試みはうまくいくだろうか。だがルイスの瞳を見ていると、リートはそんなことはどうでもいいような気がした。
 どうせ役に立たないならやる意味がない。今までずっとそう思っていた。
 だがそうではないのだと、リートは最近になってやっと気がついた。
 きっと、なにごとも試みることに意味があるのだ。
 たとえそれが、自分の望まない結果に終わるのだとしても。
「……行こう」
「うん」

 二人がハーナルに行くと、玄関ホールでアルフォンスが出迎えてくれた。
「こちらです」
「ありがとう、アルフォンス」
 リートとルイスが通された部屋に坐って待っていると、しばらくしてからアンスヘルムが看守に連れられて部屋に入ってきた。
 こうして罪を犯した人間と面会するのは、リートは初めてだった。なんだか自分が映像劇に出てくる弁護士とか、精神鑑定医になったような気がした。
 だが、自分はどれでもない。
「わたしになんの用だ。やっと自分の犯した罪を認める気になったのか」
 アンスヘルムがルイスを見るなりそう言い放った。
「違うよ。僕があなたに言いたいことがあったから来たんだ」
 リートはそう切り出した。
「あなたのことはルイスから聞いたよ。あなたが屋敷と全財産を相続したって聞いたから、もしかしたらと思って探してもらったんだ」
 そう言ってリートは机の上に置いていた本を開き、アンスヘルムに見せた。
「あなたのひいおさんの日記だよ。ものすごく細かくつけてある。なにから何まで。これだけ正確なら証拠能力もちゃんとあるってミヒャエルが言ってた。メルヒオルに訴えていれば、こんなやり方をしなくても、正当な方法で謝罪と賠償が勝ち取れた。だれも殺さずにすんだんだ」
 リートがそう言っても、相変わらずアンスヘルムは表情を変えなかった。
「あくまで可能性の話だ。いつだって人は権力の前に無力だ。為政者に都合の悪い事実は公表されず、にぎつぶされる。わたしは間違ったことをしたとは思っていない」
 リートはうつむいた。
「そうだね。今僕の言ったことはただの理想だ。実現するのは難しい。でも、それであなたは楽になった?」
 アンスヘルムが眉を上げた。
「……なんだと?」
「人を傷つけて、殺して、建物を壊して気がすんだ? 僕にはそうは見えないけど」
「おまえになにがわかる」
 敵意をあらわにするアンスヘルムに、リートは首を振った。
「わからないよ。わかるわけないじゃないか。僕はあなたじゃないんだから。それとも、だれかに自分の気持ちをわかってほしかった?」
 リートがそう言うと、アンスヘルムは初めて動揺したそぶりを見せた。
「僕は、あなたのその気持ちをアルベリヒが利用したんだと思う」
「……違う」
 アンスヘルムは首を振った。
「違う! わたしはなにもかも自分の意思で選んだんだ! わたしは間違ってなんかいない! わたしはあの方に救われたんだ!」
 必死にそう叫ぶアンスヘルムを、リートはただじっと見つめた。
「……あなたがそう思うなら、きっとそうなんだろうね」
 そう言ってから、リートは立ち上がった。
「それだけ言いたかったんだ。……じゃあね」

「彼には自分がなにをしたか考えてほしかったんだ」
 部屋に戻ってから、リートはルイスにそう言った。
「だって罰を与えても、更生したことにならないから。それじゃ、ルーツィアが浮かばれないから……」
 更生とは、自分の人生を生き直すことのはずだ。
 リートは、自分の世界の制度に疑問を持っていた。罪を犯した人間を捕まえて、裁いて、隔離する。それだけでは、問題を解決したことにはならない。
 大事なのは、なぜその事件が起きたのか、なぜ犯行に走らなければならなかったのかを検証することだ。
 それなのに、なぜか自分の世界ではそのことが重要視されていない。
 それではきっと、何度も同じことを繰り返してしまうのに。
 生まれつきの犯罪者はいない。
 ならば、だれでも犯罪者になる可能性がある。リートはそう思っていた。
 自分だって、運が悪ければ向こうの世界でいつか犯罪者になっていたかもしれない。
 今、自分の目の前にいる彼に出会えていなければ、もしかしたら。
 だが、ルイスに会っても自分の気持ちから目を背けたままなら、きっとなにも変わらなかった。そこからあとのことを決めるのは、いつも自分の選択だ。リートはそう信じたかった。
「僕はルーツィアのために、これくらいしかしてあげられないけど」
 リートがそう言うと、ルイスは一瞬目を見開いたが、すぐに生真面目な表情に戻り、リートを見つめた。
「……ありがとう、リート」

