第42話 血まみれのエヴェリーン

 メルヒオルの部屋の前で、リートは深呼吸した。
 ただ頼み事をするだけだ。怖くても、恐れる必要はない。
 リートは緊張しながら部屋に入ったが、そこには先客がいた。髪もひげも見事に白い老年の男がソファに坐っている。確か宴のときに見かけた人物だ。
 リートがどうしていいかわからずその場に立っていると、メルヒオルが紹介してくれた。
「リート、こちらはニコラウス・フォン・ローテンキルヒェン卿。神聖派の盟主だ」
 ニコラウスが深々とお辞儀した。
「メルヒオルから聞いたのですが、あなたがいた世界にもリヒトのように宗教があるとか。ぜひ今度お話を聞かせてください」
「で、でも僕は本で読んだだけで、だれかに習ったわけじゃないので参考になるかどうか」
 ニコラウスが有名な宗教学者なのだとルイスが言っていたことを思い出して、リートは口ごもった。ニコラウスが柔和に微笑んだ。
「専門的な知識でなくてもかまいませんよ。宗教に関することならどのようなことでもいいのです」
「リート、覚悟しておいたほうがいいよ。ニコラは気になると質問攻めにして放してくれないからね」
 メルヒオルがいたずらっぽい顔でそう言うと、ニコラウスが肩を竦めた。
「学者の性分でね。だが君たちの邪魔をしては悪い。そろそろ失礼するよ」
 扉が閉まり、メルヒオルがリートに微笑んだ。
「では、用件を聞こうか」
 リートがユーリエに劇を見せたいと頼むと、メルヒオルは二つ返事で了承してくれた。
「本当にいいの?」
 リートが恐る恐るそう問うと、メルヒオルが穏やかに微笑んだ。
「ああ。ゾフィーにはわたしから話しておこう」
「ありがとう、メルヒオル」
 リートはほっとして、メルヒオルに笑いかけた。
 だれかになにかを頼むのはいまだに苦手だったが、言ってよかったとリートは思った。
「だが……少しだけ君に話しておきたいことがある」
「僕に?」
 なんだろう。リートはどぎまぎした。また自分は知らず知らずのうちになにかやらかしたのだろうか。
 被害妄想だとわかっていたが、不安になる自分をリートはどうしても止められなかった。
「エヴェリーンのことを君に話しておきたいんだ」
 メルヒオルの意外な言葉に、リートは目をまたたかせた。
「エヴェリーンって、このピアスを作ったっていうヴォルヴァのことだよね」
 リートが自分の耳を指し示しながらそう言うと、メルヒオルがうなずいた。
「そうだ。前にも説明したが、彼女は歴代のヴォルヴァの中でも特に強い力を持っていた。王の信任も厚く、民からも慕われていた。だが、ある事件が起きたんだ。彼女は儀式の最中に力を暴走させ、その場にいた閣僚や騎士たちを大勢死に追いやった。幸い王も王子も無傷だったが、被害は甚大だった。王権派の中には彼女のことを血まみれのエヴェリーンと呼ぶ者もいる」
 リートは、その凄惨な出来事に言葉を失った。まさか、エヴェリーンがリヒト原理主義者のように人を虐殺していたなんて。
「当時の王だったアウグストと生き残った側近たちは、エヴェリーンが死んだことだけを公表して、この件を内々に処理した。平民たちはエヴェリーンが貴族たちを虐殺したことを今も知らないんだ。しかし、事件を知った一部の貴族たちはこう考えた。エヴェリーンほどのヴォルヴァがなんの理由もなくそんな短絡的な行動を取るとは考えにくい。だれかと親しくなったせいで、国の管理下から逃れるために、わざと力を使って重臣たちを殺したのではないかと」
 リートはそれを聞いて納得した。あの時ゾフィーが言っていたのは、この事だったのだ。自分とユーリエが親しくなりすぎると、ユーリエが役目を放り出してしまうのではないかと思ったからこそ、彼女はあそこまで強硬に反対したのだ。
