第36話 罠

 自分を信じること。それがどういうことなのか、今までリートはよくわからなかった。だが、今は少しだけわかる。大事なのは、だれかの教えに服従することではなく、自分の感じ方と考え方を大事にすることなのだと。
「だから、僕はあなたたちの言うことを信用できない。信用できる人間は相手に信じろなんて言わない。いつだって行動で示す。僕らが言うことを聞けば、ドンケハイツが救ってくれるなんて僕は思わない。それはリヒトも他人も同じだ。自分から動かない人間に、救いなんて永遠に訪れるわけがない。そんなのはただの思考停止だ」
 リートはそう言い切って、男を睨んだ。
 鼓動を打つ速度が速すぎて、胸が痛かった。
 その時、ぱっと扉が開いた。
「エミリア!」
 部屋に入ってきたのはペトロネラだった。扇子を片手に憤怒の表情を浮かべている。その後ろには慌てた様子のレーネもいた。
「授業をすっぽかしてなにをしているのかと思えば――これはいったい何事ですか。こんなどこの身分とも知れない人間を王宮に入れるなんて!」
 声を荒らげるペトロネラのけんまくひるみながら、リートは慌ててエミリアに囁いた。
「王妃様に言ってなかったの?」
「だって言ったら反対されるでしょ?」
 リートは同意するしかなかった。
 たとえメルヒオルとの共同作戦だと言っても、ペトロネラは聞く耳を持たなかっただろう。
「聞いているんですか!」
 ペトロネラの一喝に、二人は話すのをやめて、またしおらしい態度を取った。
 長々とした説教を聞き流しながら、いつになったら解放されるのだろうとリートが思っていたときだった。
 ノックに続いて、いきなり扉が開いた。
「失礼いたします」
 入ってきたのは、緑の制服を着たハーナル騎士団員たちだった。
 思わぬちんにゅうしゃの登場に、リートとエミリアは顔を見合わせた。
 最初、リートはこれもエミリアが仕組んだことなのかと疑ったが、エミリアの表情を見るに、どうやらそうではないらしい。
 ペトロネラが不機嫌そうに騎士たちをいちべつする。
「何事ですか。ここをどこだと思っているんです」
「ミヒャエルはどこに?」
 そう言った騎士の顔にリートは見覚えがあった。ハーナルの庁舎に行ったときに会った男だ。確かミヒャエルがエドゥアルトと呼んでいた。
「ミヒャエル? 彼がどうかしたの?」
「ミヒャエルの部屋からベギールデの教典が見つかりました。しかも暗号を書いた紙も一緒に。彼らは教典に書いてある単語で暗号のやりとりをしていたのです」
 それを聞いた瞬間、リートの思考は論証をすべてすっ飛ばして、それはありえないという結論を導き出した。
 リートが横を見ると、エミリアは話にならないという顔をしていた。
 リートも同じ気持ちだった。ミヒャエルが犯人なはずがない。
 もし仮にそうだとしても、突発的に殺したならともかく、頭の回転の速い彼が事件の証拠品を処分せず、後生大事に持っているなどありえない。もともと捕まる予定だったという可能性もあるが、リートはその考察を無理やり片隅に押しやった。
 今考えなければならないのはそんなことではない。ミヒャエルが犯人だということになれば、それは一つの可能性を示唆していることになる。
「ミヒャエルはベギールデと通じている可能性があります。それに大聖堂を爆破した容疑もかかっているのです」
 エドゥアルトがそう言うと、ペトロネラがなにを馬鹿なという表情になった。
「ミヒャエルはエミリアの婚約者ですよ。そんなことをするはずがありません。なにかの間違いです。そこまで言うなら、確かな証拠があるんでしょうね?」
 ペトロネラが騎士に食ってかかっている横で、エミリアがリートに囁いた。
「行きましょう、リート」
「でも」
「いいから」
 ペトロネラたちの横をすり抜け、エミリアとリートは部屋を出ようとしたが、その前にエドゥアルトが立ちはだかった。
「どちらに?」
「お手洗いよ」
 エミリアがそっけなく言うと、エドゥアルトは探るような視線を向けた。
「殿下はミヒャエルがどこにいるかご存じなのではありませんか?」
 エミリアはエドゥアルトを睨みつけた。
「仮に知っていたとしても、そんなさんな捜査で彼を犯人扱いする人たちには教えられない。だいたい、どうしてミヒャエルの部屋を捜索したの?」
「爆破の直前に、彼によく似た人間が地下から出てきたと証言した人間がいるのです」
「ミヒャエルはあの日、ずっとリートやルイスたちと一緒にいたのよ。そうでしょ、リート」
 しかし、リートは答えられなかった。自分は本を落とした男を追いかけていて、ミヒャエルとは離れてしまった。しかも再び合流したとき、彼が現れたのは最後だった。 自分にはミヒャエルの無実を証明できない。
 リートがなにも言えずにいると、再び部屋の扉が開いた。入ってきたのは、またしてもハーナルの騎士だった。
 騎士はエドゥアルトに近づくと、何事か耳打ちした。エドゥアルトはうなずき、小声で短く返した。
 エドゥアルトが騎士たちのほうを見る。
「ここはいったん引き上げる」
 それを聞いた騎士たちは、ペトロネラとエミリアに無言で礼をすると、さっさと部屋を出ていってしまった。
 部屋にはリートとエミリアとペトロネラの三人だけが残された(あまりのことに、ペトロネラはなんて無礼なの! と憤慨していた)。
