「例えば、あれはなにに見えます?」
アルベリヒが視線で示したのは、部屋の奥に飾ってある金色の物体だった。
前足を高く上げて嘶く馬に、人が騎乗している。
「像だろう」
「絵だ」
同時にそう答えたミヒャエルとルイスは、互いに顔を見合わせた。
「あれのどこが絵なんだ?」
ミヒャエルが馬鹿にしたような顔でルイスを見た。
そんなことはありえないという口調だった。
しかしルイスは表情を変えず、どこまでも冷静に答えた。
「どこがもなにも、わたしは見たままを言っているだけだ」
リートはソファから立ち上がり、自分の目には像に映るその物体に近づいた。
鼻先が触れる寸前までにじり寄り、リートは小さく息を呑んだ。
「ほんとだ。絵だ……」
リートが影だと思っていたものは、すべて画布に書き込まれたものだった。
アルベリヒが微笑む。
「不思議でしょう? 人は影があると立体だと思い込んでしまう。頭で考えると錯覚を起こすのです。ですが、この世に存在するあらゆる物体には影がある。例外はひとつもありません。光が当たるから影ができる。それは、形ある物だけにとどまらない。世の中のあらゆる事象には、必ず光と影が存在する。それは人間も同じだとわたしは考えています。どんな人間にも二面性がある。ですが、闇のなかにいるせいで影ができない人間は多い。それと同様に、光のなかにいる人間にも影はできない。なにも見えないという点では、闇のなかにいるのと同じことなのです」
アルベリヒがじっとミヒャエルとルイスを見た。
「あなたがたには、ベギールデに入信する資格がある」
ミヒャエルが眉を上げる。
「わたしたちを勧誘するつもりか?」
険しい顔になったミヒャエルとは対照的に、アルベリヒが笑みを深くした。
「おや、わたしは最初からそのつもりだったのですが。だからこそあなたがたをここにお呼びしたのです。わたしは入信者が増えることは、喜ばしいことだと思っているんです。増えすぎるのもそれはそれで困りものですが――閉鎖的な組織は、新たに入った人間を古参の人間たちが排除しようとする。それに嫌気が差した人間は去っていき、最後には潰れてしまう」
「ベギールデがそうなることを願うよ」
ミヒャエルがそう皮肉ったが、アルベリヒは動じなかった。
「我々は組織でありません。人が動くときに必要なのは、ほんの少しの示唆です。規則も命令も必要ない。監視をつけたいならそうしていただいてかまいませんよ。どうぞ、あなたがたのご自由に」
アルベリヒのすべてを見通したかのような物言いが、リートの心をいちいち引っ掻いていくようだった。
なぜこんなに胸騒ぎを覚えるのだろう。
ミヒャエルがアルベリヒを観察するような目で見ると、アルベリヒはカップを受け皿に戻しながら言った。
「わたしからなにかを読み取ろうとしても無駄ですよ。この問題はわたし自身にあるのではない。むしろ、あなたがたの問題なのですから」
ミヒャエルがなにを馬鹿なと言いたげな表情になる。
「罪を犯しているのは我々のほうだと?」
しかしアルベリヒはそれには答えず、焦点の合わない視線を虚空に向けた。
「客観的な事実から導きだす答えだけでは、物事の本質にはたどり着けない。物には形がある。だが心は目に見えない。目に見えないものを見るには、どうすればいいのでしょうね」
問われてリートは思わず考え込んでいた。
目に見えないもの。それはいったいなんだろう。
しかしリートは、彼がその答えをもう知っているのではないかと思った。
アルベリヒがつぶやくように言う。
「だれにでも大切なものがある。失っては困る大切なものが。それを失った人間のために、わたしはここにいる」
「……あなたはリヒトにでもなったつもりなのか」
ルイスが静かに言うと、アルベリヒはそこで初めてルイスのほうを見た。
視線の定まらない瞳と、どこまでもまっすぐなルイスの瞳がぶつかる。
ルイスを見つめたまま、アルベリヒが不意に微笑んだ。
「あなたはとても残酷な人だ。だれもがあなたを守ろうとする。その犠牲の上にあなたという人間は成り立っている。だがあなたはそのことにまるで気づいていない。それどころか、存在するだけで他人を傷つける」
ルイスの瞳がわずかに揺れる。
「わたしがいつだれを傷つけたと?」
「それを知らないから、あなたはあなたでいられるのです。あなたは正直な方だ。だからこそ、あなたにはわからない」
「わたしがなにをわかっていないと?」
「あなたが特別な人間だということがです」
ルイスが理解できないというように顔をしかめる。
アルベリヒが言った意味を考えているルイスを残して、アルベリヒがミヒャエルに視線を向けた。
「わたしのところに来るのは、行き場を失った人間ばかりです。リヒトにもハーナルにも彼らを救えない」
「なら、ドンケハイツには救えるのか?」
ミヒャエルが切り返したが、アルベリヒは笑っただけだった。
「わたしは救い自体を説いても、人を救えると説いたことは一度もありません。わたしが彼らを救いたいんじゃない。彼らがわたしに救われたいんだ」
ミヒャエルが口元を歪めて笑う。
「要するに、おまえは詐欺師というわけだ」
「詐欺師と宗教家は同じものだと?」
「そうだ。両者の違いは本人に騙す意思があるかないか。それだけだ」
二人の応酬を黙って聞いていたルイスが、反論したそうな顔でミヒャエルを見る。
宗教家と詐欺師を一緒にするなど、ルイスにとっては耐えがたいことに違いない。
ルイスが二人のあいだに割って入らないかひやひやしながら、リートはそう思った。
アルベリヒが悠然と微笑む。
