しかし、出発したはいいものの、馬車の中では気まずい空気(そう感じていたのはリートだけだったが)が流れていた。
リートたちの向かい側に坐ったミヒャエルは、終始機嫌が良さそうに窓の外を眺めていたが、リートの隣ではルイスが腕組みをして瞼を閉じていた。
彼にとっては、ミヒャエルが視界に入ること自体が耐えがたいらしい。
二人ともなにも話そうとしない。
リートはミヒャエルを恨んだ。彼はわざと黙っているに違いない。あえて口を開かず、この気まずさを楽しんでいるのだ。
仕方ない。耐えられなくなったリートは口を開いた。
「ミヒャエル、ハーナル騎士団のことはルイスから聞いたんだけど、もう少し詳しく知りたいんだ。教えてくれる?」
ミヒャエルがリートに向き直り、にっこり笑った。
「もちろん。なにが訊きたい?」
「治安を維持するのが仕事だって聞いたけど、ミヒャエルはどんなことをやってるの?」
「わたしがやっているのは犯罪事件の捜査と逮捕だ。具体的には、殺人、傷害、強盗、暴行、誘拐、放火だな。入ったばかりの頃は支部で警邏をしたり、事件が起きたときは本部の補佐をしたりしていた。だが事件が起きたときに、わたしが本部の人間を差し置いて簡単に解決してしまったものだから、本部の人間――今の団長のことだが、わたしを気に入って本部に移動させてしまったんだ。そして気づけばいつの間にか隊長にまでなっていたというわけだ」
ミヒャエルはそこで言葉を切り、わざとらしくため息をついた。
「もっと無能なふりをしていればよかったのにと、いつも思い出すたび後悔する。そうすれば激務に追われることもなかったんだが」
出世できない人間からしてみれば、彼の言っていることは嫌味でしかなかったが、リートは気にならなかった。きっと自分のいた世界で生きていても、ミヒャエルは有能だったに違いない。
「なら、帰って仕事を片づけたらどうだ」
話を聞いていたルイスが憮然とした表情で横やりを入れたが、ミヒャエルに死角はなかった。ミヒャエルは、自分の容姿を最大限に利用した微笑みを浮かべてみせた(これをされて顔を赤らめなかった女性は、リートが知っているかぎりエミリアだけだった)。
「大丈夫だ。この日のために重要な案件はすべて片づけてきた。それにわたしがいないほうが、部下たちもゆっくりできていいだろう。日頃からこき使っているから」
ルイスが反論できずに押し黙ってしまったので、リートはまた話題を変えた。
「そうだ、ミリィ様におみやげを買ってくるって約束したんだけど、なにがいいかな」
城下街に出るという話をしたとき、エミリアは羨ましそうな態度を隠さなかった。
「いいなぁ、わたしも行きたいなぁ。城下なんて久しく出てないわ。わたしもちょっとサボって」
そう言いながらエミリアがルイスのほうをちらりと窺い見たが、ルイスが即座に冷たい視線を向けたので、仕方なくそこで言葉を切った。
「わかってるわよ、ちゃんと勉強するから」
「じゃあ、おみやげ買ってくるよ」
リートがそう言うと、エミリアの顔がぱっと輝いた。
「本当に? ありがとう、リート」
エミリアにぎゅっと手を握られてリートは思わず赤くなったが、それも束の間だった。というのも、彼女の手を握る力がものすごく強いので、痛みに耐えなければならなかったからだ。日頃から剣術の稽古を欠かさない彼女の握力は強い。
「その手を放せ、ミリィ。リートが困っている」
エミリアは手を放すと、面白そうにルイスのほうを見た。
「なに、わたしがリートを襲う心配でもしてるの?」
「馬鹿なことを言うな」
「じゃあわたしに妬いてるとか?」
「ミリィ!」
「冗談なのに」
喧嘩するほど仲がいいとは、ルイスとエミリアのような関係を言うのかもしれないとリートは二人の様子を思い出しながら考えた。
「初めてミリィ様も王女様なんだって思ったよ。王宮の外に出られないなんて大変だよね」
「昔はときどき無断で外出していたぞ。そのたびわたしは追いかけるはめになった」
「ふうん?」
ミヒャエルのどこか含みのある相槌に、ルイスが眉を上げる。
「なんだ、ミヒャエル」
