第15話 図書館で

 やはり、現実は甘くなかった。
 審査に通ってゲームアプリが配信されても、反応はまるでかんばしくなかった。
(ま、最初からうまくいくなんて思ってなかったけど)
 そう強がってはみたものの、なにも反応がないのはつらかった。
 これではフィードバックのしようもない。
 一流は批判され、二流は褒められ、三流は無視される。
 そんな言葉をシュンは思い出した。
(俺はまだ三流か……)
 そう思いながら、シュンは机の上に突っ伏した。
(……なにがだめなんだ?)

 問題はほかにも山積みだった。
(だめだ、全然わからない)
 シュンは読んでいた本を閉じてから、本を枕にして机の上に突っ伏した。
 会社を辞めてから、シュンは電気代の節約も兼ねて、日中は図書館で勉強するようになっていた。会社を辞めて困ったのは、部屋にいると冷房代がかかりすぎるということだった。九月中はずっと部屋にこもってゲームを作っていたから仕方なかったが、電気代の請求金額の跳ね上がり方は、シュンのなかで軽くトラウマになっていた。
 自分には学がない。この先個人事業主として独立するなら、自力で経営の勉強をするしかなかった。しかし、シュンはどこから手をつけていいのかさっぱりわからなかった。本を読んでも、まるで内容が頭に入ってこない。どの本も専門用語が多すぎるし、基礎知識があることが前提で書かれていて、シュンには難しすぎた。
(勉強以前の問題だよな……)
 もともと学校の勉強は苦手だったし、興味もまるで湧かなかった。やはり自分のような人間が、今更付け焼き刃で勉強したところで仕方がないのかもしれない。
(だからって、サロンとか勉強会に行ったって、カモられるだけだし……)
 主催している人間にとっては、集まってくる人間は生徒や弟子ではなく、ただのお客でしかない。この国には、ひとりでも優秀な起業家を育てて世の中に送り出そうとか、社会のために貢献しようとか、そんな立派なことを考えている人間はどこにもいない。わざわざ自分のライバルを増やしたくないからだ。だからテレビに出て評論家を気取ったり、講演会を開いたりして金を稼ぎ、その金で自分より権力を持っている人間に取り入ったりする。しかも、そのことに罪悪感をおぼえることもない。
 頼れる人間はどこにもいない。自分で考えてやるしかないのだ。
 違う本を探しに行こうと、シュンは立ちあがった。
 返却用のワゴンに本を置き、シュンは書架の並ぶ通路を歩きまわった。図書館の本の分類方法は書店とはまったく違うので、初めシュンはどこになにが置かれているのかさっぱりわからず、目当ての本を見つけ出すのもひと苦労だった。
 経営に関する本が集められた棚の前で、シュンは足を止めた。棚の大部分は、成功をうたったビジネス書や実用書で溢れかえっている。シュンは本能的にそこは危険だと思って避けていたのだが、ふと見覚えのある名前を見つけて、本を棚から引き抜いた。
 それはとある有名な実業家が書いた本だった。表紙には、腕組みをしてポーズを決めた本人の写真が大きく載っている。彼がネットで配信している番組のチャンネル登録者数は二百万人を有に超えていて、自分と同年代で崇拝している人間も多いらしい。
 シュンはため息をつきながら、本をぱらぱらとめくってみた。
