第23話 半年後(2)

 会計を済ませて店の外に出たとき、メグがいいことを思いついたという表情でシュンを見た。
「そうだ、どこかでお菓子を買って、家でお祝いしましょう」
「え、いいよ、そんなの。さっきデザート食べたし」
「わたしがそうしたいの」
 メグがどうしてもと言って譲らないので、シュンはメグを連れてデパートに行くことにした。地下にあるスイーツコーナーには、有名なパティスリーや菓子ブランドの店が並んでいる。
「どれがいい?」
 ショーケースに並べられたケーキを品定めしながら、メグがそう言った。
「生クリームが入ってなければどれでもいいよ」
「苦手なの?」
「うん……」
 問われてシュンは気まずげに頷いた。
 コーヒーは飲めないし、生クリームも苦手。自分の体質はなかなかに面倒だ。
 誕生日のケーキはチョコレート味のほうが安かったから、家計には優しかったのだが。
「じゃあ、クッキーにするわ」
 そう笑顔で言うメグを見たとき、シュンは久々に、例の胸の詰まる感覚に襲われた。
「うん……ありがとう」
 こうなるときは、自分が嬉しいと思っているときなのだと、シュンは最近になってようやく気がついた。
 彼女はそんな自分のことを面倒だと思っていない。
 それどころか好きだと言ってくれている。
(でも俺は、メグと一度も性交渉をしていない)

 メグがレジに並んでいるあいだ、シュンは手持ち無沙汰で、ワゴンに積んである焼き菓子入りの箱をぼんやり眺めていた。
(こういうのを作ろうと思ったら、オーブンがないと難しいよな……)
 いっそのこと、今使っている電子レンジを捨てて、オーブンレンジに買い換えようか。シュンはそう思ったが、今月は高い服も買ってしまったし、外食もしたから、そういうわけにもいかなかった。
 今年の収入がいくら多くても、来年はかなりの額を税金で持っていかれてしまう。今はなんとかなっているが、来年もこの生活が維持できる保証はどこにもないのだ。
 ひとつ不安が解消されても、今度はまた別の不安が湧いてくる。
 メグとのこともそうだ。メグは、ときどき自分を誘うように身体に触ったり、距離を詰めたりしてきたが、シュンは頑として応じなかったし、そういうことをしたくなっても、仕事をして気を紛らわせてきた。
 高級レストランでディナーをしても、いろいろプレゼントをあげても、自分はメグが本当に望んでいるものをあげていない。
 だが終着駅までは行かないと決めている。
 それは生活が安定しても変わらない。
 変わらない、はずだ。
「シュンくん?」
 突然声をかけられ、隣を見てシュンは驚いた。
「舞花さん……」
 そこには、黒のスプリングコートを羽織った舞花が立っていた。
「びっくりした。こんなところで会うなんて」
「ええ、俺も驚きました」
 そう言いながら、シュンは舞花の様子を観察した。
 結婚しても、彼女は相変わらず隙のない格好をしていた。髪はきれいにセットされているし、化粧にも手抜かりがない。首と耳には、ブランド物のネックレスとピアスが輝いている。きっと夫に買ってもらったのだろうとシュンは思った。自分がメグに贈った物とは、きっと桁がひとつ以上違うに違いない。
「あ、そうだ、結婚おめでとうございます」
 言い忘れていたのを思い出して、シュンはそう言った。
 三か月くらい前に、シュンはずっとやめていたSNSのページを久しぶりに開いて、結婚の報告をする舞花の書き込みを目にした。どこかの南の島で撮ったらしいウェディングフォト。青い海を背景に笑顔で映っている舞花の姿を見ても、シュンは特になんの感情も湧かなかったので、さっさとフォローを外してしまった。それ以来、彼女のページは一度も見ていない。
 舞花が控えめに微笑む。
「ああ、うん。ありがとう」
 しかし彼女がすぐにうつむいてしまったので、シュンは困惑した。
 そういえば、シュンの記憶にある姿より、彼女は少し痩せたような気がした。
 写真撮影や結婚式のために、ダイエットでもしたのだろうか。
(いや、そうじゃなくて……なんか、元気がないような?)