「でもそのだれかって、ユストゥスじゃないの?」
「物語自体は史実を元にした創作なんだ。ユストゥスとエヴェリーンを書いた劇作家は、エヴェリーンが恋をしたから事件を起こしたのだと考えた。それでユストゥスという登場人物を作ったんだろうね」
「でも、どうして黙ってたの?」
「まだ言うべきではないと思ったんだ。余計なことを言って、君にいろいろ背負わせたくなかった。ただでさえ君は違う世界に来て、知らない人間に囲まれて混乱していた。この国の政治のことは、できれば君には知らせたくなかった。君はその状態のほうがいやだったようだが」
 リートは反論できずもじもじした。
 だって自分だけ知らされずにいるなんて、そんなのは公平じゃない。自分だけのんに過ごすなんてできない。リートはそう心の中で反論した。
「暴走を起こしたあと、エヴェリーンはどうなったの?」
「死んでしまった」
「どうして?」
「わからない。ただ、身体が衰弱して眠るように死んでいたそうだよ」
 リートは首を傾げた。ヴォルヴァは力を使いすぎると死んでしまうのだろうか。
「ゾフィーは力の暴走の原因が、エヴェリーンが恋をして精神に変調をきたしたからだと思っている。己の境遇に耐えきれず、自由になろうとしたのではないかとね。そのことがあってから、エヴェリーン以降のヴォルヴァは徹底的に管理されるようになった。他者と会わず、考えず、ただこの国のためにリヒトに祈る。それがヴォルヴァとしての役目だと」
 ならば、今ユーリエがあんなふうに無感情な人間になってしまったのは、そのエヴェリーンの事件があったせいなのだ。リートはなんだかエヴェリーンのことが無性に腹立たしくなったが、それは違うと思い直した。そもそも、ヴォルヴァという特殊な環境が彼女たちの精神を追い込んでいるのだ。
 なぜこの国はヴォルヴァの存在をそこまで重要視するのだろう。その割に、その存在を公から隠すのだろう。リートにはよくわからなかった。

 メルヒオルの部屋を出たリートは、ヴェルナーを伴って宮殿の庭に出た。
 ルイスが非番だったので、リートはヴェルナーと一日を過ごしていた。
 今日は天気がいい。リートのいた国で言えば、今は秋のような気候だった。蒸し暑さはまるでなく、からっとしていて過ごしやすい。
 王宮の庭では、特設舞台の建設工事が進んでいた。ここできっと、ユストゥスとエヴェリーンの歌劇をやるのだろう。
 リートは階段に腰掛け、職工たちが働いている様子をじっと観察した。
 そんなリートの様子を、ヴェルナーが不思議そうな顔で見ていた。
「そんなに面白いですか?」
「僕のいた国では、こんな間近で工事現場を見られないんだ。人が近づくと危ないから、囲いとか覆いとかで見えなくしてある。家が建ってる間隔も狭いし」
「そうなんですか? リート様のいた国はうちより大きいと、ルイス様は言ってましたけど」
「山がちだから、住める場所が少ないんだよ。その割に人口が多いから大変なんだ」
 リートがそう説明すると、ヴェルナーが納得したようにうなずいた。
「面積の問題じゃないんですね」
「前夜祭の日は、ヴェルナーはなにか予定はあるの?」
 リートとしては、特に意図することもない質問だったが、なぜかヴェルナーの顔が曇ったので、リートは首を傾げた。なにか彼の気に障るようなことを言ってしまったのだろうか。
「自分は――というか、ソリンのほとんどの人間は、近衛騎士団の応援で会場の警備です」
「それはごめん……」
 リートはすぐに謝ったが、ヴェルナーはやんわり笑っただけだった。
「いえ、気にしないでください。毎年のことですから。それに俺たちは、王権派から税金泥棒扱いされてますし」
