第57話 避難

 エミリアが菓子を片手に不機嫌そうな顔で言う。
「それで、どうしてルーツィアが狙われなきゃいけないの? この件に直接関係ないのに」
 いつものように、リートの部屋にはエミリアが来ていた。
 アルベリヒの屋敷に行ってから、丸一日が経とうとしていた。
 ルイスが首を振る。
「わからない。だがそう言われたんだ」
「あなた、なにかアルベリヒに恨まれるようなことでもしたの?」
 エミリアが疑わしげな視線を向けると、ルイスがむっとした顔になる。
「なぜそうなるんだ。わたしは昨日初めて彼に会ったんだぞ。仮にそうだとしても、ふくしゅうを実行する人間のほうが悪いに決まっている。罪を犯すか犯さないかは、本人の問題だ」
「それはそうだけど、本人の意思とは関係なく、だれかを傷つけてしまうことだってあるじゃない」
「他人を恨んでもなにも解決しないだろう」
「それはそうだけど――」
 二人のやりとりを聞きながら、リートはうつむいた。
「それより、僕はミヒャエルが心配で……あれからずっとここに来てないし」
 アルベリヒの邸宅を出てから、ミヒャエルは明らかに様子がおかしかった。
 いつもならルイスをからかうことに余念がないのに、ずっと黙ったままだったし、ハーナルに報告しなければならないからと、途中で馬車を降りてしまった。
 言っていることは不自然ではない。むしろ、ハーナルの騎士ならそれが自然な行動だ。だがいつものミヒャエルらしいかと問われれば、到底彼らしくない行動の仕方だった。
 あれ以来、ミヒャエルはずっとリートの部屋に来ていない。
「リート、言葉を返すようだが、そもそもミヒャエルはここにいること自体がおかしいんだ。捜査情報を外部に漏らすなど本来あってはならないことだし、彼にはハーナルに自分の部屋がある。仕事はそこですべきだ」
「それはそうなんだけど……」
 リートはもどかしい気持ちでそう言った。
 さっきのエミリアも、自分と似たような気持ちだったに違いない。
 ルイスには、この不自然さがわからないのだろうか?
 だがおそらくリートが説明しても、ルイスには理解できないだろう。
 それのなにが問題なんだ? きっとそう言うはずだ。
 そして自分は、この違和感を言葉で言い表す術を知らない。
 その時、失礼しますという声がして、侍女が部屋に入ってきた。
「殿下、ルーツィア様が到着なさいました」
 エミリアがうなずき、立ち上がる。
「わかったわ。出迎えに行きましょう」

 リートたちが部屋を出て向かったのは車寄せだった。
 車寄せにめられた馬車から、ルーツィアが侍女に手を引かれて降りてくる。
 エミリアがルーツィアに近寄ると、ルーツィアは片膝を折って跪いた。
「来てくれてありがとう、ルーツィア。急にこんなことを言って驚いたでしょう?」
「いいえ、礼を申し上げるのはこちらのほうです、殿下。このたびの過分なお計らい、なんとお礼を申し上げたらよいか」
 恐縮した様子のルーツィアに、エミリアが微笑む。
「いいのよ。わざわざ向こうがあなたを襲うと予告しているんだから、打てる手は打っておかないと。あなたはルイスの婚約者なんだし。特別扱い上等よ」
「ですが……」
 エミリアが片目をつむる。
「堅苦しいのはなし。エミリアって呼んでって前にも言ったでしょう。ほら立って」
 エミリアに促されると、ルーツィアは控えめに微笑み、立ち上がった。
「はい、エミリア様」
 ルイスが不満げな顔で口を挟む。
「わたしだっていろいろ考えていたんだ。メルヒオルに頼んで屋敷にかくまってもらおうと」
「それだとメルヒオルが危険だし、彼にもあなたにも仕事があるって話になったでしょ。ここなら二十四時間近衛騎士が守ってるから、この国で一番安全よ」