 それと入れ替わるようにトリスタンが部屋に入ってくる。
「ご無事ですか、王女」
「ええ、大丈夫」
 トリスタンが静かに頭を下げる。
「申し訳ありません。彼らに部屋に入るなと命じられたものですから」
 その表情は冷静だったが、声は苦々しかった。
 エミリアがため息をつく。
「仕方ないわ。相手はハーナルの騎士だもの。それより、頼みたいことがあるの。お客様を送り届けてから、できるだけ応援を呼んで王宮の入り口に集めて」
「承知しました」
 トリスタンが短く言い、ベギールデの幹部を促すとすぐに部屋から出ていった。
 ペトロネラが口をとがらせる。
「ちょっとエミリア、あなたなにをするつもりなの」
「お母様はお部屋に戻っていてください。ミヒャエルはわたしが助けますから。レーネ、お母様をお願い」
 エミリアがうんざりした顔でそう命じると、レーネがうなずいた。
「承知しました。参りましょう、殿下」
 不満げな顔のペトロネラがレーネに連れられて下がると、リートはやっと口を開いた。
「いったいなにが起きてるの? ミヒャエルが犯人だなんて」
「どういうことだと思う?」
 エミリアに問いかけられて、リートは考え込んだ。答えは一つしかない。
「……嵌められたの? でも、いったいだれに?」
「それはあとで考えることね。とりあえず、わたしたちはできることをしないと」
 冷静な口調とは裏腹に、エミリアの顔には珍しく焦燥がにじんでいた。
「このままじゃあの二人、戻ってこられなくなるわ」

 ルイスは当惑の表情を浮かべてミヒャエルを見ていた。
「なにを言っている。おまえが犯人だと?」
「今日の午前中、イェンスの遺体が発見された。全身めっ刺しで、死因は失血死だった。おそらく、イェンスは手足を縛られた上で拷問されてから殺害された。だがハーナル支給の短剣は持っていなかった。わたしが今持っているこれだ」
 そう言ってミヒャエルは、イェンスの短剣をルイスに見せた。
「わたしがイェンスを殺した。これを持ってここにいるのがなによりの証拠だ」
「待て。わたしたちは偶然ここに居合わせただけだぞ。どうしてそんなことになるんだ」
 ミヒャエルは乾いた笑みをルイスに向けた。
「今頃ハーナルは総動員でわたしを捕まえようと探してる。だから彼らはここに来たんだ。嵌められたんだよ、わたしは。どうやらこの一件、なにもかもがベギールデに筒抜けらしい」
 ミヒャエルはルイスのほうを見た。
「おまえを連れてきておいて正解だった。メルヒオルのけいがんには恐れ入る」
「どういう意味だ」
「向こうはわたしが一人で潜入すると予想してたのさ。わたしを消すためにな」
 一瞬、沈黙が二人のあいだに流れた。
「おまえは一人でここから出ろ」
「なにを言ってる?」
「向こうはわたしを探してるんだぞ。わたしが囮になれば、おまえはその隙にここから出られる」
「二人で脱出すればいい」
 ミヒャエルが首を振る。
「生きて帰れたとしても、わたしはイェンスを殺した犯人に仕立て上げられる。証拠も動機も、権力があればあとでいくらでもげられるし、ねつぞうできる。もう盤面は詰んでるんだよ。わたしの初手がまずすぎた」
「そんなことを言ってる場合か。反省なら帰ってやれ」
「反省じゃない。これから現実に起きることだ。ベギールデと通じているのはおそらく閣僚級の貴族だ。ハーナルでは太刀打ちできない」
 ミヒャエルはいらち交じりにそう言うと、整えられていた髪をかきあげて乱した。
「だからおまえはさっさと行け」
 そう言ってミヒャエルはルイスに背を向けようとしたが、その瞬間、ルイスに腕をつかまれた。その力の強さにミヒャエルは顔をしかめた。
 ルイスの喉から低い声が漏れる。
「……昔から、おまえのそういうところが気に入らない」
「ほとんど話したこともないだろう」
「ないが、会えばいつも気に入らないことばかりだ。試合のときだってそうだ。わたしと本気で戦おうとしなかった。今だって最初から諦めている。なぜ最初からそうやって決めつける?」
 ルイスがまっすぐにミヒャエルを見つめる。
「おまえが諦めても、わたしが諦めることを許さない」
 ミヒャエルがあっにとられた顔になる。
「おまえは平然ととんでもないことを言うんだな」
「なにがだ?」
「しかも無自覚か」
 ミヒャエルのつぶやきを無視して、ルイスはまた口を開いた。
「おまえの帰りを待っているミリィやリート、それにガブリエレのことを少しは考えろ」
 ミヒャエルは口を開こうとしたが、その前に飛んできた声で遮られた。
「ミヒャエル様!」
 現れたのは、制服姿のアルフォンスだった。
「団長とメルヒオル様が先手を打って、あなたがベギールデに潜入していると陛下と閣僚に発表なさいました。これで消されることはないはずです」
 しかし、ミヒャエルはため息をついただけだった。
「無駄に逃げ回っても結末は変わらない」
「先のことより、今は捕まらずにすんだことを喜んだらどうだ」
「そんな楽観的にはなれないな。無事に王宮までたどり着けるかどうか――」
 ミヒャエルがそう言うと、ルイスがなぜか呆れた顔になった。
「そんなことを心配していたのか? 正面から入れるに決まっているだろう。むしろ正面から入らないと危険だ」
 ルイスが掴んでいたままだった腕を放し、ミヒャエルを見た。
「行くぞ、ミヒャエル」