「そんな……」
 ヴェルナーの言葉に、リートは絶句した。自分の命を救ってくれたのは、ほかでもないソリンの騎士たちだ。いざというときのための備えを、税金泥棒だなんて。しかも彼らは命懸けで仕事をしているのに。
「ハインリヒは将来的にソリンの規模を縮小して、ハーナルの傘下に置いておきたいと思ってるんですよ。でも本当は、それを口実にルイス様を追い出したいだけなんです」
 ヴェルナーの説明にリートは呆れた。
 ハインリヒの頭の中では、ルイスはメルヒオルの手先で、自分の野望を邪魔する敵だという認識らしい。ハインリヒの目にはきっと、ルイスがメルヒオルの権威をかさに着て、やりたい放題振る舞っている人間に映っているのだろう。
 だがハインリヒは、ルイスの人柄を知らなすぎるとリートは思った。ルイスはそれとは真逆の、利己心のかけらも持ち合わせていない人間なのだから。
「まあ、団長とメルヒオル様がいるあいだは、そんなことにはならないと思いますけどね。でもそうなったら、真っ先に切るべきはクラウスの野郎ですよ。あいつこそ真の税金泥棒ですからね。実力で試験に受かったのかどうかも怪しいし」
 そこからヴェルナー恒例のクラウスへの愚痴が始まったので、リートは話を聞き流しながら考え込んだ。
 ソリンがハーナルの傘下に入るということは、ソリンの指揮権が失われるということだ。ハーナルの指示を待って動いていては初動が遅れてしまう。緊急事態に大事なのは機動力のはずなのに、それを奪ってでもルイスを追い出したいなんて。
 リートには、人命より政争を優先させるハインリヒは狂っているとしか思えなかった。
(ルイスが辞めさせられたらいやだな……)
 自分を原理主義者から救ってくれたときのルイスを思い出して、リートはそう思った。いつまで自分がこの世界にいるかはわからないが、ソリンを辞めることになっても、ルイスは自分の騎士でいてくれるだろうか?
 そんなことを考えてしまい、リートは慌てて自分の考えを打ち消した。
(駄目だよね、そんなの)
 彼は自分の護衛をしているより、ソリンにいるのがさわしい人間だ。
 これはあくまでメルヒオルの暫定的な処置でしかない。
 ルイスには頼りすぎないようにしなければ。リートは改めてそう思った。

 しかし、リートは一人ではどうにもならない問題に直面していた。
(ユーリエにどうやって話を切り出そう)
 そう考えて、リートは起きてから何度目になるかわからないため息をついた。
 もともと、こういうことは苦手だった。
 自分からだれかを遊びに誘った経験なんて一度もない。
 こういうことは、いろいろ考えても仕方ないのだ。それはわかっているのだが、どうしてもあれこれ考えてしまう。
 しかし、前夜祭は明後日だ。前日では急すぎる。どうしても今日言っておく必要があった。これ以上先延ばしにはできない。
 そんなことを考えていると、扉が開いてルイスが入ってきた。
「おはよう、リート」
「おはよう、ルイス」
 ルイスの報告を聞き流しながら、リートはルイスに相談すべきか迷った。
 エミリアに相談したところで冷やかされるだけだし、ミヒャエルは自分をからかうために、さも真剣な顔で出まかせを言う可能性がある。彼の言葉を真に受けて、そのとおりに実行するのは危険すぎた。なら残っているのはルイスしかいない。
「ねえ、ルイス」
 しかし、口を開いたその瞬間、リートははたと気づいた。
 けない。絶対に訊けない。
 ルイスはどうやっていつも、ルーツィアとどこかに行く約束を取りつけてるの? なんて、そんなことは。
(だいたい、これはそういうことじゃないし!)