 エミリアはルイスに言い返し、ルーツィアに笑いかけた。
「だから安心して泊まってね。本当ならルイスが付きっ切りであなたのそばにいるのが一番いいんだけど、リートのそばを離れるわけにもいかないから」
 リートはそれを聞いて少し申し訳なくなった。いくら仕事だとはいえ、ルーツィアは婚約者なのに。だが、ルイスが仕事を休むことをルーツィアが承諾するとも思えなかったので、これでよかったのだとリートは自分に言い聞かせた。
 ルイスが一人でルーツィアを守るより、ここにいるほうが安全に違いないのだから。
「ハーナルはあなたを守るより、アルベリヒを監視するので忙しいみたいだし。殺害予告とは呼べないから動けないなんてあんまりだわ。でもね、あなたに一応話は聞くんですって」
 エミリアがルーツィアに話すのを聞きながら、リートはアルベリヒの言葉を思い出した。
(彼女の命はそう長くないでしょう)
 確かに、殺害予告というよりはまるで予言のようだとリートは思った。彼は殺すとは言っていない。だが、ルーツィアはまだ二十代だ。余命が短いとは考えにくい。
 しかも、ルイスの一番大事な人がルーツィアを指すのは明白なのだから、ハーナルはアルベリヒを脅迫罪で逮捕してくれてもいいのにと、リートは思った。
 アルベリヒは、屋敷を監視されることをなんとも思っていないようだった。よほど自分の計画に自信があるのだろうか。それともただ、リートたちを脅しただけだったのだろうか。
 だが、一連の事件をアルベリヒが起こしたという物的な証拠は、今のところなにもない。あるのは証言だけだ。
「なにか必要な物があったら、遠慮なく侍女に申しつけてね。言いにくかったらルイスに伝えて」
「ありがとうございます。ですが……」
「ですがはなし。あなたはご両親を早くに亡くして苦労してるんだから。多少のわがままは許されるわ」
 エミリアがそう言うと、ルーツィアが驚いたように目をみはった。
「あなたはちゃんと幸せにならなきゃ。遠慮ばかりしていないで、言いたいことは言わないと。ただでさえルイスは鈍いんだから」
 ルーツィアは一瞬ふっと目を伏せたが、やがて淡く微笑んだ。
「……そうですね」
 そんな彼女の様子は、まるで人目につかないところにひっそりと一輪で咲いている、れんで清純な花のようだとリートは思った。
 なんとなく、リートはなぜルイスが彼女を選んだのかわかったような気がした。彼はきっと、温室に咲き誇る大輪の花よりも、目立たなくてもけなに咲いている花を美しいと思うような人間なのだ。
 ルーツィアの隣で、ルイスがエミリアをむっとしたように睨む。
「どういう意味だ、それは」
「だって事実でしょ」
 またいつもの言い争いをはじめたルイスとエミリアを、リートは複雑な思いで眺めた。だが、リートはそれと同時にエミリアを尊敬してもいた。
 エミリアは、王女としての権力を行使してでもルーツィアを守ろうとしている。それをしたところで、自分に一切得がないにも関わらず。
 それがルイスのためになるなら、彼女はためらわない。ただ好きなだけでできることではない。リートは強くそう思った。

 ルーツィアの元気がないという話を、リートはいまだに気にしていた。
 自分のせいだとは思いたくないが、その可能性はある。ルイスはリートを守るために応戦して一度刺されているのだ。
 彼女とは一度きちんと話をしておかなければならない気がした。
 ある日、リートは思いきってそのことをルイスに言ってみた。
「ルイス、頼みがあるんだけど」
 リートが、ルーツィアと二人きりで話したいのだと言うと、ルイスは少し驚いた表情になったが、すぐにうなずいてくれた。
「ルーツィアがいいなら、わたしはかまわない」
「ありがとう」
