第44話 気づきと誘い

「……ルーツィア」
「はい」
 ルイスに名を呼ばれ、ルーツィアが歩きながら顔を上げる。
「……わたしは大人気ないな」
 ため息交じりにルイスがそう言うと、ルーツィアは微笑んだ。
「いいえ。ありがとうございます。守っていただいて」
「君がそう思ってくれているならいいんだが。前に君にはそこまで狭量じゃないと言ったが、わたしはやっぱり狭量だ」
 自分の取った態度を恥じているのか、険しい表情でうつむいたルイスに、ルーツィアが驚いたように目を見開く。
「そんなことはありません。ルイス様は普段は感情的にならない方ですもの」
「なぜなんだろうな。ミヒャエルを見ると、なぜかわたしはいらいらしてしまう」
 そう言って首を傾げるルイスに、ルーツィアは微笑んだだけでなにも言わなかった。

 リートたちは最前列に設けられた貴賓席に坐っていた。
 最もよく見える中央席にはマティアスとペトロネラの国王夫妻が坐り、ペトロネラの隣にミヒャエル、エミリア、リートの順で坐っていた。マティアスの右隣に坐っているのは、傍系の王族たちだとミヒャエルがリートに教えてくれた。
 右翼席の最前列にはハインリヒと八人の閣僚たちが坐り、左翼席にはローゼンベルク卿を筆頭に、位の高い貴族たちが坐っている。
 劇が始まるまでのあいだ、リートはエミリアと話していた。
「エヴェリーン役のフィオナは、本当に銀髪に緑色の目なのよね」
「エヴェリーンはそんな容姿だったんだ」
「ええ。でもその組み合わせってとても珍しいのよ。エヴェリーンが伝説化してるのはその容姿のせいもあるでしょうね」
 懐中時計を見ていたミヒャエルが唇にひとさし指を当て、リートたちに囁いた。
「そろそろ始まるぞ、二人とも」
 ミヒャエルがそう言って間もなく、辺りの照明が一斉に落ちた。続いて、楽団による序曲の演奏が始まる。

 物語は、国王が王太子ゴットフリートに、大貴族の娘フリーデリケとの婚約を命じる場面から始まった。
 ゴットフリートが抗議しても王は取り合わず、ゴットフリートが嘆きながら旋律に合わせて切々と心情を歌い上げる。
 エミリアが好きだと言っていただけあって、脇役ながら、ゴットフリート役のベネディクトの演技は繊細で、表現力豊かだった。
 場面が変わり、やっとエヴェリーンが登場した。ユーリエと同じような白い装束に身を包んだエヴェリーンが、同僚たちからの嫌がらせに遭って傷つき、気絶しているユストゥスをリヒトの力で癒やす。長い銀の髪に緑色の瞳を持つエヴェリーンは、その希少性も相まって、確かに聖女と呼ぶのに相応しい神秘的な雰囲気を放っていた。
 一方、ユストゥス役のローデリヒは、金髪に青い目という平凡な組み合わせだったが、細面の涼しげな容貌の持ち主で、これならペトロネラが夢中になるのも無理はないとリートは思った。
 ミヒャエルはどの角度を切り取っても完璧で、絵画や彫刻の模本にしたいような顔立ちだが、ローデリヒは演技をしているときの表情が一番美しく見えた。
 目覚めたユストゥスが敵意をしにしてエヴェリーンを睨む。
「……触るな」
「それはできない。傷ついた人を見捨てることは、リヒトの教えに反する」
「どこへ行くの?」
「どこだっていいだろう」
「駄目よ、傷は治したけれど安静にしていないと」
 劇を見ながら、リートはふと気づいた。
(僕、ひょっとしてがっかりしてる?)
 なにに?
 ここにユーリエがいないことに。
 まさか。リートは自分を疑った。
 だがそうとしか思えない。
 さっきから思ったほど鑑賞に身が入らなくて、もやもやしているのだから。
 普段の自分ならこんなことはありえない。
 どうやら自分は、こういうことでがっかりできる人間だったらしい。
(……どうしようかな)
 そうとわかれば、ここにいる理由はない。
 第一幕が終わったところでいったん劇の幕が降り、三十分間の休憩に入った。

「ミリィ様。頼みがあるんだけど」
 リートは思いきってそう言った。
「ユーリエのところにお見舞いに行きたいんだ」
 勝手なことを言っているのはわかっていた。
 突然なにを言い出すんだと呆れられるかもしれない。
 しかし、リートの予想に反してエミリアは微笑んだだけだった。
「わかったわ。トリスタン、リートを送ってあげて」
 そばに控えていたトリスタンがうなずく。
「承知しました」
「ありがとう」
 リートはほっとしてそう言った。

