第21話 誘い

 翌朝、リートは侍女が自分を起こす声で目が覚めた。考え事をしながら眠ったせいで頭が重かった。
「どうしたの?」
 半分寝ぼけたままリートが声を出すと、侍女が頭を下げた。
「シェーンドルフ卿がお見えです」
 ミヒャエルのことだとわかった瞬間、ぼんやりしていたリートの頭はすぐさま覚醒した。慌てて寝台から飛び起き、深靴ブーツを履いて支度を調える。
 急いで応接間に行くと、ソファに坐って待っていたミヒャエルが立ち上がり、優美な所作で軽く会釈した。今日の彼は制服ではなく、胴着ベストの上に丈の詰まった上着を着て、首に装飾のない白い布を巻いていた。きっとそれがこちらの世界では貴族の私服なのだろう。
 ミヒャエルを見たとき、リートは二人がまったく似ていないことに改めて気づかされた。ルイスはせいかんしい顔つきをしていて、まさに騎士という感じだったが、ミヒャエルはそれとは対照的に、繊細で優美な顔立ちをしていて、いかにも貴族的な雰囲気が漂っている。口調もまるで違う。ルイスはいついかなる時であろうと真面目できびきびした口調を崩さなかったが、ミヒャエルはいつも穏やかな口調で、どことなく人を安心させるものがあった。
「こんな早朝に訪ねてしまって申し訳ない」
「シェーンドルフ卿……」
 リートがそう言うと、ミヒャエルは穏やかに笑った。
「わたしのことはミヒャエルと呼んでくれ。ルイスと同じように」
 ルイスの名前が出ただけで、リートは胸の辺りがちくりと痛んだ。リートはミヒャエルがわざとその名前を出したのではないかとさえ思った。
「どうして僕のところに?」
 リートの問いかけに、ミヒャエルが意味ありげな笑みを浮かべた。
「君をさらおうと思って」
 リートがどう反応していいか困っていると、彼がまた笑った。
「冗談だ。正確には君を連れ出そうと思って来た」
 リートが驚いていると、ミヒャエルのグレーの瞳が探るように動いた。
「わたしと話がしたいのではないかと思ってね。ルイスのいないところで」
 さらりと告げられた言葉に、リートは不意を衝かれて肯定も否定もできずうつむいた。
「違ったならべつにいい。今日はこのまま帰るとしよう」
 そう言ってくるりと背を向けたミヒャエルに、リートはとっさに声をかけていた。
「待って!」
 ミヒャエルが立ち止まり、振り向く。
 リートはミヒャエルを見つめた。ルイスはなにも教えてくれる気はないようだし、これから先も同じかもしれない。だが彼についていけば、知りたいことがわかるのだ。軽率でもなんでも、たとえあとでとがめられるとしても、この機会を逃すわけにはいかないとリートは思った。
「行くよ」
 リートが意を決してそう言うと、ミヒャエルは満足げな笑みを浮かべてみせた。
 さすがになにも言わずに行くわけにはいかないので、リートがルイス宛に手紙を書いてほしいと頼むと、ミヒャエルは快く引き受けてくれた。
「これでいいだろう」
 ミヒャエルはさらさらと紙に走り書きすると、手紙を机の上に置いた。
「では行こうか」
「どこに?」
 リートが訊ねると、ミヒャエルが軽やかに笑った。
「わたしの家だ」
 リートとミヒャエルが部屋の外に出ると、当直をしている近衛騎士が二人の前に立ちはだかった。
「どちらに行かれるのですか」
「図書室だが?」
 ミヒャエルが涼しい顔でそう答えると、近衛騎士が警戒するような視線をミヒャエルに向けた。
「ですがシェーンドルフ卿、あなたは部外者です。メルヒオル様かルイスの許可を――」
「得ていないのに、わたしが天啓者を連れ回す人間だと君は思っているのか? ハーナルの騎士であるわたしを疑うなら、ここにいる召し使いたち全員を疑わなければならなくなるぞ。わたしは誓ってだれかに危害を加えることはしない。それでも納得できないなら、ついてきてもかまわないが」
 ミヒャエルの言葉を聞きながら、リートはその大胆さにハラハラしていた。ミヒャエルの言うことはほとんどがべんだったが、彼があまりにも堂々とした態度で話すので、すべてがもっともらしく聞こえてしまう。
 ミヒャエルに押し切られ、騎士が礼儀正しく頭を下げる。
「……失礼いたしました」
 そう言いながらも、まだ納得のいかない表情の騎士に、ミヒャエルが愛想良く言った。
「少し耳を貸してくれ」
 ミヒャエルが騎士に近づいてひそひそと何事か囁くと、騎士は驚いた表情になった。
 ミヒャエルは騎士から離れると、リートのほうを見て微笑んだ。
「では、行こうか」

