第20話 デートしてみる(2)

 シュンたちが歩いている大通りは、駅に向かう人間たちで混雑していた。
 歩道の右側には等間隔で街路樹が並び、左側には高層ビルが並んでいる。
 メグは歩きながら、興味深げに周囲を観察していた。
「人がいっぱい。今日はお祭りでもあるの? いろいろ配ってるし」
「都会は毎日こんなかんじだよ」
 広告入りのポケットティッシュやビラを配る人間を避けて歩きながら、シュンは言った。
「そうなの? みんなどこに行くの?」
「いろいろだよ。たいていの人は、暇だと外に出て過ごすんだ」
 シュンは、昔からそんな人間の気持ちがまるで理解できなかった。人混みの中にいるのは疲れるし、店の中は音楽がひっきりなしにかかっていて落ち着かない。
「ねえ、あれも配ってるの? あれならわたしも欲しいわ」
 メグがそう言って指差したのは、スタッフの女性が手にしている色とりどりの風船だった。なにかのイベントで配っているらしい。
「だめだよ、子供限定って書いてある……」
「あ……!」
 そのとき後ろで声がして、シュンが振り返ると、ちょうど女の子の手から赤い風船が離れたところだった。配られた風船を放してしまったらしい。掴まえようとした母親の手をすり抜け、風船が高く上昇していく。
 しかし、急に上空からさっと風が吹いてきて、風船を地上に押し戻した。
 空からゆっくりと落ちてきた風船の紐を、メグが掴む。
「はい、どうぞ」
 メグが女の子の前にかがんで風船を差し出すと、彼女はびっくりした顔で固まっていた。隣にいた母親が慌てて言う。
「ほら、お礼は?」
「……ありがとう」
 女の子がそう言うと、メグは女の子の頭を撫でてから立ちあがった。
「いいのか? あんなことして」
 親子が行ってしまってから、周りに聞こえないようにシュンが小声で言うと、メグは一瞬口元を上げてから、首を傾げた。
「あんなことって? ただの風の悪戯いたずらよ」
 そう言って何事もなかったかのように歩きだしたメグを見ながら、シュンは無意識に口元を上げていた。彼女が子供から風船を取ってしまうのではないかと心配した自分が少し恥ずかしかった。
(なんなんだろ、ほんと)
 よくわからない。
 ゲームのイベントじゃないのに、彼女といるとなぜかいろいろなことが起きてしまう。
 昔から、そんな物語みたいな事象とはひとつも縁がなかったのに。
 テレビで芸能人が語るエピソードも、SNSで拡散されているちょっといい話や、面白い話も、全部作り話だと思っていた。でもそれは、今まで自分が真剣に生きていなかったから、なにも起こらなかっただけなのかもしれない。
 そこまで考えてから、シュンは我に返った。
 しまった、また早足になっていた。隣を歩いていたはずのメグがいない。
 シュンが慌てて周りに目を走らせると、メグは建物に貼ってあるポスターの前にたたずんでいた。シュンは急いでメグに駆け寄った。
「メグ! 急にいなくなったらびっくりする……」
 しかし、メグはシュンの声など聞こえていないかのように、ポスターに印刷された絵を食い入るように見つめていた。
 それは、極彩色で描かれた不思議な絵だった。そういえば、彼女の本職は建築デザイナーだった。あの役所のような前衛的な建物をデザインしてしまうのだから、絵画にも興味があるのかもしれない。
「それが気になるの?」
 メグが頷く。
「この絵を見たいわ。ちょっと寄っていきましょう」
「え、でも……」
 デパートはすぐそこなのに。ポスターに表記してある美術館の所在地は、ここからそんなに離れていなかったが、しばらく歩かなければならない。
「お願い、ちょっとだけ。どっちへ行けばいいの?」
 メグはそう言うと、ごく自然にシュンの腕に自分の腕を絡めて歩きだそうとした。
「ちょっ」
 腕を組んで歩くなんて。しかも、
(む、胸に当たってる……)
 明らかに自分の肘が、彼女の柔らかな部分に接触している。シュンは腕を引き抜きたかったが、メグががっちり掴んでいるので不可能だった。
「わかったから、メグ、ちょっと離れて……」
「いや」
 あっさり拒否されてしまい、シュンは頭を抱えた。
(なんでこうなるんだ……)
 昔から自分が少しでも嫌がる反応を示したら、気難しいと思われてみんな離れていってしまうのが常だったのに、メグはまるで気にしていないようだった。
 そんな相手を恋人にしておいて、触らずにつき合おうという考え自体が間違っていたのだ。そのことに、シュンは遅まきながらこの時気づいた。

 平日の美術館は閑散としていて、人の姿はまばらだった。
 メグは、ポスターに描かれていた実物の絵をじっと観ていたが、シュンはこの絵のどこがいいのかさっぱりわからなかった。
 まず、描いてあるものがなんなのかわからない。抽象画だからそれは当然なのだが、色使いとか筆遣いとか、そんなものでしか判断できる要素がない。なぜ作者がこんなものを描こうと思ったのか、シュンには理解できなかった。