 二人の姿を笑顔で見送ったあと、エミリアはもたれに身体を倒した。
「いいわね、リートはいつも素直で」
 ミヒャエルが微笑んでうなずいた。
「……そうだな」
「ここで一緒に見られたらよかったのに」
「君はいつもそうやって、だれかの仲を取り持とうとするんだな」
 ミヒャエルがそう言うと、エミリアがふふっと笑った。
「自分が役者になって演じるより、演出しているほうが好きなの」
「なるほど」
「演出というわけではないけど、強引にいかないのがユストゥスの素敵なところよね」
 エミリアはそう感想を述べたあとで、ミヒャエルのほうをちらりと見た。
「あんな男いるわけないだろって思ってるでしょ?」
 ミヒャエルが苦笑しながら答えた。
「いや、意外とユストゥスは計算高いと思うだけだ。押して引くのは恋愛のじょうとうしゅだんだからな」
 エミリアが呆れた表情になる。
「あなたってほんとに計算ばかりね」
「すまない、つい」
 ミヒャエルが口元を上げ、エミリアのほうを探るように見た。
「そろそろ教えてくれないのか? なぜ君がルイスを好きなのか」
「教えてもいいけど……笑わない?」
「約束しよう」
 話を聞き終えたミヒャエルが納得したようにうなずいた。
「なるほど、君らしい理由だな」
「でしょう? でも結局それは、彼には気がないってことなんでしょうね。でも、だからよかったの」
 エミリアは苦笑交じりにそう言ってから、ミヒャエルのほうを見た。
「安心して。なにかするつもりはないから。ただわたしが勝手に思ってるだけ」
 しかし、ミヒャエルはいつも通り、穏やかに微笑んだだけだった。
「わたしはべつに、君がどうしようとかまわない。諦めても諦めなくても、わたしを好きでも好きでなくても」
「王配になれれば、それでかまわないというわけ?」
「そんなところだ」
 ミヒャエルの答えにエミリアはあまり納得していないようだったが、これ以上訊いても無駄だと思ったのか、なにも言わなかった。
「さて、わたしたちも行こうか」
 ミヒャエルはそう言って席から立ち上がると、流麗な動作で手を差し出した。
 エミリアが警戒した目つきでミヒャエルを見る。
「どういうつもり?」
「わたしもリートを見習おうかと思って」
 ミヒャエルはなにげない口調でそう言ってから、挑発するように口元を上げた。
「いやならやめておこう」
 その瞬間、エミリアの勝ち気な瞳がすっと細まった。
 エミリアは差し伸べられたミヒャエルの手を無視して立ち上がると、挑戦的に微笑んだ。
「いいわ、行きましょう」

 聖殿への入り口がある棟は、王宮の一番端に位置していた。
 トリスタンの案内でリートはその棟にあるゾフィーの部屋を訪れていた。
 今日は祝日のはずだが、聖殿の責任者である彼女は休みどころではないのだろう。
 ゾフィーはトリスタンを伴って現れたリートを追い返しこそはしなかったが、気に入らない様子がありありと見て取れた。
 いつもと同じような紺の地味なドレスに身を包んだゾフィーは厳しい顔つきで首を振った。
「なりません。王女の許可があっても、お通しすることはできません」
「少しだけでいいんです。すぐに帰りますから」
「なりません」
「どうしてそんなに反対するんですか? 僕はユーリエと友達になりたいだけです。そりゃ、僕は人づき合いが苦手で、うまく話せないけど、ユーリエを悲しませるようなことはしたつもりはありません」
 リートはそう一気に言って、ゾフィーの反論を待った。しかし、ゾフィーは感情的に言い返してはこなかった。ゾフィーが切れ長の瞳を閉じ、ふっと息を吐く。
「普通の人間ならわたくしもそこまで反対しません。ですがユーリエはヴォルヴァです。人間と同じように他者と関わり、傷つき、経験を積むことは、結局ユーリエを苦しめることになるのです。今までのヴォルヴァもそうでした。彼女たちは純粋で傷つきやすく、すぐに壊れてしまう。他者と関わって幸せな生涯を過ごした者はだれもいません」
 ゾフィーはそこでいったん言葉を切った。彼女の声には哀れみともつかない、複雑な感情がにじんでいた。
 ゾフィーが初めて見せる人間らしい態度に、リートは意外な気持ちがした。
 今までリートは、ゾフィーのことをユーリエを苦しめる非情で冷たい人間くらいにしか思っていなかった。だが、彼女は彼女なりに悩んでいたのかもしれない。しかも長いあいだ独りきりで。
「ヴォルヴァは一生をリヒトに捧げてその人生を終えるのです。それならば、たとえ空虚な気持ちを抱えていたとしても、人と関わらず、なにも考えずに日々を過ごすほうが、ユーリエのためになるのです。客人のあなたが関わっていい問題ではありません。あなたの言動が一度もユーリエを傷つけないと言えるのですか? その責任があなたに取れるのですか? できないならユーリエとは関わらないでください」
 リートは拳をぎゅっと握った。顔を上げ、ゾフィーの顔を真正面からひたと見据える。それでも、ここで諦めたくはなかった。ここで引き下がれば、今までとなにも変わらない。
 なぜ大切に思っているのに、人はいつもすれ違って相手を傷つけてしまうんだろう。「絶対傷つけないなんて、そんな約束はできません。僕らが人間であるかぎり、そんなことは不可能です。傷つけたくないっていつも思っているけど、相手がどう思うかは僕に決められない」
 ゾフィーのように、相手を思うあまり傷つけてしまうこともある。
 ライナスのように、関わった人が死んでしまうことも。
 それでも、人は人と関わることをやめられない。
「それに、世の中には傷つかなきゃわからないこともあると思うんです。それなら最初から傷つかないほうがいいって、多くの人は言うのかもしれないけど、でも、世の中に、傷もなく、まっさらなまま生きてる人なんていないから。それを含めて生きることなんじゃないかって、僕は思うから」
 リートは考えながら言葉を続けた。
「結局、自分がどう生きるかは、ユーリエが決めることです。僕らがいろいろ言っても仕方ない。でも、僕はユーリエといると楽しいし、いろいろ話したいって思うから。あなたが反対しても、僕はユーリエとは関わり続けます」
 沈黙のあと、ゾフィーが深々とため息をつき、立ち上がった。
「あなたにはなにを言っても無駄なようですね」
「案内します。ついてきてください」
「どうして……」
 ゾフィーは厳しい表情を崩さず、リートを見つめた。
「あなたが傷つけないと約束していたら、これ以上ユーリエと関わらせるつもりはありませんでした。ですが、そこまで愚かではないようですから」