第27話 再び図書館で

 どうすればいい?
 シュンは何度めになるかわからないため息をついた。
 シュンは久しぶりに図書館に来ていた。メグと顔を合わせるのが気詰まりで、ひとりで外に出かけたのだ。
 あの日からずっと、シュンはまともにメグと口を利いていなかった。
 自分がリビングで仕事をしているあいだ、メグはずっと部屋に閉じこもっているようだった。いつもなら、シュンが仕事に没頭していて話をまともに聞いていなくても、めげずにいろいろ話しかけてくれたのに。
 顔を合わせるのは食事のときだけだし、そこでの会話は一切ない。
 これではまるで、やっていることが離婚寸前の夫婦みたいだ。
 そう考えて、シュンはため息をついた。
(……夫婦なわけないだろ)
 一緒に暮らしているだけで、彼女が性交渉を望んでも、自分は応じずにいたのに。
 自分の気持ちを伝える気はなかった。
 結局自分はこちらの世界を捨てられない。結末はなにも変わらないのだから、なにを言ったところで、メグには言い訳じみて聞こえるだけだろう。
 あまりにすべてが中途半端だ。でもそれでいいとシュンは思った。
 これ以上仲が深まる前に、今なら強制終了させられる。
 ゲームオーバーじゃない。その代わり、エンディングもない。
(……俺らしいよな)
 そう思いながら、シュンは読んでいた本を閉じた。
 それは一類の棚で見つけた、愛について考察した本だった。
 そこに書かれていた内容に、シュンは失望していた。愛している人のためなら自分を犠牲にできるとか、すべてをなげうってもかまわないと思えるとか。
(――それなら、俺は全然彼女を愛していない)
 ゲームを作ったときは、ひたすら愛情を注ぐことが愛なのだと思っていた。
 でも、メグに対しては、どういう行動を取るのが正解なのかまるでわからなかった。
 今だってわからない。どうすれば、他人を愛することができるのか。
「また悩んでるのかな」
 シュンが振り向くと、いつもの男が傍らに立っていた。
 彼はいつも神出鬼没だ。彼が普段どこでなにをやっているのか、シュンはあえて訊かずにいた。自分だって、会社員のように規則的に働いているわけではない。そういう社会的な地位や肩書きでは判断したくないと思っていた。
「そういうときは本がヒントをくれるかもしれないよ」
「……俺自身のことはどこにも書いてないでしょ」
 シュンがそう言うと、男が口元を上げた。
「確かにそうだね。でもまだ九類が残ってるだろう、青年」
 一類が哲学・宗教、二類が歴史、七類が芸術。
 そして、九類は文学。
「俺は小説より映画が好きですから」
「小説と映画の違いはなんだと思う?」
「そりゃ、表現の手段が言葉か映像かってことでしょ」
 シュンがそう答えると、男が微笑んだ。
「模範解答だね。五十点あげよう」
 言われてシュンはむっとした。男がくっくと笑う。
「採点されるのが嫌いかい? いいね、その自尊心の強さ。生意気とも言うけど」
 男はそう言うと、シュンが読んでいた本を手にした。
「小説はね、映画と違って、読み手がそこに書かれた言葉からすべてを想像しないと物語が進まないんだ。だから、想像力の乏しい人間には小説が読めない。ただ文章を読んで意味を拾っているだけだ。そして、すぐになんらかの解釈や教訓をつけたがる。そうやって、
 そう言いながら男は、本のページの上隅に指を掛け、ぱらぱらとめくった。最後のページまで行き着くと、男は静かに本を閉じ、またシュンのほうを見た。
「でもね、本当に大事なのは、たとえそこに書いてあることが理解できなくても、その本と向き合ってなんとか読み解こうとしたり、読んでなにかを感じたりしたことなんだ。その積み重ねが君という人間を豊かにする」
 男がシュンをまっすぐに見つめた。
「人も同じだよ、青年。人と向き合うのに、なにかを持っている必要はない。むしろ、なにかを得れば得るほど向き合えなくなる。……それでわたしはすべてを失った」
「すべてを……?」
 シュンがそう言うと、男が頷いた。
「愛する人も子供も財産も」
「……二人は死んだんですか?」
 シュンが小さな声でくと、男は首を振った。
「いや、死んだのはわたしのほうだ。それで今もわたしの魂は、こうしてからっぽのままこの世界を彷徨っている」
 そう言って遠い目になった男を、シュンはじっと見つめた。
 男の言った意味はよくわからなかったが、その言葉には、なにかとても深い意味が込められている気がした。
 しかしそれも束の間、男は一転してシュンににこりと笑いかけた。
「言っておくけど、今のは比喩表現だよ、青年。わたしは幽霊じゃないからね」
 シュンは今思ったことをすぐさま頭の中で取り消した。
 さっきのは、特に意味のない冗談かなにかだったのだろうか。
「……わかってますよ。でも、あなたは親なんでしょ。子供が会いたいと言えば会わなきゃいけない」
「君は、こんなふらふらしてる父親に会いたいと思うかい?」
 問われて、シュンは即座に首を振った。
「全然会いたくないです」
(俺と母さんを捨てた人間なんか)
 シュンはそう心の中で付け足した。
「二度と俺たちの人生に関わってほしくない」
 男は鷹揚に頷いた。
「……そうだろうね。それが当然だ」
「でも、俺は……」
 シュンはそこでいったん言葉を切った。
 この男に自分の抱えている悩みを打ち明けるべきかどうか、シュンは悩んだ。
 今までだって、問題があっても自分ひとりでなんとか解決してきた。だれかを頼る必要なんてなかった。
 それになんて言えばいい? 愛したいと思っているのに、愛せない俺はどうすればいいんですかなんて、けるわけがない。
「なんだい?」
 微笑む男に、シュンは迷った末、思いきって口を開いた。
「いや、あの、質問なんですけど……愛してるってことを証明するためには、その人以外のものを、なにもかも捨てられなきゃいけないと思いますか?」
 突飛な質問をしている自分が恥ずかしくなってきて、シュンは決まり悪げにうつむいた。
 男はしばらく黙っていたが、少し首を傾げたあとで口を開いた。
「それは順番が逆だね。愛していることを証明するために、なにかを手放すわけじゃない。、すべてを手放しても惜しくないと思えるんだ」
(じゃあ、やっぱり俺はメグを愛していないんだ)
 シュンが落胆していると、男が柔らかく微笑んだ。
「君にもいつかわかるよ、青年。ああ、愛するって、こんなに簡単なことだったんだって……そう思えるようになる日が来る。そう思えるようになるまでが、とても難しいんだけどね」
 男はそこで言葉を切ると、シュンに近寄り、左肩にそっと触れた。そんなことをだれかにされたのは初めてで、シュンは驚いて固まっていた。
 男がまっすぐにシュンの瞳を見つめる。
「でも君は大丈夫だよ、瞬」
 シュンは男をまじまじと見つめた。
 いつもの自分なら、赤の他人のくせに、そんな無責任なことを言うなと反発しただろうが、なぜか今はそんな気になれなかった。
 根拠なんてなにもないはずなのに、なぜこの男は迷いなくそんなことを言えるんだろう。シュンはなにか言おうと、一瞬うつむけた視線をまた男に戻したが、男の姿はいつものようにこつぜんと消えていた。
「なんなんだよ、あの人……」
 そうひとりごちながら、シュンは髪を掻きあげた。
 彼は、いつも自分が目を離した隙にいなくなってしまう。
 その時、ふとシュンはあることに気づいた。
「俺、名前教えたっけ……?」