 ルーツィアの部屋はリートと同じく、賓客が泊まる棟にあった。距離はそこまで離れていなかったので、これならすぐ遊びに来られそうだとリートは思った。
 しかし、部屋の中から現れたのはルーツィアではなかった。
「ルーツィアはどこに行ったんだ?」
「医局に行かれました」
 侍女の答えにルイスが眉を上げる。
「どこか具合でも悪いのか?」
 ルイスの声の鋭さに侍女が恐縮したように顔をうつむける。
「いいえ、そうではなく――」
「ルイス、リート」
 その時、リートたちがやって来たのと反対側の廊下から現れたのは、トリスタンを伴ったエミリアだった。
「ミリィ様」
「あなたたちもルーツィアに会いに来たの?」
 エミリアは三人のほうを見て、目当ての人物が見当たらず首をかしげた。
「ルーツィアはどこ?」

 侍女の話を聞いたリートたちは、急いで医局に向かった。
 ルーツィアがいたのは、遮光幕で区切られた寝台が幾つも並ぶ医務室のような場所だった。彼女は、患者が横たわっている寝台の横に置いてある椅子に腰掛けて、患者の様子を見守っているようだった。
「ルーツィア」
 ルイスが呼ぶと、ルーツィアがふと顔を上げた。そして、その隣にいるリートとエミリアに視線を移した途端、慌ててこちらに近寄ってきた。
「申し訳ありません、警護されている身で王宮の中をうろうろするのはどうかと思ったのですが、侍女の具合が悪そうだったので医局に連れてきたんです。でも人手が足りないようだったので、わたしが代わりに診ていたんです。医術道具はすべて家に置いてきてしまったので」
「そうだったのか。急にいなくなるから心配したぞ」
 ルイスがそう言うと、ルーツィアが目を伏せた。
「申し訳ありません。驚かせてしまいましたね」
「そんなに謝らなくていいわよ、ルーツィア。あなたがどこへ行こうがあなたの自由なんだから」
 二人のやりとりを見ていたエミリアが呆れた顔で言うと、ルイスがむっとした顔になった。
「ルーツィアは命を狙われているんだぞ」
「それとこれとは別よ。それより、人手が足りないってどういうことなの? 確かに向こうの医務室にいた医官たちは忙しそうだったけど……」
「ハインリヒが召し使いと医官の数を減らしたせいだよ。神聖派は反対したが通らなくてね」
 その声にリートたちが振り返ると、そこにはいつもの白いほう姿のメルヒオルが立っていた。ルイスが驚いた顔になる。
「メルヒオル、どうしてここに」
「少し医局長に話があってね」
「でも、わたしたちのところは特に変わっていないわよ」
 エミリアがそう言うと、メルヒオルが穏やかな表情で微笑んだ。
「本当にそうかな? 変化というのはいつも末端から現れる。例えば、きちんと庭の手入れがなされているか。掃除が隅々まで行き届いているか。召し使いの健康状態が悪ければ、衣食住に悪影響が出る。気づいたときにはもう遅い。荒廃するまではあっという間だ。目につきづらいところから、静かに崩壊は始まるんだよ」
 リートはそうかもしれないと思った。
 いつだって気づいたときにはもう遅い。
 そして失ってしまってから、あの時ああしておけばよかったと後悔するのだ。
「君が女王なら、みんなその小さなほころびを隠そうとするだろう。だからいつも気をつけてよく見ていないと、大切なことを見逃してしまう。わたしの言っていることがおおだと思うかな?」
 しばらく考えたあとで、エミリアは首を振った。
「いいえ。あなたの言うとおりだと思うわ。ゾフィーの振り回す机上の空論はつまらないけど、あなたの授業はいつも説得力がある」
 黙って二人のやりとりを聞いていたルーツィアが、静かに口を開いた。
「メルヒオル様。ここにいるあいだだけでも、なにか医局でお手伝いさせていただけないでしょうか。守っていただいている代わりに、わたくしも自分にできることがしたいのです」