 成功した人間の真似をしたところで、同じように成功できるはずもない。そんなことは百も承知だ。それなら、この世界で最初に成功する方法を見つけだした人間の真似をすれば、それで事足りるのだから。そうなれば、成功を夢見る人間はこの世界からとっくの昔に消え去り、この本が書かれることもなかっただろう。
 だが、現実はそうなっていない。
 成功する方法などどこにもない。それが答えだ。
 でも、なにかヒントくらいは――。
「成功するための本を読んだって成功できないよ、青年」
「いや、これはべつに――」
 聞こえてきた声に反射的に答えてしまってから、シュンは慌てて周りを見まわした。
 しかし、辺りにはだれもいない。シュンは怪訝に思いながらまた棚に視線を戻したが、その瞬間息を呑んだ。
 本棚を背にして、ひとりの男がシュンの目の前に立っていた。身長百七十五センチのシュンより、さらに十センチほど背が高い。歳は四十代後半か、五十代前半くらいだろうか。着古したシャツとスラックス、それに履き潰した靴。身につけているものはどれもくたびれているにも拘わらず、男はとても若々しく見えた。
 男がにこりと笑う。
「君は彼の仕掛けた罠にまんまと嵌まっている。彼のような人間は、君のような若者から金をふんだくることしか考えていない。なぜなら、それが彼らにとってのビジネスだからだ。君が成功できなくても、彼は責任を取る必要がない。努力が足りないと切り捨てるだけだ。そして、最後にこう言う。金を払った分だけ夢は見せてやっただろう。いい夢を見られてよかったじゃないかと」
「……知ってます。言われなくても」
 急いで本を元の場所に戻しながら、シュンが憮然とした口調で言うと、男はくっくと笑った。
「いいね、その生意気な態度。扱いづらいとも言うけど」
 男の反応に、シュンは多少面食らった。こういうことを言ったら、たいていの人間は気を悪くするはずなのに。それで教師たちはいつも、シュンの存在を持て余していた。
 男が書架を見上げ、また口を開く。
「本は、読み方を知っている人間にはとても有用だけど、知らないと却って毒になることのほうが多いんだ。特に、自分がどうしたいのかわからなくて迷っているときはね」
 男はそこで言葉を切ると、物思いに耽るような表情で本の背表紙を撫でながら、そっと言った。
「……心が定まっていないとき、自分の中にある羅針盤は、決して行き先を示してはくれない」
 シュンは男の言う意味がわからず、眉を上げた。
 羅針盤? いったいこの男はなにを言っているんだろう?
 いきなり話しかけてきたし、カルト宗教の危ない人間かもしれない。
 シュンがどうすればいいか迷っていると、ふいに男がじっとシュンを見つめた。
「君は夢と現実、どちらが見たい?」
「それはもちろん、現実ですけど」
「なら君が読まなければいけないのは、一類と二類の棚にある本だ。それから七類と九類も忘れずにね」
 男はそう言って、片目をつむってみせた。
「……現実から目を背けるために、夢を見てはいけないよ」

 夕暮れに照らされたアパートの階段を登りながら、シュンは今日の出来事を振り返った。
(なんだったんだ、あの人)
 いろいろ質問をしたかったが、あのあと男性はシュンが目を離した隙にいなくなってしまったのだ。シュンは男の言っていたことを思い出して、帰りがけに案内表示を見たが、男の意図がますますわからなくなった。
 一類は哲学と宗教、二類は歴史。七類が芸術で、九類は文学。
(……それのどこが現実なんだ?)
