第26話 拒絶

(お願い、瞬)
 裸のメグがシュンに囁く。
(でも、俺は……)
 できない。
 だって俺は、君を愛していないから。

 シュンは瞼を開けた。
 眠っていたのか判然としないまま、気づけば朝になっていた。
 夢なのか妄想なのかもわからない。
 けれど、そんな淫らな夢想をしている自分に嫌悪感が募った。
 愛していないのに、大切にできないのに、快楽のためだけに性交渉をするわけにはいかない。いくら身体が彼女を求めているとしても。
(今の生活が維持できればそれでいいんだ)
 シュンはそう自分に言い聞かせた。
 ほかにはなにも望まない。自分が好きなのはゲームを作ることや仕事であって、メグではない。たとえ許されなくても、このままずっと彼女と一緒にいる覚悟なんてできない。恋愛なんてしょせんは一過性のものだ。今はそれでよくても長続きするわけがない。
 実際、両親はうまくいかなかった。これ以上深い仲になってから別れるなんて耐えられない。性交渉をして一線を越える勇気もない。
(なら、別れるしかないじゃないか)
 彼女の気持ちに応えられない彼氏なんて、いないほうがいいのだ。

「おはよう、瞬」
「……おはよう」
 トースターで焼いた食パンを皿に並べながら、シュンはなるべく普段通りの口調を装ってそう言った。
「大丈夫? 昨日はちゃんと寝た?」
「……寝たよ」
 嘘だった。本当は明け方近くまで眠れなかった。
朝食が終わったあとで、シュンはためらいがちに口を開いた。
「でも、ずっと一緒にいるって言っても、だれかが君を連れ戻しに来るんじゃ」
「その心配はないわ。ここに来る前に、管理者たちがわたしを追って来られないように閉じ込めてきたから」
「閉じ込めてって……」
 シュンが言葉を失っていると、メグが微笑んだ。
「ここから出ようという意志がある限り、決して出られない部屋。素敵でしょ?」
「どうしてそこまで」
「どうしても、またあなたに会いたかったから」
 創作の世界なら、今のは感動する場面だったのかもしれないが、シュンはむしろ恐怖を感じて固まっていた。
 いくらなんでも、彼女の行動は度を超している。
「大丈夫、出られなくてもみんな死なないわ。自分でなんでも出せるし」
「……そういう問題じゃないだろ、メグ」
 自分の目的を叶えるために、関係のない人間を犠牲にする。それは悪いことだ。
 身勝手。シュンのいる国では特に忌み嫌われる。個人の意思よりも、全体の利益や波風が立たないことを優先させてしまうから。
「向こうに法律はないのよ、瞬。わたしを裁ける人間はいないわ」
 シュンは反論しようとしたが、なんと言っていいのかわからずうつむいた。
 メグを責めたところでなにになるだろう。彼女には罪を犯したという意識自体がない。悪気もない。しかし、メグに罪を犯させているのはほかでもない自分だ。
 彼女が自分に出会わなければ、こんな事態にはならなかったのに。
 こんなことは間違っている。
 自分はメグを変えてしまった。その責任を取らなければ。
 シュンは意を決して口を開いた。
「……メグ、俺たち」
「ねえ、瞬」
 覚悟を決めて話しだしたのにすぐに遮られてしまい、シュンは少し苛立った。
「……なに?」
「もし、突然自分が昨日と同じ時間を繰り返してしまうようになって、そこから抜け出せなくなったらどうしたらいいと思う?」
 突然そんなことを問われたせいで、シュンは苛立っていたことも忘れて目をしばたたかせた。
(無限ループってやつかな)
 物語のループ構造はフィクションでは珍しくない。ゲームやアニメでもよく使われる。 それがつらい現実を直視できず、空想に逃げてばかりで決断できない若者の幼稚さの表れなのだと、専門家たちは口を揃えて言う。
(つらい現実にしてるのはどこのだれだよ)
 シュンはいつも心の中でそう言い返していた。
 つらいならば、少しでもつらくないように、世の中を作り替えるのが自分たち大人の役割のはずなのに。
「そりゃ、だれかに止めてもらうか、繰り返してる原因を突き止めて正常に戻すしかないと思うけど」
 答えながら、シュンはふと思った。
(でも俺って、まさにそんな状態だったよな)
 そうだ。メグに出会うまでは。
 昨日と代わり映えしない生活を繰り返すのをやめようと思えたのは、メグに会えたからだ。だから新しいゲームを作ろうと思った。
 彼女に出会っていなくても、会社はいつか辞めていたかもしれない。でもきっと、こんなに早く決断できなかった。
 そして、自分はまた前に進めなくなっている。
 今度は彼女のせいで。
「メグ。昨日ジーンがここに来て、そのときに頼んだんだ。君のことも向こうの世界のことも、俺の記憶から消してくれって」
 メグの黒目がちな瞳がじっとシュンを見た。
「忘れるつもりなの? 全部」
「だって仕方ないだろ。そもそも設定が間違ってたんだ。だからリセットして仕切り直す」
(……なにもかも。君とのことも全部)
 シュンはそう心の中で結び、自嘲するようにメグに口元を上げてみせた。
「俺ってそういうひどいやつなんだよ、メグ。だから俺のことなんて忘れたほうがいい」
 しかし、メグは表情を変えず、シュンを見つめ続けていた。
「……それで? 結局あなたはわたしをどう思っていたの?」