「どこがいいのか全然わからないんだけど……」
「こういうのはね、いいとか悪いとか、下手とか上手とかじゃないの。これがこの人の描きたかったものだというだけ」
「そういうもの?」
 シュンが半信半疑な口調で言うと、メグが頷いた。
「そういうものよ。わたしの友達は画家をやっているんだけど、描いていると、いつも絵が自分の想像を超えていくんですって。それが楽しくて描いているそうよ」
「それ、できあがるまではどんな絵になるのか自分でもわからないってこと? 自分で描いてるのに?」
「ええ。最初からどんな絵になるかわかっていたら、描く意味がないでしょう? 題材は決まっていても、どんな絵になるかまでは、作者自身にもコントロールできないの」
「ふうん……」
「この絵はだめだな」
 そう言ったのは、近くにいたポロシャツにジーンズ姿の青年だった。背中には黒いリュックを背負っている。隣にはピアスをつけた明るい茶髪の女性がいて、大きめのトートバッグを肩にかけていた。
 二人とも社会人には見えない。きっと大学生だろうとシュンは思った。
「なんでだめなの?」
 女性がたずねると、青年は当然だという表情で言った。
「だって、全体的に間延びしてるし、緊張感がまるでない。構図もありきたりだし、奥行きもないし、つまらない絵だよ」
「んー、言われてみれば確かにそうかも……」
「そんなことないわ。この絵はとても素敵よ」
 メグがいきなりそんなことを言ったので、シュンは焦った。
 相手は偏差値の高い有名大学とか、美術大学に通う学生かもしれないのに。
「そう思うのは、あなたが技術でしか作品を見ていないからよ」
 突然メグに話しかけられた青年が警戒した表情になる。
「あなたも絵を描くんですか?」
「いいえ。でもどうやって観ればいいかは知ってるわ」
 メグはじっと青年を見た。
「どうしてそうやってわかった気になろうとするの? わからないならわからないでいいのに。こうやって絵の目の前に立って、観て、ただ感じればそれでいいの」
 青年が不愉快そうに眉を上げる。
「さっきからなんなんですか? 俺にけん売りたいわけ?」
「すみません……!」
 シュンは慌てて二人のあいだに割って入った。
「ほら、もう行こう、メグ」
 しかしメグが動こうとしないので、シュンはメグの両肩を押して無理やり歩きだした。
「なに、あの人」
「さあ? 頭がおかしい人アスペルガーなんじゃない?」
 そう言って笑う女性の声が耳に入ってきて、シュンは急いでその場を離れた。
 違う。彼女はどこもおかしくなんかない。率先して高齢者に席を譲るし、女の子のために風船を取ってあげることのできる人間なのだ。
 そこだけ見て判断しないでほしい。
 でも結局、自分はなにも言い返せずにこうやって逃げている。
 揉めるのが嫌だったから?
 彼女と一緒にされたくなかったから?
 自分は彼氏なのに。
「瞬、大丈夫?」
 心配そうな表情のメグに、シュンは力なく頷いた。
「うん……」
 シュンは自分が情けなかった。そう言わなければならないのは自分のほうなのに。
「……ごめん、なにも言えなくて」
 シュンが小さな声で言うと、メグが目を伏せた。
「わたしこそごめんなさい。あなたがいるのに、いつもの調子で話してしまったわ」
「いいよ、べつに。君の言うとおりだったし」
 メグが黒目がちな瞳をまたたかせる。
「なにが?」
「確かにあの人たちは、勝手にいろいろ決めつけてた」
 シュンがそう言うと、メグが嬉しそうな顔になった。
「わたしは自分のことをよく知らない人に、なにを言われても平気よ。それでわたしの価値が損なわれるわけじゃないし」
「俺は気にするよ」
 シュンが即座に言うと、メグが首を傾げた。
「どうして?」
「それは……」
 どうしてだろう。どうしてそんなふうに思ってしまうのだろう。
 彼女が恋人だからというだけではない気がする。
 でも、よくわからない。
「デパートに行こう。……なにも買えないけど」
 シュンはメグの問いには答えず、それだけ言った。
「そのまま一泊するの?」
「しないよ」
 シュンが呆れながら言うと、メグがふふっと笑った。
 今のは本気ではなく、冗談だったらしい。
 それだけのことなのに、なぜかシュンは心が少しだけ軽くなるのを感じた。
「行こう」
「待って、瞬」
 メグは呼びとめると、自分の手をシュンに向かって差しだした。
 そんなことをされて、シュンは自分でも滑稽なほど動揺した。身体的な接触はできるだけしたくなかった。
 でも、彼女がそれで喜んでくれるなら――。
 シュンは思いきって、メグの手に自分の指を絡め、ぎゅっと握った。
 メグが嬉しそうに笑う。
 まったく――性行為はしたくせに、手を繋ぐだけでこんなに緊張するなんて、自分はいったいなんなんだろう。訳がわからない。
 シュンはそう思いながら、メグと手を繋いで歩きだした。胸の動悸はまだ当分おさまりそうになかった。