 シュンは部屋の鍵を開けて中に入り、靴を脱ごうとしたが、その前に勢いよくだれかに抱きつかれた。
「おかえりなさい!」
 シュンは弾みで玄関の扉に背中を打ちつけそうになったが、なんとかその場に踏みとどまった。視線を下に向けてみて、シュンは驚いた。
「メグ……?」
 シュンに抱きついたままの体勢で、メグがにこりと微笑んだ。
「久しぶり。元気にしてた?」

 例によって、マグカップに淹れた紅茶を彼女に出してから、シュンはメグの話を聞くことにした。
 会うのは二か月ぶりだが、彼女に特に変わったところは見受けられなかった。
 今日の彼女は、青地に白い水玉模様の入った襟付きのレトロなワンピースを着ていて、無彩色モノトーンで統一されたシュンの部屋は一気に華やいで見えた。
「あの、ここに来るのって禁止なんじゃ……」
 メグが悪戯っぽく笑う。
「言ったでしょう、わたしにこの世界で入れない場所はないの。ジーンたちは、管理者専用の道を通らないとこっちに来られないけど、わたしはどこにでも扉を作って繋げられる。だからいつでもこっちに来られるのよ」
「それで……なんでこっちに? やっぱり雨が降ってきたの?」
「ううん、それはもう大丈夫。そうじゃなくてね、ジーンがあなたの記憶を消すって言うから、そうなる前にわたしが来たの」
「それ、誓約書書かなかったっけ? 向こうでのことはだれにも話しませんって」
 シュンは向こうに帰る前に、ジーンに言われて、恐る恐る誓約書に署名したことを思い出した。彼らが使う誓約書がただの紙きれなわけがない。そう思ったシュンは、誓約を破ったらどうなるのかジーンにたずねたが、残念ながらジーンは教えてくれなかった。
 メグの顔が曇る。
「そうなんだけど……本当はね、向こうの世界と関わった人は、その部分の記憶をすべて消さないといけないの。でも記憶を操作すると、稀に人格が変わってしまうこともあるから、あなたには使わないでってジーンに頼んでいたんだけど、だめだったみたいで……」
 メグはそこで言葉を切ると、じっとシュンを見つめた。
「あのね、わたし、あなたを好きになってしまったの」
「……は?」
 シュンは、たっぷり三秒くらい間隔を空けてからそう言っていた。
(俺は今、告白されたのか?)
 とりあえず言えることは、映画でも現実でも、自分の反応は絶対に失格だということだった。ロマンも情緒もなにもない。間抜けにもほどがある。
 いや、それよりも。
「君は特定の人間を好きになれないはずだろ?」
「わたしもそう思ってた。でも、好きになってしまったの。だからここに来たの」
言いながら、メグがずいっとシュンのほうに身を乗り出す。
「あなたと一緒にいたいの。ここにいさせて」
「そ、そんな急に……だいたいうちにそんな余裕は」
「お願い。お金のことなら大丈夫よ。わたしはなんでも自分で出せるから」
「そうじゃなくて……君は俺の意思を無視してるぞ、メグ。君に押しかけられて、俺が迷惑してるとは思わないのか?」
 シュンの言葉に、メグの顔がまた曇った。
「迷惑なの?」
 自分で言っておきながら、シュンはすぐに頷くことができなかった。
 そういう顔をしないでほしかった。彼女には笑顔が一番似合うのに。
 そうやって人に罪悪感を抱かせる彼女はなかなかに卑怯だ。
「……違うけど。一般常識というか、礼儀というか、思いやりというか、配慮というか。君は自分のことしか考えてないだろ」
「じゃあ帰れってこと?」
「いや、それは――」
 ……帰ってほしくない。
 なぜ?
(だって、俺は)
 君のことが好きだから。そんな言葉が喉から出かかって、シュンは自分に動揺した。
 違う。。友達として好きなだけだ。なにせ自分には、気軽に話のできる知り合いがだれもいない。だからいなくなるのが寂しいだけだ。
 だいたい、彼女は部屋の家具の配置にダメ出しして勝手に変えるし、拉致された自分の心情などお構いなしに、ピクニックに誘うような非常識な人間だ。今だって自分の都合も考えず部屋に押しかけているし、おまけに一度入ったことがあるとはいえ不法侵入だ。それで好きになるほうがどうかしている。
 ……どうか、している。
「だいたいジーンはどうしたんだよ。向こうで心配してるんじゃないのか?」
「ジーンとは別れたわ。これからはただの友達としてつき合ってって言ったの」
 あっさりそう言ったメグに、シュンは目を見開いた。
 ジーンはメグの話を聞くかぎり完璧な人間だ。仕事も家事もこなせて、料理も巧い。 到底自分のような、平凡以下の人間が太刀打ちできるような相手ではない。
 なのになぜ。
(俺のどこがそんなによかったんだ?)
 しかし、混乱しているシュンの目の前で、突然メグが腹部を押さえてうずくまってしまったので、シュンは慌てて近寄った。
「メグ! どうしたんだよ」
(病気か? それとも女の子特有のあれか?)