「べつに深い意味はない。婚約者のことを知りたいと思うのは当然だろう? 一番つき合いが長いのはおまえだからな」
「二人はいつから知り合いなの?」
リートは前からそれが気になっていた。
「初めて会ったのはわたしが十三歳のときだ」
ルイスが即座に答えた。
「わたしが行儀見習いのために、メルヒオルについて初めて王宮に来たとき、彼女はほかの行儀見習いをしている貴族の男の子たちを庭で虐めていたんだ。わたしはやめさせようとあいだに入ったんだが、彼女は聞かなかった。それで言ったんだ。わたしと勝負して、わたしが勝ったら虐めるのはもうやめろと」
「それでどうなったの?」
「ものの見事に負けた。それ以来、彼女はわたしの越えるべき目標になった」
そう言って昔のことを思い出しているのか、遠い目になったルイスの向かい側で、ミヒャエルが呆れたようにため息をついた。
「……色気もなにもないな」
「なぜそんなものが必要なんだ?」
訳がわからないという顔のルイスに、ミヒャエルは肩を竦めただけだった。
目的の場所に着き、三人は馬車から降りた。
リートは外套についている頭巾をかぶって歩いていた。
それは、原理主義者たちを警戒したメルヒオルの指示だった。容姿のせいで不利益をこうむることについて思うことがないわけではなかったが、リートは反論しなかった。この国は金髪碧眼の人間が多数を占めていて、黒目黒髪の人間は稀なのだ。歩くだけで目立つのはいやだったし、これ以上危険な目に遭うのは避けたかった。
歩きながら、ミヒャエルがとおりに並んでいる建物について逐一説明してくれた。国立図書館、大学、芝居小屋、歌劇座――リートはどの施設にも入ってみたくてたまらなかった。
「すごくきれいに整備されてるんだね」
「二代前の国王、アウグストの時代に大規模な改造が行われたことで、王都は今の形になったんだ」
「どうして改造しようと思ったの?」
リートの質問にルイスが一瞬言葉に詰まる。
「それは……」
「一言で言えば平和になったからだな」
リートの質問に答えたのはミヒャエルだった。
「建国当初は、敵の襲来に備えて王都の周りには高い城壁が張り巡らされていたそうだ。確か昔の城壁跡があっちに」
ミヒャエルがそう言ってリートを連れていこうとすると、ルイスが遮った。
「駄目だ。行く場所は決まっている。ルーデル大聖堂だ」
ミヒャエルが肩を竦める。
「せっかく外に出ても、こういちいち場所まで決められたのではつまらないな」
「聖殿の件があるからだろう。メルヒオルも閣僚たちも、リートのいる場所を常に把握しておきたいんだ」
「先に決めておけば襲われないわけでもないだろうに。短絡的だな」
「いやなら」
「帰らないぞ。一応囮だからな。自分の仕事は全うするさ」
ミヒャエルが笑顔でそう言うと、ルイスは渋い顔になった。
ルーデル大聖堂は、白に水色の屋根を持つ荘厳な雰囲気の建物だった。
左右に一つずつ尖塔があり、中央の外壁には着色硝子の窓が嵌め込まれている。
「立派な聖堂だね」
「建てられたのは今から六百年ほど前だ。二十年の歳月をかけて造られた」
ルイスが説明すると、ミヒャエルが捕捉するように言った。
「ここは観光名所なんだ。リヒトの聖地として、他国からも人々が訪れる。ここまで巨大な建築物はどこの国にもないからな」
聖堂に足を踏み入れて最初にリートの目に入ったのは、床に細かいタイルで描かれた巨大な四芒星だった。
「これ、ルイスのペンダントと同じだ」
「リヒトを表す記号だ。四つの先端はそれぞれの方角を表している。これがなにから取られたものなのかは諸説あって、有名なものでは星だという説と、光を表象化したものだという説がある。だがどちらも決定打に欠けるので、長年議論が続いている。最新の研究によると――」
「これを二つ重ねると、リヒトガルテンの国章になるんだ」
ルイスの説明を途中で遮り、ミヒャエルは懐からハーナル騎士団の記章を取り出して見せてくれた。そこには、円の中に羅針盤のような形をした八芒星が彫刻されていた。どこかで見たことがある意匠だ。そう思ったリートは、はっとして耳に触れた。
「これって――」