 だいたい、なぜ彼女は閉店間際のデパートにひとりでいるのだろう。
「シュンくんが作ったゲーム、すごいよね。SNSでも評判だし……取材も受けたんでしょ?」
「いえ、あれは運がよかっただけですから」
 シュンはいつものように言った。それと絵を描いてくれたメグのおかげだ。
 時代のニーズを読む能力なんて自分にはない。
 自分がプレイしたいと思ったゲームを作ったらたまたま売れた、それだけのことだ。
 舞花が大袈裟に首を振る。
「そんなことないよ、シュンくんの実力だよ」
 言われてシュンは、自分が失敗して落ち込んでいたときも、舞花がそのたびに励ましてくれたことを思い出した。あれは、彼女は自分のことを本気で心配していたわけではなくて、それらしい言葉を並べ立てていただけだったのだろうか。
 今となってはもうわからない。知りたいとも思っていない。
 心地がいいだけの、空疎な言葉。愛想のいい笑顔。
 だが、そんな彼女に甘えていたのは自分だ。
「あの……」
「今、ひとり?」
「え?」
 シュンは何秒か経ってから、それが連れはいないのかという意味なのだと気づいた。
「いえ、今はを待ってて……」
 シュンがレジのほうを見ながらそう言うと、舞花は一瞬戸惑った顔になったが、すぐにまた笑顔を浮かべた。
「そっか。ごめん、邪魔しちゃったね」
 シュンはなんだか落ち着かない気分だった。
 なぜ結婚した彼女のほうが、自分に気を使っているのだろう。
 それに、どうして自分がひとりか確認したのだろう。
「あの」
「なに?」
 舞花が不安そうな顔になったのを見て、シュンは口を閉じた。
「いえ、なんでも」
「瞬!」
 店のロゴが入ったビニール袋を片手に、メグが笑顔で駆け寄ってくる。
 しかし、メグはシュンの隣に人がいるのに気づくと、シュンの背中に半分隠れるように立った。メグの態度にシュンは少し驚いた。
 彼女が人を警戒するそぶりを見せたことは、今まで一度もなかったのに。
「前に会社で一緒だった人」
 シュンはメグにそう紹介した。
 舞花が笑顔でメグに頭を下げる。
「初めまして」
「……初めまして」
 それだけ言うと、メグは固い表情でシュンの横に立ち、シュンの腕にぎゅっとしがみついた。それを見た舞花の顔がかすかに強張ったが、また笑顔に戻った。
「じゃあ、もう行くね。邪魔したら悪いから」
「あ、はい……」
 デパートの人混みに消えていく舞花の背中を、シュンは複雑な気持ちで見送った。
 歩きながら、シュンは舞花とのやりとりを思い返していた。
(結婚相手とうまくいっていないんですか?)
 そうきたかったけれど、訊けなかった。
 それはさすがに踏みこみすぎだとシュンは思った。
 彼女と自分はもうなんでもない。一時的に関係を持っていただけだ。
 シュンは自分のことをいろいろ話したが、舞花は自分の身の上話をしようとしなかった。だから、自分とつき合うことを彼女は望んでいないのだと思っていた。でも今になって考えてみれば、彼女があの場で突然結婚すると言ったのは、自分がどんな反応をするか知りたかったせいかもしれない。
 シュンはうつむいた。
(……無理だよ、そんなの)
 彼女は自分の気持ちをなにも言わなかった。そして、自分も訊こうとしなかった。
 そうやって、お互いに踏みこむことを恐れていた。
 だれかに期待したって仕方ない。それがシュンの出した結論だった。
 今の生き方が嫌なら、自分で変えるしかないのだ。
 自分の人生の責任は、だれも取ってくれないのだから。
 でも、自分ひとりでできることなどたかが知れている。それも事実だ。
 彼女は結婚相手に思っていることを話すだろうか。
 たぶんしないだろうとシュンは思った。
 そしてなにも言いたいことを言えずに、時間だけが過ぎていくのだ。
 きっと、昔の自分のように。
 シュンはため息をついた。
(やっぱり、俺はなにもできないな)
 ……それより。
「メグ、いつまで掴んでるんだよ」
 シュンは嗜めるように言った。二人はデパートの地下を通って駅まで来ていたが、そのあいだもメグは、シュンの腕を掴んだまま離れようとしなかった。
「メグ?」
 その時、いきなり彼女の両手が頬に伸びてきて、シュンはメグにそっと口づけられていた。
(な)
 体温が一気に上昇するのを感じながら、シュンは焦った。
 こんな人の多い場所で――しかしそんな思いが頭をかすめたのは一瞬で、シュンはすぐになにもかもがどうでもよくなってしまった。
 でも、なんだかいつもより唇の感触が硬い気がする。
 シュンは唇を離してメグの顔をのぞき込んだ。
「どうしたんだよ、メグ、言いたいことがあるなら」
 しかし、メグは黙ったままシュンにぎゅっと抱きついた。
 シュンは背中に手を回しながら戸惑った。
(嫉妬か? いや、違う)
 ……不安だったのか。
 自分が舞花のことばかり気にかけていたから。
 彼女がここで頼れるのは自分だけなのに。
「……大丈夫だよ。俺が好きなのはメグだけなんだから」
 シュンがそう囁くと、少しだけメグの拘束が緩んだ。
 金銭や身体目当てではなく、自分を必要としてくれる人がいる。
 それはとても幸せなことだ。
 今ある幸せを大切にしなければと、シュンはメグを抱きしめながら思った。