 友達を遊びに誘うだけだ。リートは動揺する自分自身にそう言い聞かせた。
 しかし、そもそもルイスにはグラニ以外に友達がいないことを思い出して、リートはいよいよどうすればいいのかわからなくなった。
 リートが黙ってしまったので、ルイスが首を傾げた。
「どうしたんだ?」
「な、なんでもない……ユーリエのところに行こう」
 リートはそう言って椅子から立ち上がった。
(自分で考えるしかないよね……)

 しかし、残念ながら考えがまとまる前に、リートは聖殿に着いてしまった。
「リート様」
 リートの姿を認めたユーリエが近寄ってきた。ユーリエはいつもの白装束に、頭には帯状の白い布を巻き、両脇に白い花を挿していた。
「いつもと格好が違うけど、今日はなにをするの?」
「踊りの稽古です」
「踊り?」
「リヒトにささげる踊りです。今は儀礼的なものですが、昔はヴォルヴァがリヒトの宣託を受けるために踊っていたそうです」
「へえ……」
「儀式はメルヒオル様が中心になって行われます。陛下がリヒトに感謝を捧げられるので、それに対するリヒトの返答を陛下にお伝えするのがわたしの役目です」
「返答って……ユーリエにはリヒトの声が聞こえるの?」
 リートが驚いて言うと、ユーリエがうなずいた。
「はい。人の声とは違いますが、わたしたちはそれを声と呼んでいます。わたしの役目は、リヒトと陛下の仲介をすることですから。アーデルハイト女王がリヒトと契約を結んでこの国を作ったときに仲介したのもヴォルヴァです」
 ユーリエの言葉にリートは驚いた。
「この国ができる前からヴォルヴァはいたの?」
「はい。そう言われています」
 さすがヴォルヴァだけあって、ユーリエはこの国の歴史をきちんと学んでいるらしい。きっとゾフィーから授業を受けているのだろう。しかし、リートはまだこの国の本を読めない。
(訊いたら教えてくれるかな)
 そんなことを考えて、リートは本題を忘れていることに気づいた。
 仕方ない。どうにでもなれと思ってリートは口を開いた。
「あのね、ユーリエ。前夜祭の日なんだけど、ユストゥスとエヴェリーンを観に行かない? メルヒオルにもゾフィーにも許可は取ったんだ。べつにいやならいいんだけど、君は一度も見たことがないって聞いたから」
 そこまで一気に早口で言ってから、リートはユーリエをちらりと見た。
 ややあってから、ユーリエは淡々とした表情のままうなずいた。
「わかりました」
「ほんと? いいの?」
「はい。リート様の頼みなら行かせていただきます」
 リートは、ユーリエがあっさり了承した理由を悟って頭を抱えた。
 膨らんでいた高揚感があっという間にしぼんでいく。
 そうだ。彼女はつい最近まで自分の気持ちもよくわからなかったのだ。
 こうなることは必然だった。
「そ、そういうことじゃないよ。僕の頼みだからとかじゃなくて、君が見たいかどうかってことだよ」
 リートが慌てて言うと、ユーリエが首を傾げ、しばらく考えるように顔をうつむけた。
「それは……よくわかりません」
「じゃあ、やっぱり僕だけで観てくるよ。ユーリエが乗り気じゃないなら、意味がないし」
「よろしいのですか?」
「うん。気にしないで」
 なにげない態度を装いながら、内心でリートは自分に呆れていた。
(なにを言ってるんだ、僕は)
 彼女は行きたくないとは言っていないのだから、自分が誘いたいなら誘えばいい。少しくらい強引に頼んでも、彼女はべつに不愉快に思わないだろう。
 だが、なぜかリートはそうしたくなかった。
 ユーリエが行きたくないなら、意味がない。
 なぜこんなにかたくなな気持ちになっているのか、リートは自分でもよくわからなかった。

「……失敗したよ、ルイス」
 せん階段を上りながら、リートはそう言った。後ろにいたルイスが首を傾げる。
「なんのことだ?」
「あなたはすごいよね。婚約までしてるんだし……」
 それにひきかえ、自分は友人関係の構築さえうまくいかない。
 ルイスがげんそうな表情になる。
「それはどういう意味だ?」
 ルイスの問いに答えず、リートは早足で階段を上り続けた。
(やっぱり、僕にこういうのは向いてない)
 きっと、彼女が喜んでくれると勝手に期待していた自分が馬鹿だったのだ。