 それは。答えられないシュンに、メグがまた口を開く。
「わたしはあなたのなんだったの?」
 メグから視線を逸らし、シュンは爪が手のひらに食いこむほど固く手を握りしめた。
「……なんでもない」
 なぜこんなことを言わなければならない?
 この世界で自分は何者でもない。だれにも必要とされていない。
 いてもいなくても同じ。昔、その事実に一番傷ついたのは自分だった。
 なのになぜ。どうして?
「……そう」
直後、ばさりと音がして、シュンが顔を上げると、メグがワンピースを脱いだところだった。
「メグ……なにして」
「だったら、最後に一度だけそういうことをして。どうせ忘れてしまうんだから。あなたがわたしを好きでなくてもかまわないから」
 飾り気のない白の下着を身につけた彼女のほっそりとした手足や、くびれた腰を見ていると、口の中が渇くのを感じて目を逸らした。こんなときでも性的な目で見てしまう自分が嫌になる。
「――いやだ」
「どうして?」
「俺は君を愛してないから」
「そういうことは、関係ないんじゃなかったの?」
「それは」
 好きだから必ずしなきゃいけないわけじゃない。
 最初にそう言ったのは自分だった。
「わたしはあなたを愛しているわ」
 シュンは顔を背けた。
「……やめてくれ」
 そうだ、これが自分の望みのはずだった。そう相手に言わせることが。
 ずっと一緒にいてほしい。
 ゲームでキャラクターにそう言わせたように。
 だが自分は、彼女に愛される価値なんてどこにもない人間だった。
「……どうしてそこまでするんだ」
「あなたにあげたいから」
メグが腕を伸ばし、シュンの胸郭に触れる。
「……すべてを」
 そう言われたとき、シュンはすべての時間が止まったように感じられた。
 違う。彼女にとってはそうでも、自分にとっては奪うことだ。
 自分にはその代償を払えない。責任も取れない。
 シュンは自分が着ていたパーカーを脱いで彼女に着せ掛けた。
「俺はずっと、君を利用してるだけだった」
 それだけでもひどいのに、これ以上最低な人間にはなりたくない。
 彼女の欲しいものを自分はなにも与えられない。
 都合よく彼女に愛を囁いて、飽きたら捨てるなんて真似はしたくない。
 自分のような人間は、ずっと独りでいたほうがいいのだ。
「俺は君が思ってるほどいい人間じゃない。ずぶ濡れの君を助けたのだって、ここに置いていたのだって、自分が薄情な人間だとだれかに思われたくなかったからだ。それだけのことだよ」
「それは嘘よ」
 即座にメグに否定されて、シュンは苛立った。
 そんな簡単に、わかったようなことを言わないでほしかった。
「君が俺のなにを知ってるって言うんだ」
「……知ってるわ」
 メグがそっと囁くように言う。
「あなたは本当は優しいのに、そうやって冷たいふりをしてるってこと。本当は、ほかのだれより傷つきやすいってこと。心を許して傷つくのが嫌だから、先に離れようとしてしまうこと」
 ――どうして。
 シュンはまともに息ができなかった。
 メグは自分のことを的確に把握している。自分自身よりもはるかに深く。
 いつも理解されないことに失望してきた。
 でもいざそれが実現したとき、シュンは恐怖を感じた。
 もうどこにも逃げられない。自由でいられない。
 知られたくない。これ以上なにも。
「でもわたし、あなたのそういうところが好きなの」
「……だったら、君は人を見る目がない」
 そんな自分のどこがいいというのだろう。彼女はおかしい。
 恋している自分に酔っているのだとしか思えない。
「わたしはずっとここにいるの。ずっとあなたと一緒にいるの」
「いたってどうにもならないぞ」
「あなたと一緒にいられれば、わたしはそれでいいの」
「……勝手にしろよ」
 シュンはそう言い捨てると、携帯電話と財布だけを持って部屋を出た。
最初はジーンズのポケットに手を突っこんで歩いていたが、気づけばシュンは、闇雲に駆け出していた。
(なんでなんだ)
 なんで全部捨てなきゃいけないんだ。
 そうじゃなきゃ、愛してることにならないなんて無茶苦茶だ。
 本当に彼女を愛している人間なら、きっとすべてを捨てても惜しくないと言うのだろう。でも、そんなことができるわけがない。
 そんなふうに考えてしまう自分は、きっと向こうに住む資格がないのだろう。
 結局、自分はこの世界の人間なのだ。純粋でいられたのは、幼いときだけ。
(なら、なにもかも忘れるしかないじゃないか)
そう思ったとき、ふいに涙がこぼれてシュンは立ち止まった。
「……なんで」
 なぜこんなに苦しいのだろう。
(そんなの、わかりきったことだろ)
 そう自分のうちで声が囁く。
(俺は、メグのことが好きなんだ)
 性的な関係で結ばれていなくても、愛していると伝えていなくても。
 自分で思っているよりも、はるかに深く。
 ずっと、自分の気持ちを認めるのが怖かった。愛情は大事だと思っていたが、異性間の愛は信じていなかった。あるのはいつも打算と性欲だけ。まったく美しくなんかない。
 どうして好きになってしまったんだろう。
 報われないのに。つらくて苦しいだけなのに。
(でも俺は、幸せだったんだ)
 彼女と過ごせて。
 彼女を好きになって。
(どうしようもなく、幸せだったんだ)