「ルーツィア」
 ルイスが戸惑った表情になる。ルーツィアが真剣な表情でルイスを見つめた。
「わがままだとわかっています。でも、なにもせずここにいるのは、どうしても心苦しいのです。それに、ただ部屋でじっとしているのは息が詰まりますから」
「しかし……」
「わたしはかまわないよ。もともとその話で医局にきたんだ。人手不足で困っているなら、女性の召し使いたちは、あなたにてもらうようにしてはどうかと提案するつもりだったんだ」
 メルヒオルの言葉に、ルーツィアが目を見開く。
「それは素敵ね。今の試験制度では女性は医師になれないから。いるのは医師の補助をする人間だけだし」
「そうなの?」
 エミリアの言葉にリートは少し驚いた。だがそれも当然かもしれない。この国では女性は騎士にも官吏にも大学教授にもなれないし、大学にも通えないのだから。
「でも、わたしはただの町医者ですし」
「それはあなたのせいじゃないわ。もし試験を受けられるようになったら、きっとあなたがリヒトガルテンで最初の女性医師よ」
 エミリアがそう言うと、ルーツィアは慌てたような表情になった。
「そんな、わたくしは医学校も出ていませんし、父に教えを受けただけですから」
「なにを言ってるんだ。君はわたしが知っている医師の中で一番腕がいいし、人格的にも優れている。資格を持っているかどうかは君の場合たいして問題じゃない。君ほど医師にさわしい人はいない」
 ルイスに手放しで賞賛され、ルーツィアは困ったように顔をうつむけた。
「……ルイス様は褒めすぎです」
「わたしは世辞は言わない人間だ」
「なら、ルーツィアにはここでは働いてもらってもかまわないね?」
 メルヒオルがそう言うと、ルイスはうなずいた。
「ルーツィアがそうしたいなら、わたしはそれでいい」
「ありがとうございます」
 ルーツィアがほっとしたように頭を下げると、メルヒオルが微笑んだ。
「あなたの亡くなった父上が喜んでくれているといいのだが」
 その言葉に、ルーツィアがかすかに目を瞠ったあと、メルヒオルに静かに頭を下げた。
「……恐縮です」
「ところでルーツィア、リートが君と二人で話をしたいと言っているんだが、かまわないか?」
 ルイスがそう言うと、ルーツィアは少し驚いたようだったが、すぐに微笑んでうなずいた。
「もちろんかまいません」

 医局を出て、自室に向かう途中の廊下でメルヒオルは立ち止まった。向こうから歩いてくるのは、二人の秘書官を引き連れたハインリヒだった。
 メルヒオルの前で、ハインリヒが立ち止まる。
「ルイスの婚約者を保護しているそうだな」
「さすがに耳が早いね」
「そうやって徐々に王宮を私物化するつもりか」
 そう言って鋭い視線を向けるハインリヒに、メルヒオルはやんわりと笑みを返した。
「手配したのは王女だよ。わたしはなにも知らなかった」
 ハインリヒは信じるものかという目つきでメルヒオルを見たあと、軽蔑をあらわにした顔で吐き捨てるように言った。
「シュネーベル……よりにもよってあの男の娘を選ぶなど、まったくあの騎士らしいな。わざわざ貴族の権威をおとしめるような女など。まあ、はぐれ者同士お似合いなのかもしれないが」
「ルイスが決めたことだ。この件にわたしが口を出すつもりはない」
 メルヒオルが淡々と答えると、ハインリヒはメルヒオルにずいと顔を近づけた。
「我々の世界には、侵してはならない不文律がある。それを守れない人間はだれであろうと排除される。それが物事の道理というものだ」
 そう言うと、ハインリヒは脅すような低い声で、メルヒオルに囁いた。
「……せいぜい、あの娘が殺されないように気をつけろ」