 ルイスが帰ったあと、リートは聖殿に向かっていた。
 ユーリエに会うためだった。
 螺旋階段を下りながら、リートは考えた。地下に近づくにつれて冷えていく空気が、今の自分の気分を象徴しているようだった。
(友達になるって言ったくせに、助けるって言ったくせに、僕は結局、彼女の気持ちより自分の気持ちを優先させるんだ)
 自分の都合で来ておいて、帰る理由を見つけたから帰るなんて、自分は勝手だ。
 しかし、結局それがうそ偽りのない自分だった。仕方のないことだとは思いたくなかった。そうやって、自分の行動を正当化したくなかった。
 リートはふと思った。
 あの時――ゾフィーと言い争いになったとき、自分はユーリエの手を取ってどこに行くつもりだったのだろう。もしメルヒオルと鉢合わせしなければ、たとえ王宮から逃げることはできても、自分とユーリエは行く当てもなく途方に暮れていただろう。
 今のリートの力では、ユーリエをどうすることもできない。それが逃れようのない現実だった。

 ユーリエに会いにきたことを侍女に告げ、リートは結界の外で待っていた。
 断られても、いくらでも待つつもりだった。
 しばらくしてから、ユーリエがリートの前に現れた。
「ユーリエ」
「リート様……」
 そう言って恐る恐るこちらを窺うユーリエを見ながら、リートは苦笑した。
「べつに怒ってないよ」
 リートは、ユーリエの薄紫色の瞳をまっすぐに見た。
「あの時の話の続きをしよう、ユーリエ」
 これでうまくいくのかはわからない。だが、やってみなければわからない。
 今までだって、そうやって自分たちはいろいろな問題を解決してきた。自分の気持ちを、それにさわしい言葉を選んで伝えようとしてきた。
 どうせ離れてしまうなら、悲しい思いをするなら、最初から彼女に関わらなければよかったのだろうか? 自分のしてきたことは無駄だったのだろうか?
 リートにはわからなかった。だが、それでも信じていたかった。
 少なくとも、こうして出会ったことに意味はあるのだと。
「君の言ったとおりだよ。向こうに帰ったところで、僕は独りだ。でも、わかったんだ。それは当たり前のことだって。本当は、みんな独りなんだから」
「みんな独り?」
 首を傾げてそう言うユーリエに、リートはうなずいた。
「そう。僕は、独りだと認めるのが怖かっただけなんだ」
 リートはそう言って、ユーリエに少しだけ微笑んだ。
「でも、今はちょっと違う。怖くても、その気持ちから逃げたくない」
 それから、二人のあいだに長い沈黙が訪れた。
 しかし、リートはもうその沈黙を恐れていなかった。気まずいとも思わなかった。
 ずっと、相手にどう思われるかを気にしていた。
 会話もろくにできない人間なのだと思われるのがいやだった。しかし、いくら相手によく思われようとしたところで、できることなど限られている。
 自分がどう思われているかは自分では決められない。だからといって、相手を傷つけていいわけではない。だがどれだけ最善を尽くしても、最終的にそれを決めるのは相手だ。
「……嘘をつきました」
 ユーリエがぽつりと言った。
「あなたを心配しているわけではありません。わたしがいやなんです。リート様がいなくなるのがいやなんです」
 リートは自然と微笑んでいた。
「……ありがとう。君がそう思ってくれるなら嬉しいよ」