第62話 気まずい二人

 最後の台詞せりふを書いて、リートは机の上に突っ伏した。
「終わった……」
 今はそれしか考えられなかった。
 人は長期間取り組んでいたなにかが終わったとき、感慨にふけるより先に空っぽになってしまうものらしいとリートは思った。
「できたよ、ルイス。君のおかげだよ。永遠に終わらないと思ってたけど、続けてたらいつかは終わるものなんだね」
 リートはいつになく高揚した気分でまくし立てるように話したが、肝心のルイスはリートの言ったことを聞いていないようだった。
 ルイスがあまりに深刻な顔をしているので、リートは不満なのを通り越して、彼が心配になった。
「……どうしたの? ルイス」
 リートがそう言うと、ぼんやりしていたルイスがはっと顔を上げ、また視線をうつむけた。
「いや、なんでもない」
「そう?」
 その時、ノックの音に続いて扉が開いた。
「おはよう、リート」
 現れたのはエミリアだった。
「おはよう」
 リートはすぐに挨拶を返したが、エミリアはなぜか椅子にすわろうとせず、扉の前に立っていた。そして、その視線の先にはルイスがいた。
 一方のルイスはいつの間にか立ち上がり、硬い表情でエミリアを見つめていた。
 二人とも、一言も発さない。
 リートは代わる代わる二人を見比べながら、どうしたものかと思っていると、エミリアが口を開いた。
「あのね、今からルーツィアを借りてもいい?」
 エミリアがそう切り出すと、ルイスが眉を上げた。
「なぜだ」
「今日はルーツィアも宴に出ることになってるから、その前に衣装合わせがしたいの」
「しかし、宴のあいだわたしはリートのそばにいなければ」
「ルーツィアはリートの同伴者ってことにすればいいでしょ?」
 エミリアがそう言うと、ルイスは瞼を閉じて息を吐いた。
「わかった。そういうことは君とルーツィアの好きにしてくれ」
「そうするわ」
「……わたしは外にいる。なにかあったら呼んでくれ」
 そう言ってルイスは部屋から退出してしまった。
 入れ替わるようにエミリアは部屋に入ると、机の上の状態を見て目を丸くした。
「まあ、ずいぶん散らかしたのね」
「ルイスにあんしょうしてもらって台本を復元してたんだ。やっと完成したんだよ」
「あれからずっとやってたの?」
「うん。なんだかやらないといけない気がして」
 答えながら、せっかく台本が復元できたのにだれも喜んでくれないので、リートは少し悲しかった。べつに褒められるためにやっていたわけではないが、一言くらいねぎらってくれてもいいのに。
 いつものルイスとエミリアなら、なにかしら自分に言ってくれるはずだ。
 そう、いつもの二人なら。
「……なにかあったの?」
「大丈夫よ。ちょっと寝不足なだけ」
「そうじゃなくて。ルイスとけんしたの? さっきだって出ていっちゃったし」
 リートがそう言うと、エミリアが口元を上げた。しかし、どこか無理やりに見える笑い方だった。
「好きだって、バレちゃった」
 リートは一瞬息を止めた。
「……ルイスはなんて?」
「なにも。わたしが言っただけだから」
 苦く笑うエミリアに、リートは居たたまれない気持ちでうつむいた。
 こんなことなら興味本位で聞かなければよかった。
「……ごめん。僕なにも知らなくて」
 リートがそう言うと、エミリアは首を振った。
「いいの。これでやっと楽になれた。なにも起きてないふりをするのは、もう疲れたから」
 エミリアはそう言って椅子にすわった。
「秘密を持つってつらいわね。わたしには数日が限界」
 物憂げにつぶやくエミリアを見ながら、リートは片手をぎゅっと握りしめた。
「……お菓子」
 ごちゃごちゃしているかばんの中から目的の物を取り出すときのように、使えそうな言葉を頭の中から取り出そうとして、リートが見つけたのはその単語だった。
「レーネさんに焼いてもらおう。とびっきりのやつ。それから二人で食べようよ、あの時みたいに」
「ありがとう、リート」
 レーネが淹れてくれたお茶を飲みながら、リートはエミリアに話しかけた。
「最近、ミヒャエルに会った?」
「いいえ、会っていないわ。仕事が忙しいんでしょうけど。侍女たちも寂しがってるわ」
「アルベリヒに会ってから、ミヒャエルはなんだか変なんだ。全然こっちに来てくれないし、僕らになにか隠してる」
「そうね。でも、彼が犯人なわけないでしょう?」
「うん。でも、アルベリヒが言ったことが引っかかってて」
 リートは考えながらそう言った。
「今のルイスとミヒャエルじゃ、ルーツィアを助けられないって言ったんだ。あれはどういう意味なんだろう」
「敵の言うことは真に受けないほうがいいわ。そうやってあなたたちを惑わせる作戦かも」
「でも、アルベリヒは馬鹿じゃない。彼のすることにはすべて意味がある。そんな気がするんだ」
 だが、どうすればいいのだろう。
 ミヒャエルをここに呼びつけるわけにもいかないし、そもそも彼になにを聞けばいいのかもわからない。
 自分はなにも知らない。知るための手段もない。
 なにも材料がないのに、答えは出ない。
 それとも単に、自分はなにかを見落としているだけなのだろうか?
 アルベリヒのところに行ってからずっと、頭の中が空転している。リートはなんとなくそんな気がしていた。
(僕はいったい、なにを考えればいいんだろう?)

