第43話 前夜祭当日

 前夜祭の当日、リートはおっくうな気持ちで一日中ソファに寝転がっていた。
 まるで行く気になれない。
 そろそろ支度しなければならない時間だったが、まったくと言っていいほどやる気が起きなかった。
 だが土壇場でやめるわけにはいかない。なにせ劇の開始時刻の一時間前に、エミリアが護衛の騎士たちと一緒に部屋まで迎えに来てくれることになっているのだ。それに間に合うように準備しなければならない。
 だが、リートは動けなかった。
 一人で観ても意味がない。つまらない。なぜかリートの頭の中はそんな考えに支配されていた。
 エミリアもミヒャエルもいるが、ユーリエがいないなら、観る意味がない。
 やはり意地を張らず約束しておけばよかった。
(でも、僕だけ楽しんだって仕方ないじゃないか)
 そのために無理やりユーリエをつき合わせるなんて、間違っている。
 リートは気持ちを切り替え、着替えるためにソファから起き上がった。

 エミリアと廊下を歩きながら、リートは自分の格好が周りから浮いて見えないか少し不安になった。久々の礼装だったが、やはり首の襟飾りは喉が苦しかった。
 隣を歩くエミリアは、長い髪を結い上げ、腕には黒い長手袋をつけて、黒地に金のしゅうが施されたごうしゃな夜会用のドレスを着ていた。耳にはそろいの金色の耳飾りが揺れている。
「結局、ユーリエを誘わなかったの?」
 エミリアに問われて、リートは言葉に詰まった。
「誘ったけど……」
 リートが事情を話すと、エミリアはすぐに同意してくれた。
「それはそうね。誘った相手が喜んでくれないんじゃ意味がないわよね。でも、あなたはそれでよかったの?」
 リートはうつむいた。
 すぐにうなずけないということは、自分はこの選択に納得していないということだ。
 自分はいったいどうしたかったのだろう。
「……わからない」
 なぜこんなにもやもやした気分なのだろう。
「でも、そのほうがよかったのかも。彼女、儀式が終わってから熱を出してしまったんですって。今は部屋で休んでいるそうよ」
「ユーリエが?」
 リートは弾かれたように顔を上げてから、またすぐにうつむいた。
(……なんだ。じゃあ、僕は結局どう転んでもユーリエと劇を観られなかったんだ)