 まさか妊娠してるなんてことは、
 シュンが慌てふためいていると、メグが力なく笑った。
「違うの、実は朝からなにも食べてなくて……お腹がすいたの」
 それを聞いて、シュンは脱力した。

「美味しい!」
 ひと口食べてすぐに、メグは目を輝かせてそう言った。
「いや、ただのパスタ料理とスープだけど……」
 シュンは口ごもりながら言うと、自分も皿に盛ったパスタにフォークを巻きつけた。料理は好きだが、そんな大層なものができるわけではない。三十分程度でできるものが大半だ。
 自分もひと口食べてみてから、シュンは心の中で頷いた。
(うん、今回も巧くできた)
 ナポリタンは、パスタを茹でているあいだに、玉ねぎ、ピーマン、マッシュルーム、ソーセージなどの具材をバターで炒め、茹であがったパスタとケチャップでえればすぐにできる。そこにいくつかの隠し味を加えればさらに美味しくなる。
 十二歳の頃から、母が仕事で遅くなるときは、いつもシュンが料理を作っていた。カレーライスなら、目をつぶっていたって作れるくらい、何度も作った。
「でも、とっても美味しい。こんなのがすぐ作れちゃうなんて魔法みたい」
「それは君が言うと嫌味に聞こえるけど……」
 シュンはぼそりとそう言ったが、メグはまったく聞いていなかった。
 自分の作った料理を美味しそうに食べるメグを眺めながら、シュンはよくわからない気持ちに襲われていた。
(なんだろう、この感じ)
 そう思ってからすぐに、シュンはその正体に気づいた。
(ああそうか、昔に似てるのか……)
 そうだ。母は自分の作った料理をいつも喜んで食べてくれた。始めたばかりで巧く作れなかった頃から、ずっと。朝から晩まで働いているせいで母はいつも疲れていたが、そのときだけは笑ってくれた。学校の成績が悪くて、優等生になれない自分には、それくらいしかできることがなかった。
 料理を食べ終わり、メグはフォークを空になった皿の端に置いた。
「ありがとう、あなたのおかげで生き返ったわ」
「いや、そんな礼を言われるほどのことじゃ……」
 シュンは落ち着かない気持ちで目を逸らした。ありあわせの材料で作っただけだし、スープに至っては昨日の残りだ。残しておいてよかったとは思ったが。
「わたしは料理が苦手だから……道具も巧く使えないし、いつも味の加減に失敗するの。ジーンは、苦手なら無理してやらなくてもいいって言うんだけど……わたしは完成した状態で料理を出せるから」
「それはそうだろうけど……」
(でも、作る楽しみがないよな)
 話を聞きながら、シュンはそう思った。
 母は、毎食献立を考えるのも作るのも苦痛だとよくこぼしていたが、シュンは昔から料理を作ることが嫌だと思ったことはなかった。もともと外食やコンビニ弁当が苦手だというせいもあるが、むしろ食べるのはおまけで、作りたいから作っていた。限られた材料でそこそこ美味しいものを作りだすのは、結構楽しい。
「でもね、わたしは自分でちゃんと作ったって思いたいの。それでわたしの作った料理を美味しいって言ってほしかったんだけど……」
「じゃあ練習する?」
 シュンはなんとなくそう言ったあとで、しまったと思ったが、もう遅かった。
 メグの顔がぱっと輝く。
「瞬が教えてくれるの? それ、ここにいていいってこと?」
「いや、それは」
 どうしよう。勢い込んで身を乗り出すメグに、シュンはため息をついた。
「……わかったよ。でもしばらく泊めるだけだから」
「ほんと? ありがとう、瞬!」
 メグは椅子から立ちあがると、シュンが止めるのもお構いなしに首に腕を回して、ぎゅっと抱きついた。シュンはどうしていいかわからず、わたわたするしかなかった。
(……どうするんだよ俺)
 つき合ってもいないのに、いきなり異性と同棲?
 しかも相手は自分を好きだと言っている。
(……俺、夢を見てるのかな)
 この展開は、あまりに自分にとって都合が良すぎた。