 夜になり、リートはルイスを伴ってルーツィアを部屋まで迎えに行った。
「こんばんは、ルーツィア」
 リートが挨拶すると、ルーツィアがお辞儀した。
「こんばんは、ルイス様、リート様」
 淡い水色の夜会用のドレスを着たルーツィアはれんで美しかった。
「ルーツィア、どうした?」
 ルイスが心配そうな表情で近寄った。
「……いつもより顔色が悪い」
「大丈夫です。少し寝つきが悪かっただけですから」
 そう言ってルーツィアが安心させるように微笑んだ。
「行きましょう」
 外に出ると、扉の前に一人の近衛騎士が控えていた。
 ルイスが立ち止まり、騎士のほうを見る。
「見かけない顔だが、君は?」
 うつむいていた男が顔を上げる。リートも青年のほうを見た。金髪に青い目。取り立てて特徴のない顔立ちの青年だった。
「アンスヘルムと申します、ルイス様」
「エリックはどうした?」
「急病で外れました。今日はわたしが代わりに」
「そうか。だが今日はわたしがいるから護衛は必要ない。会場の警備を頼む」
 ルイスがそう命じると、アンスヘルムがうなずいた。
「承知しました」
 青年騎士は三人に恭しく一礼し、先に会場へと向かった。

 三人が廊下を歩いていると、不意にルーツィアが歩みを止めた。
「ルイス様」
 ルイスが振り返る。
「どうしたんだ?」
 立ち止まったルーツィアが、困ったように眉を下げていた。
「それが、部屋に忘れ物をしてしまったようなのです。申し訳ありませんが、取りにいっていただけませんか?」
「かまわないが、なにを忘れたんだ?」
「……ハンカチーフを」
「僕が行ってくるよ。ルイスはルーツィアのそばにいて」
 リートがそう言うと、ルイスは戸惑った表情になった。
「しかし……」
「大丈夫だよ、そこからそこの距離だし。ルーツィアを一人にするほうが危ないよ」
 まだ難色を示しているルイスを気にせず、リートはルーツィアのほうを見た。
「どこにあるの?」
 ルーツィアが瞼を閉じてそっと言った。
「……机のひきだしの中に」

 リートはルーツィアの部屋に入ると、机の抽斗を開けた。ルーツィアの言ったとおり、そこには花柄の白いレースのハンカチーフがわれていた。
 ハンカチーフを手にしたまま、リートはなんとなく机の上を観察した。
 ルーツィアは最低限の身のまわりの物しか持ってきていないようで、部屋に置いてある物はごくわずかだった。そのせいで、リートの目は自然とそれに注がれていた。
 それは、一冊の黒い革表紙の本だった。
 リートは首をかしげた。ルーツィアの部屋に入るのはこれで二度めだが、前に来たときにはなかった気がする。
 リートはその本になにげなく手を伸ばしたが、その瞬間、なぜか不吉な予感に襲われた。
 手に取ってみて、それは確信に変わった。黒い革表紙。この色、この大きさ。間違いない。ミヒャエルの部屋で見せてもらったのと寸分違わず同じ物だった。金文字の表題も今なら読める。ドンケハイツの書とはっきり刻印されている。
 無意識に呼吸が速くなる。心音がうるさいほど響いて胸に痛かった。
 そんなはずがない。まさか、そんな。
 彼女は自分がだれに狙われているのか知っているはずだ。なのに、なぜ彼女がこれを持っているのだ。
 勝手に震えだした身体をなんとか抑え、リートは考えた。
 どうすればいい。どうすれば。
 しかし、これから宴が始まってしまう。
 リートはハンカチーフを手に急いで部屋を出た。