「騙されたと思うのは、そこに信じたい気持ちがあるからです。あなたはよくそのことをご存知だと思いますが」
「なぜ、わたしが知っていると?」
「人はいつもだれかに自分の望みを投影している。あなたはその望みに応え続けることで逆に相手を追い詰め、壊してしまう。……あの憐れなディートリヒのように」
アルベリヒはそこで言葉を切ると、ミヒャエルにゆったりと微笑んだ。
「わたしなどより、よほどあなたのほうが怖い存在だ」
ミヒャエルが黙り込んだ。その手は膝の上で固く握りしめられていた。
リートは得体の知れない不安に襲われた。リートは、ミヒャエルがだれかにこんなに押されているところを見るのは初めてだった。
アルベリヒの言っていることがまるでわからない。
そのこともリートの不安に拍車をかけていた。
だが自分はいつかどこかで、この感覚を経験している。
後ろを振り返ったら、それに捕まってしまう。
思い出したくない。これ以上知りたくない。
アルベリヒは、リートが今まで考えるのを避けていたことすべてを容赦なく突きつけてくるような気がした。
「さっきから、なぜあなたはそんなことが言えるんだ。我々のことを調べたのか?」
ルイスが鋭い視線を向けても、アルベリヒは相変わらず微笑むだけだった。
「いくらその人間のことを知っていたとしても、人は他人に心を開かない。直観が鋭い、観察眼が優れている、洞察力がある――そんなものはすべて無意味だ。人はただ自分の気持ちをわかってほしいのです。わたしは彼らに共感できる。そしてあなたたちにも。それだけのことです」
リートは考えるより先に口を開いていた。
「その人がなにを考えているかなんて、本人にしかわからないと思うけど」
共感。それはリートが一番苦手とすることだった。
言葉使いや抑揚のつけ方、表情や視線の動きで人の気持ちを推察することはできても、リートは人の気持ちをその場で感じ取れた試しがなかった。そのせいで向こうの世界ではいつも人と会話にならない。
他人がどう思っているかなんて、本当のところは本人にしかわからない。リートはそう思って今まで生きてきた。
自分の考えをそうそう簡単にわかってほしくはない。わかったようなことを言わないでほしい。そんな反発心があった。
目を逸らしてしまわないように、リートは意識してアルベリヒの視線の定まらない目を見つめ続けた。
しかし、アルベリヒはリートと視線を合わせようとはせず、横を向いたまま言った。
「あなたは怖いのですね。だれかに自分を理解されないことが」
リートは息を呑んだ。
どうして。どうしてそれを知っているのだ。自分はなにも話していないのに。
「だれよりも理解されたいと思っているからこそ、あなたは理解されることを頑なに拒絶する。だからあなたは孤立してしまう」
「違う」
とっさに否定してから、リートはしまったと思った。
これではアルベリヒの言ったことを肯定したことにしかならない。
アルベリヒがまた微笑んだ。
「勇敢さに憧れるのはいい。けれどわたしが見たところ、あなた自身は勇敢な人間ではない。あなたが恐れていることは、勇敢さなどでは到底太刀打ちできない」
これ以上話しても埒が明かないと思ったのか、ミヒャエルは彼から有力な証言を取ることを諦めたようだった。
リートたちが部屋を出ようとしたとき、アルベリヒがまた口を開いた。
「そういえば言い忘れていました。あなたが一番大切に思っている方のことですが、そう命は長くないでしょう」
ルイスが振り返り、アルベリヒをまっすぐに見つめる。
「……彼女はわたしが守る。おまえなどに手出しはさせない」
アルベリヒが静かに笑った。
「いいえ。あなたが今のままであるかぎり、死は避けられない。きっとあなたが殺すことになる」
アルベリヒは三人にまた例の超然とした微笑みを向けた。
「いずれまたお会いしましょう、ルイス・フォン・ブラウエンシュタイン。ミヒャエル・フォン・シェーンドルフ。そして、天啓者であるあなたにも」
馬車の中で、リートはルイスに話しかけた。
「ルイス、アルベリヒが言ってたのって、ルーツィアのことだよね」
「気にするな、リート。ただの脅しだ。得体の知れない似非宗教家に、わたしがどうこうされると思うのか?」
「それはそうだけど」
リートはそう言いながら、なにげなくミヒャエルのほうを見て驚いた。
考え込んでいる表情のミヒャエルの顔には血色がなく、青ざめて見えた。彼はもともと色白だが、それでもはっきりわかる。
「どうしたの、ミヒャエル。顔色が」
ミヒャエルは疲れた表情で笑った。
「あまり寝ていないせいだ。最近事件続きだったからな」
馬車の中で窓の外の景色を見つめながら、リートはぼんやり考え込んだ。
(あなたは怖いのですね。だれかに自分を理解されないことが)
そうだ。自分は確かにいつもそのことを恐れている。
他人に理解されず、孤立することを。
この世界に来る前は、だれとも考えを共有できず、居場所もなく、なにを信じればいいのかわからなくなっていた。
なぜ彼にはそれがわかってしまうのだろう。
アルベリヒのなにもかも見透かしているような視線は不気味だった。
リートは、自分が向こうの世界に馴染めないのは、単純に自分の考えと合わない人間が多いからだと思っていた。だが、本当は違うのかもしれない。
(自分のことを考えるって、こういうことなのかな)
アルベリヒの焦点の合わない瞳を思い出し、リートはまた落ち着かない気持ちになった。
いつものように互いに言い争うこともなく、沈黙するルイスとミヒャエルの向かい側で、リートは不安を拭い去ることができないまま、馬車に揺られていた。