ミヒャエルが微笑む。
「そう、君のしているピアスと同じだ」
「なぜわたしの話を遮るんだ、ミヒャエル」
「決まっているだろう、つまらないからだ。講義はこれくらいにして、見るべきはこっちだ」
不満げな顔で抗議するルイスに、ミヒャエルが極上の笑みを浮かべてそう言い放ち、リートを部屋の奥に誘った。
「すごい」
上を見上げたリートは、思わずそう声を漏らしていた。
床しか見ていなかったので目に入らなかったが、天井には一面に巨大な宗教画が描かれていた。翼の生えた童子が何人も描かれている。
「あれは天使なの?」
リートが指で示しながら言うと、ルイスがうなずく。
「そうだ。天使はリヒトを信じる人間を守ってくれる存在なんだ」
こちらの世界にも、天使という概念は存在するらしい。ならば、きっと悪魔も存在するのだろうとリートは思った。
「あの、リート、頼みがあるんだが……」
ルイスが突然そんなことを言ったので、リートは少し驚いた。
彼が自分になにかを頼んだのは、ルーツィアに会ってほしいと言われたとき以来だった。
「なに?」
「せっかくだから、礼拝してきてもいいだろうか」
「ルイス様、なにも今でなくても、俺たちはいつでも来られるでしょう?」
ヴェルナーが呆れた顔で言うと、ルイスはとんでもないとばかりに眉を吊り上げた。
「それは違う。こんな機会でもないと、ここはなかなか礼拝できない場所なんだ。休日は観光客だらけで、礼拝どころの騒ぎじゃないからな」
そう言いながら、ルイスがなんとなくそわそわしているのが面白くて、リートは笑いをこらえながら言った。
「いいよ、行ってきて」
ルイスがほっとしたように笑う。
「ありがとう」
「君は礼拝しなくていいのか、リート」
ミヒャエルがからかうようにそう言ったが、リートは遠慮がちに首を振った。
「僕はいいよ、べつになにかを信仰してるわけじゃないから」
ルイスが行ってしまってから、リートは祈りを捧げている人々をなんとなく眺めた。ルイスと同じように、首にかけた四芒星のペンダントを握って祈っている人もいれば、手を組んだり、胸に手を当てて祈ったりしている人間もいる。
リートは昔から、リヒトのような存在には懐疑的だった。
自分の住んでいた国では、都合のいいときだけそういう存在に頭を下げてなにかを願う。しかも願いの内容はたいてい、希望の学校に合格したいとか、恋愛がうまくいくようにとか、事故に遭わないようにとか、健康でいられるようにとか、そんなことばかりだ。
だが、ルイスはそういう人間たちとはなにかが違うような気がした。
しかしなぜそう思うのか、なにが違うのか、リートはうまく言葉にできなかった。
祈りを捧げるルイスの姿を見ながら、リートがそんなことを考えていたとき、突然床にバラバラと物が落ちる音がして、リートははっと現実に引き戻された。
だれかにぶつかられたのか、男が辺りに鞄の中身をぶちまけていた。書類や筆記用具が床に散らばっている。男はすばやく中身を掻き集めて鞄に入れると、何事もなかったかのようにまた歩きだしたが、リートは男が本を拾い忘れていることに気づいた。
男が行ってしまってから、リートは駆け寄って床に落ちている本を拾い上げた。
それは、黒い革表紙の分厚い本だった。表紙の字は読めなかったが、装幀もしっかりしていて高価そうな本だ。
なにかを考える前に、リートは前を行く男の背中を小走りで追いかけていた。大聖堂の出口の階段を下りた所で、リートはやっと男に追いついた。
「あの!」
リートが声をかけると、男が振り向いた。年齢は三十代半ばくらいだろうか。よく見ると、男の目は斜視だった。片目の焦点がわずかに内側に寄っていて、一見するとどこを見ているのかまるでわからない。
「あの、これ。忘れものです」
そう言ってリートは本を差し出した。
男はしばらく黙って本を見つめていたが、不意に微笑んだ。
ミヒャエルとはまた違う、上品で柔らかな笑みだった。
「ありがとう」
男はそう言って本を受け取ったが、本に目を落としたまま黙ってしまったので、リートは少し困った。彼も自分と同じで話すのが苦手なのだろうか?