 歩きながら、リートはミヒャエルに話しかけた。
「さっき、なんて言ってたの?」
「ルイスが来たら、わたしに脅されたと正直に言えばいいと言ったんだ」
 ミヒャエルの答えにリートは驚いた。彼は危ない橋を渡る覚悟でここに来たらしい。それでも平然としていられるということは、なにか勝算でもあるのだろうか。
「ここからどうするの?」
「王宮の外に馬車を待たせてある」
 リートはその手回しの良さに内心驚いていた。昨日会ってから一日もっていないのに、彼はリートたちと別れてからすぐに計画を立て、準備に取り掛かったのだろうか。だとしたらたいして実行力だとリートは思った。
「そういえば、よく侍女が取り次いでくれたね」
 リートがそう言うと、ミヒャエルが口元を上げてから、片目を軽くつむってみせた。
「わたしが頼めば入れてくれるんだ」
 今の彼の仕草を見ただけで、リートは納得せざるを得なかった。
 彼に頼まれれば、たいていの女性はなんでもしてしまうに違いない。自分のような人間には一生できない芸当だ。
「あの人たち、メルヒオルに怒られないよね?」
「大丈夫だ。あの騎士も侍女も、わたしの読み通りならだれも咎められない」
 そう言い切って悠然と歩くミヒャエルを見ながら、リートは不思議な気持ちだった。
 なぜ、彼はこんなにも自信満々で、何事にも動じずにいられるんだろう? 

 馬車の中で、リートは窓越しに映る景色を見つめながら、まるで映画の舞台装置の中に入り込んでしまったようだと思った。
 貴族たちの立派な邸宅が立ち並ぶとおりを通過してしまったので、リートは意外に思った。
「わたしの家はもっと郊外にあるんだ。少し遠いが、わたしはハーナルの宿舎に住んでいるから特に不便はない。それにこの辺りより静かでいい所だ」
 ミヒャエルはそう説明し、自分も窓の外に目をやった。
「しかし、こんな簡単に捕まるとは拍子抜けだな。いろいろ手を考えたが、最初の方法でうまくいくとは」
 最初、リートは彼がなにを言っているのかわからず聞き流してしまったが、意味を理解した途端、さっと身体の芯が冷たくなるのを感じた。どうが速くなり、手足の感覚があやふやになっていく。
 リートの顔色が変わったのを見てミヒャエルが微笑む。しかし、今のリートには彼の穏やかな微笑が、とても冷徹で残忍なものに見えた。
「わたしが善人だと思ったか?」
 彼の口調は穏やかで平静そのものだったが、声には感情がまったくこもっておらず、氷のように冷たかった。
「ルイスも馬鹿なことをしたものだ。自ら君に猜疑心を植えつけるようなことをするんだからな。まあ、そうするよう仕向けたのは、ほかでもないわたしだが」
 リートは逃げ出そうと馬車の扉に手をかけたが、ミヒャエルは難なくそれを阻止した。
「おっと、そうはいかない。大人しくついてきてもらおう」
 リートは自分のかつさを呪うしかなかった。

「なにを信じていいかわからない人間をだますのは簡単だ。ちょっと揺さぶって誘導すればすぐに信じてしまう。そしてその思い込みを解くのは自分一人ではとても難しい。時間はかかるが、人を従わせるには一番確実で賢いやり方だ。力にものを言わせて服従させるよりも。そう思わないか?」
 ミヒャエルの問いかけには答えず、リートはうつむいたまま小さな声で訊いた。
「僕をどうする気ですか?」
 ミヒャエルの瞳が冷たく笑う。その時、リートはグレーだと思っていたミヒャエルの瞳が今は茶色に見えることに気づいた。彼の瞳は光の加減で色が変わって見えるらしい。
「さあ? わたしは君をルイスから引き離すように頼まれただけだからな。だがわたしが君を殺せば、あの方は喜んでくださるだろう」
 こんなことなら、ルイスを信じて部屋で大人しくしているんだったとリートは後悔した。
 知りたいと思って自分から行動しても、結局こんなことだ。
 これで殺されてしまったら、ルイスはどう思うのだろう。ライナスは自分を守って死んだのに、自分の軽弾みな行動で死ぬはめになったと知ったら、きっとがっかりするに決まっている。
 リートがうつむいたまま、そんなことを考えていたときだった。
「ふっ」
 冷たく残忍な微笑を湛えたミヒャエルの顔がこらえきれないというようにゆがみ、ついには声を上げて笑いだしてしまった。優美で気品のある彼が少年のように笑い転げている様をリートはあっに取られて見ていた。
 まだ笑いが収まらないままの表情で、ミヒャエルはリートのほうを見た。
「すまない。全部うそだ。そのつもりならとっくに君を殺している」
 ぜんとするリートの前で、グレーの瞳がいたずらっぽく輝いた。
「わたしの悪い癖だ。つい芝居掛かった真似をして、相手をからかってしまう」
「……あんまりいい趣味じゃないね」
 リートは苦笑いしながら、ミヒャエルを見た。
「僕をどうする気?」
 ミヒャエルが優雅な動作で左手を胸に当てて微笑んだ。
「改めて、君をわたしの屋敷に招待しよう」