 玄関ホールを抜け、リートたちは護衛の騎士たちと宮殿の外に出た。
 外はもう日が落ちていたが、辺りはまだ薄明るかった。山際の空はまだだいだいいろに染まっていて、昼の名残をかろうじてとどめている。
 それでも劇が始まる頃には完全に夜になるだろうとリートは思った。
「エミリア」
 リートたちが声のしたほうを見ると、階段の下でハーナルの礼服姿のミヒャエルがリートたちを待っていた。
「せっかくの祝日にわたしがあなたを独占して、ガブリエレは怒ってなかった?」
 挨拶を交わしたあとでエミリアがそう言うと、ミヒャエルはなぜか曖昧な笑みを浮かべた。
「大丈夫だ。それどころか、君のツテでローデリヒの署名をもらってこいと頼まれた」
「まあ、彼女らしいわね」
 エミリアはそう言うと、ミヒャエルのほうをいたずらっぽい顔で見た。
「署名といえば、レーネはあなたの署名を欲しがるかも。あなたの愛好者フアンだから」
「そうなの?」
 リートは思わず口を挟んだ。
 レーネはいつも上品で穏やかそうな年配の女性だ。いつも騒いでいる若い侍女たちとは違って見えたのに。
「べつに恋愛感情ってわけじゃないのよ? ただなんていうか、母と一緒であなたに夢を見てるのよね。あなたが来るときに出てくるお菓子とお茶は、いつもと気合いの入り方が違うし」
「あのお菓子、レーネさんが作ってたの?」
 リートは驚いて言った。
 彼女はエミリアの筆頭侍女で、ほかの侍女たちをまとめる側の人間だ。まさか本人の自作だとは思わなかった。
「そうよ。菓子職人は別にいるんだけど、わたしが食べるお菓子は全部レーネが作ってるの。わたしは母と違って甘党じゃないから、口に合わなくて」
 エミリアがちらりとミヒャエルのほうを見る。
「会ったときに少しでいいから話をしてくれると、レーネが喜ぶんだけど」
「そうはいかない。わたしにレーネの相手をさせて買収する気だろう」
「あら、鋭くなったのね」
 にやりと笑うエミリアに、ミヒャエルが同じように笑みを返す。
「君がどういう人間かわかってきたからな」
 エミリアがふっと真顔になる。
「……やめたのね」
「なんのことだ?」
 エミリアがひとさし指をミヒャエルの口元につっと当てる。
「笑い方よ。仮面みたいな作り笑いより、今のほうがずっといいわ」
 エミリアの言葉にミヒャエルは目をみはったあと、かなわないというふうにまた笑った。
 リートは思わずせきばらいした。
 二人がはっとしたようにお互いの顔を見合わせて苦笑いしたあと、またレーネの話をしはじめた。その横で、リートはため息をついた。
 そういうことは二人だけのときにやってほしい。
(僕、絶対邪魔だよね)
 二人は婚約しているのだから、そういう雰囲気になるのは当たり前のことだ。
 だが、この空気の中にいるのは正直居たたまれない。
(……失敗したかも)
 ルイスもユーリエもいないと、ここまで自分が気まずい思いをするはめになるとリートは思っていなかった。
 二人が話しているあいだ、リートは手持ち無沙汰で、なんとなく周囲を観察した。
 庭では、着飾った貴族の紳士淑女が至る所で会話に花を咲かせていた。その顔には皆一様に笑顔が浮かんでいる。
 なにせ今日は祝祭日だ。そうなるのも当然だろうとリートは思った。
 しかし、ここにユーリエはいない。
(いろいろ話せたらよかったのにな)
 自分もユーリエも会話が達者ではないが、リートは彼女と話していて楽だった。
 自分の話がつまらないのではないかとか、楽しくないのではないかとか、そんな余計なことを一切考えなくていいからだ。
(でもいつか、つまんないって思われちゃうのかな)
 残念ながら、自分の話は女性どころか、同性でも喜びそうなものではまったくない。
 それでも彼女は、自分と友達でいてくれるだろうか?
 リートは完全に自分の世界に入ってしまっていたので、近づいてきた影に気づかなかった。
「リート?」
 リートがはっとして声の降ってきたほうを見上げると、青に金のこうさいが散った瞳が、じっとリートを覗き込んでいた。
「ルイス……なんで」
 さっきまで頭の中で考えていた人物がいきなり目の前に現れたので、リートは驚いた。
 ルイスはいつものように白い礼服姿だったが、非番なので帯剣していなかった。
「彼女がミリィに直接礼を言いたいというから、連れてきたんだ」
 ルイスがそう言うと、傍らにいたルーツィアがリートに淡く微笑んだ。
 今日の彼女は、腕に白の長手袋をつけ、淡いすい色のドレスの上から白い肩掛けを羽織った姿だった。
「こんばんは、リート様」
「こんばんは、ルーツィア」
 挨拶を返しながら、リートはルーツィアの様子を観察した。
 ルイスから元気がないと聞いていたが、ルーツィアは顔色も良く、いたって健康そうに見えた。
「前にお会いしたときよりも、お元気そうですね」
 ルーツィアにそう言われて、リートは苦笑を浮かべた。前に会ったときも思ったが、医師をやっているだけあって、彼女の観察眼は鋭い。
「あれからいろいろあったんだ」
 そうだ。あの宴からずいぶんいろいろあった。
 市街地に出れば爆発に巻き込まれるし、ミヒャエルは犯人扱いされるし、宗教家と議論したあとで、門の前での大立ち回りに参加するはめになった。
「久しぶりね、ルーツィア。宴では挨拶できなくてごめんなさい」
 二人の姿に気づいたエミリアが声をかけると、ルーツィアは膝を折って礼儀正しく挨拶した。
「いえ、わたくしのほうこそ、ご挨拶せず申し訳ありませんでした。今回のことは、殿下のお計らいだとルイス様からお聞きしたので、お礼を申し上げなければと思いまして」
 エミリアが上品に微笑む。
「いいのよ、気にしないで。王女の権力なんて、こういうときしか使いどころがないんだから」
「そうだぞ、ルーツィア。ミリィは権力を濫用して、わたしたちで遊んでいるだけだ」
「ルイス様」
 ルーツィアが咎めるような声を出したが、エミリアは動じる様子もなく、にこりと笑っただけだった。
「わたしのことは、なんとでも言ってくれて結構よ」
「ルイス、彼女にわたしのことを紹介してくれないのか?」
 横からミヒャエルが笑顔で口を挟むと、ルイスはいつになく冷淡な視線をミヒャエルに向けた。ルーツィアの姿をミヒャエルから隠すように、ルイスが一歩前へ出る。
「おまえにルーツィアを紹介する必要性を感じない。それに、紹介しなくても彼女はおまえのことをよく知っていたぞ」
「ルイス様、それは……」
 ルーツィアが慌てた表情になる。
 リートは、宴で彼女がしていた話のことを思い出した。
 実際は、ルーツィアが患者から聞いた話をリートたちに聞かせてくれただけなのだが、確かにルーツィアはミヒャエルのことをよく知っていた。
 もしかして、レーネのようにルーツィアもミヒャエルの愛好者フアンなのだろうか。
 リートは一瞬そんなことを思った。
 ミヒャエルはルイスの言葉を聞いてわずかに片眉を上げたが、すぐに挑戦的に微笑んだ。
「それは光栄だ」
 しかしルイスは冷たいいちべつを投げただけで、ルーツィアのほうを向いた。
「ルーツィア。用事も済んだし、そろそろ席に行こう」
「はい。では失礼いたします」
 ルーツィアはリートたちにお辞儀すると、ルイスが差し出した腕にそっと手を添えた。
 リートは、去っていく二人の後ろ姿をじっと見つめていた。
 白と淡い翡翠色という二人の取り合わせは、黒い服のエミリアとミヒャエルとはなにから何まで対照的だった。
「ルイスったら、ああ見えて意外と嫉妬深いのね。結婚したら、ルーツィアを束縛しないか心配だわ」
 エミリアが顔をしかめて言うと、隣でミヒャエルが皮肉っぽく微笑んだ。
「大丈夫さ。あれは相手がわたしだからだよ」
「まあ、心配性なのね。いくらあなたが美形だからって、ルーツィアはなびかないわよ」
「……そうだな」
 エミリアがリートとミヒャエルのほうを見て微笑む。
「さて、わたしたちも席に行きましょう」