「あの、じゃあ僕はこれで」
それならほかになにも言う必要はないと思い、リートはそれだけ言って、ルイスたちのところに戻ろうとした。
「光ある処に闇あり。闇ある処に光あり」
唐突な男の言葉にリートは振り返った。
男が本を手に持ったまま、詠うように言葉を紡ぐ。
「光が強くなるほどに、闇もまた深くならん。
闇を恐るることなかれ。両者は常に同じもの。
すべてが闇に覆われるとき、新たなる光は生まれ出でん」
「リート!」
背後から聞こえてきた声に、リートはまた振り返った。
走ってきたのはルイスだった。後ろにはヴェルナーもいる。
「ごめん。本を忘れていった人がいたから、届けにいってたんだ」
そう言いながらリートは男のほうを見たが、そこにはもう男の姿はなかった。
リートは目をまたたかせた。
「さっきまでここにいたのに」
自分に連れがいるとわかって行ってしまったのだろうか。リートが考え込んでいる横で、ルイスが心配そうな表情でリートを見つめていた。
「そういうことは、わたしかヴェルナーに言ってくれ。君になにかあっては困る」
リートは内心大袈裟だなと思いながらもうなずいた。ミヒャエルの言うとおり、確かに彼は過保護だ。そう思いながら、リートはミヒャエルがいないことにふと気づいた。
「ミヒャエルは?」
「遅いから置いてきた」
ルイスが答えると、隣でヴェルナーがにやっと笑った。
「せっかくですし、このまま置いていったらどうです?」
「ご挨拶だな。ちゃんとここにいるぞ」
突然声がして、リートは驚いた。背後から現れたミヒャエルがリートに微笑んだ。
「急にいなくなるから心配したぞ。大丈夫だったのか?」
「うん。本も届けられたし」
「それはよかった」
「まったくよくない」
割って入ったのはルイスだった。
「リート。君はわたしたちをもっと頼るべきだ。ただでさえ、君はほとんどの召し使いを断ってしまっているのに、これではわたしたちがいる意味がなくなってしまう」
ミヒャエルが呆れた表情で肩を竦める。
「リートもおまえと同じで、自分のことは自分でやりたい主義なんだろう。だいたい、今どき召し使いを大勢引き連れている人間なんて大貴族だけだぞ」
「それとこれとは話が違う。これはわたしの仕事なんだぞ」
「仕事だとしても、主人の気持ちは尊重すべきだと思うがな。気軽にリートが頼めないのはおまえにも問題があるんじゃないのか、ルイス」
ミヒャエルがからかうような口調でそう言うと、ルイスは冷たく言い捨てた。
「部外者は黙っていてくれ」
「た、頼みならあるよ」
リートは勇気を出して、二人のあいだに割って入った。
「これからは、ミヒャエルに冷たくするのはやめてほしい……」
リートが恐る恐るそう言うと、ルイスの表情が固まった。
「それは……」
ヴェルナーがやれやれという表情になる。
「自分で自分の首を絞めてどうするんですか、ルイス様」
三人のやりとりを黙って聞いていたミヒャエルが、こらえきれず吹き出した。
馬車の中で自分をからかったときもそうだったが、彼は意外と笑い上戸らしいとリートは思った。ミヒャエルが息も絶え絶えに笑っているので、ルイスはずっと不機嫌な顔でそっぽを向いていた。
「でも、さっきの人はなんだか変な人だった。光がどうとか闇がどうとか……」
リートが首を傾げながら言うと、ミヒャエルが瞬時に真顔になった。
笑い転げていた彼とはまるで別人のようで、その切り替えの速さにリートは驚いた。
「闇? 本当にそう言ったのか?」
「うん」
考え込んでしまったミヒャエルの横で、ヴェルナーがリートのほうを見た。
「それで、これからどうします? また戻りますか?」
問われてから、リートは聖堂の中をよく見ていなかったことを思い出した。
「そうだね。戻ろう」
四人は階段を上り、また聖堂の入り口に立った。
リートが足を踏み入れようとしたその時、前を歩いていたルイスが急に立ち止まった。
「ルイス?」
リートは訝しげな表情でルイスを見た。
「どうしたの?」
「いや、なんでもない」
しかし、ルイスがそう言った直後だった。聖堂の奥でドン! という音が響き、リートたちの足元が地鳴りのように揺れた。
